■第二十二夜:目覚める獣性
※
さて、インクルード・ビーストという単語を憶えているだろうか。
かつてトラントリムとその周辺諸国に君臨した暴虐なる王:バラクールが、聖獣と定めた異界・異形の獣である。
巨大なものは大型の軍馬を優に超える体躯と重さを。
さらには、純白の体毛に甲冑のごとく発達した外皮をも備える。
もちろん、そのすべてが現実の猛獣をはるかに凌ぐ、恐るべき戦闘能力と殺戮衝動の持ち主たちだ。
なにより、一体として同じ姿を持つものはなく──人類と交配することで内包する因子を播種する一種の来訪者型侵略者である。
いつこの世界に生まれ、どこに起源を持つ生き物なのか一般的には知られていない。
しかし、アシュレたちはトラントリムでの経験と夜魔の騎士:ユガディール、そして、地の底に隠されていた巨大な《フォーカス》:ログ・ソリタリとの戦いのなかで、その正体に肉薄していた。
これはつまり、一種の《門》であるログ・ソリタリによって産み落とされた“庭園”の落し仔。
あるいは、無精卵と言ってもよい。
この世界にばらまかれ、人々のなかに密かに息づく“接続子”が汲み上げ、“庭園”に集められた《ねがい》の滴り。
まあ、形容は好きにすれば良いのだ。
大事なことは、彼らこそは人智を超えたテクノロジーによって産み落とされ、人類を《ねがい》の通りに物理的に改変して回るという狂気の存在だ、ということだ。
人体改変用の仮想数式群と“庭園”上での仮想実験用デバイス群が暴走し、現実の存在として受肉してしまった成れの果て。
こんな表現で伝わるであろうか。
つまり、半分はたしかに生物だが、ほとんど半分は旧世界の悪夢で構成された存在だと思ってもらって間違いない。
それが二体、そっと、船倉の暗がりで息をついた。
場所?
もちろん、アシュレたちの乗艦の。
僭主であっただけでなく、結果的にはインクルード・ビーストたちの影の支配者でもあったユガディールがこの世を去ったあと、獣たちは現実の側に取り残された。
もちろん、相当数をアシュレたち戦隊は討ち取ったし、そのあとに続いた“砂獅子旅団”も同じくだ。
しかし、進駐したオズマドラの駐留軍は、トラントリムとその同盟国の各地でインクルード・ビーストの襲撃に悩まされていた。
ユガディールの見せていた夢から醒めたように国民たちの多くは恭順の意を示したわけだが、この獰猛かつ邪悪なる夢の構成体である獣と、それに操られた孤立主義者たちは違った。
むしろ、ユガディールという支配者を失い、各個が己の欲望と《ねがい》に忠実になった。
ある意味でアシュレたちの行いは、この獣たちを解き放ってしまった、というわけだ。
だからいまやインクルード・ビーストたちは誰に命じられたわけでもなく、本能のままに人類に襲いかかる。
もちろん、人類と同等かそれ以上の知性は保ったままで。
そう、たとえば己の生体機能そのものを一時的に凍結し、精巧な剥製のように振る舞うことで死を偽装さえもして。
成獣だとするなら小型な、しかしとりわけ獰悪な二体の獣は、侵略戦争の戦利品であり貴重な生物の標本として、どういうわけか船倉に潜り込んだのだ。
なぜ、どうして、どうやって。
それはわからない。
彼らの本能が《スピンドル能力者》たちの血を求めるのか。
であれば、あるいは人類の意識を操作し配下に収める生来の特殊能力を用いての侵入か。
それとも擬装用の交易品を用意したルートに孤立主義者たちの息がかかっていたか。
もっと直接的に警備のスキをついて、自ら乗り込んで来たのか。
ともかく、港を出立した帆船が簡単には陸地に戻れない距離まで離れるまで、インクルード・ビーストたちは狡猾にも息を潜めていたのだ。
そして、狩猟者としての本能が、彼らに目覚めを促した。
みしり、めきり、と施されていた梱包を破壊して、彼らは船倉へと転び出る。
彼ら自身という狂った悪夢を地上に降ろすために。
※
そんな獣たちが物語に介入するすこし前。
「ひゃ、う」
エルマの去った船倉でスノウは震えていた。
カロリ、と伸ばした指が空き瓶に触れて音を立てる。
「な、なんで、なんでなんで……ぜんぜん、ぜんぜん治まらないのっ、なんでっ」
エルマが立ち去るやいなや、スノウはカゴのなかの霊薬を探り当て、ラッパにあおるだけでなく、全身に塗り込んだ。
もう完全に限界だったのだ。
だが。
「どういうことっ。どういうことなの?!」
なにが間違ってたの?
混乱して、錯乱して、スノウは暗闇のなかで空き瓶をつかんでラベルを確かめる。
夜魔としての知を半分受け継ぐスノウは純血種ほどではないにせよ、こんな暗闇でもそれなりに見通せるのだ。
紅蜘蛛噛枕百花繚乱♡──とそこは達筆で記されている。
土蜘蛛たちの言語である。
「ぜ、ぜんぜん読めない!」
しかし、末尾に記された♡マークから、なんとなく意味は察するスノウだ。
まさか、と瓶を取り落とす。
「まさか、これ……解毒剤じゃ、ない?!」
「あらあら、やっぱりそうでしたのね。飲んでしまわれていたのですね?」
出し抜けに頭上から声がした。
笑みを含んだどうしようもなく楽しげな声の主は、もちろん。
「エ、エルマッ!! いつからそこに?! だ、だましたのね?!」
もううまく制御できない肉体を敷布にしていた麻袋からムリヤリ引き剥がして、スノウは叫んだ。
「だました、だなんて人聞きの悪い。ちょっと解毒剤とおクスリを間違えただけですの。そっちは素直になってしまうほうでしたわ。でも……普通のヒトだったら手を出したりしないでしょうから大丈夫だと思ったんですけれど……やっぱり、普通ではなかったみたいですの、スノウさん」
「な、なんだとっ! じゃあ、やっぱり、わたしに毒を渡したのかっ?!」
「だーかーらー、そんなにムキにならないでくださいまし。だいたい、最初に嘘をついたのはスノウさんですの。勝手に大人の飲み物に手をつけた罰です。そのあとも、心配して、なんどもなんどもわたくし訊きましたのに。手遅れになっちゃうからって……それなのに」
「そっ、それっ、それわっ」
「しかたないから、カマをかけたんですの。素直にならないスノウさんが悪いんですのよ」
「そんな、そんなっ」
わざとらしくエルマが呆れて見せる。
もちろん、スノウの状況は始めからわかっていたエルマのことだ。
しかし、ここまで思いきりよくことが進むとは思っていなかっただろう。
袖で隠した笑いを噛み殺す口元が、震えている。
いっぽうで、スノウのほうはと言えば、もはや呂律があやしい。
「げ、解毒してっ、は、はやくっ」
「そんな頼み方ではイヤですのー」
というより、こんな面白い見せ物をどうしていま止めることが出来ましょうか(反語)、とエルマは目を三日月型にする。
こ、コイツ本当に味方なのか、とスノウはうめく。
しかし、クスリの効き方は劇的だ。
両腕で肩を抱いて、スノウは転がる。
「お、おねがいっ、は、やく、おねがいしますっ」
「んー、まず順序から言って、そこはごめんなさい、でしょ? 盗み飲みしました、嘘を繰り返しつきました」
スノウの喉から漏れた懇願を一蹴して、エルマは言った。
あううう、とスノウは泣かされてしまう。
「う、うそをつきました! ぬ、盗み飲みしました! と、止められたのに、言いつけを破りましたっ!」
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
「だからっ、だから、はやく!」
「ううん、まだ、ほんとうのことを言ってないですぅ、スノウさん」
「ほ、ほんとうのこと? なにを、これ以上なにを?!」
自分としては精一杯、これまでの行いを掘り下げて反省して見せたはずなのに。
まだまだ、と突っ込まれてスノウは狼狽した。
なに? ほんとうのこと、なに?
涙と唾液にまみれ、身悶えしながら、スノウは訊く。
いまや肉体が起こしている反応は重度の病に近い。
それなのにエルマは尋ねるのだ。
「ほんとうにわからないんですの?」
「わ、わからない! わからないぃい! わからないっていってんの!」
あらあら、とエルマは大仰に驚いて見せる。
困りましたわ、とアゴに手をやる。
もちろん驚いてもいないし、困ってもいない。
楽しくて仕方がないのだ。
だから、ことさらもったいをつけて、ゆっくりと一語一語を噛み砕くようにして、言った。
「だれを想ってそんなに苦しくなっているのか、ですわ」
「ひっ」
反射的にスノウの喉から悲鳴が漏れた。
エルマが質問を言葉にした瞬間、頭のなか一杯に、あの男の顔や匂いや仕草や声が鮮明になってしまったからだ。
「あらっ、心当たりがあるんですのね?! だれっ、だれですの?! 聞かせてくださいまし!」
ついに核心を突くことに成功したエルマの声には、隠しようもない喜悦がある。
いっぽうで、スノウの叫びはもはや絶叫に近い。
「言えない! 言えない! 言えるわけがないッ! 言えるわけないでしょッ!!」
「あらあら、それじゃあ、解毒剤は渡せませんわ」
「ぐううううー!」
エルマはスノウの状態からすぐに陥落するものだと思ったらしい。
しかし、スノウは強情だった。
泣きながら必死に頭を振って、耐えようとした。
抵抗は四半刻にも及ぶ。
これにはさすがのエルマも唸るしかなかった。
いまスノウが飲み干した薬剤は、ちょっと盗み飲みしたのとは摂取量も濃度も違う。
適当なところで解毒するなりなんなりしてやらねば、本当に取り返しのつかない状態になる。
「強情さんなこと。仕方ありませんわね……もうちょっと素直になって頂きたかったんですけれども、うら若き乙女の未来をメチャクチャにするのも良くありませんし……」
ついにエルマが折れた。
これまでの流れで充分に娯楽としての元は取った、という感じなのであろう。
袖を探り、胸元を探り、解毒剤を探す。
その様子を息も絶え絶えという感じで床に転がったスノウの瞳が捉える。
やっと、やっと、あの夢から解放される。
そんな思いで、息をついた瞬間だった。
「あら……あららららら。ごめんなさい、ほんとうに切らしてしまったみたいですの、解毒剤」
「んんんんんんん〜ッ?!」
胸をはだけ、両袖を振りながらエルマが真顔で言った。
スノウの喉からは声にならぬ叫びが漏れる。
「どうしましょう」
嘘だろ、おいっ、と目を見開いたスノウに、エルマが訊いてくる。
「どう、しましょう、って……な、なんとか、なんとかならないの?!」
「霊薬の材料ならあるんですけれど……作るのに一週間くらいはかかるんですの」
半笑いで言うエルマ。
ひいいいいっ、とはスノウ
「げ、解毒の異能、な、ないのっ?!」
「うーん、そのへんのことをわたくしに言われましてもねえ。薬剤によって短所を補うのが土蜘蛛の種族的な特徴ですから……それに、ここ《スピンドル》が回りにくいんですのよ」
治療・回復系の異能は、メチャクチャ代償かかりますし。
「どうにか、どうにかっ、してっ、は、はやく!」
壊れるっ、こわれちゃう! スノウの訴えにはもうまったく余裕がない。
とっくに限界を振り切っているのだ。
「うーん、どうしましょうか……あ、そうだ!」
いいこと思いつきましたの! とエルマが叫んだ。
な、なんでもいいから早くっ、とスノウも叫び返す。
「スノウさんの窮地を救えそうなヒトを呼んできますわ! その方の前でしたら、きっと素直になれると思いますの! そしたら、満願成就で問題解決ですわ!」
「?!?!?!」
まったく予想外の、完全に斜め上をカッ飛んで行く論理的飛躍に、スノウはのたうち回った。
「なに?! なにそれっ、どどど、どういうことなの?!」
そして、転げ回るスノウに対し、にやーり、とエルマは笑みを広げる。
「ちょっと待っててくださいましね? いーま連れてきて差し上げますからね?」
「ちょっ、だれっ、だれおっ、だ、ダメッ、ダメッ、ダメッ!」
選択肢的には、治療・回復系となるとカテル病院騎士団のあの男が筆頭であっただろう。
しかし、このときのスノウには奇妙な確信があった。
違う、と。
絶対に、違う。
だって、だって、だって──絶対に、いまここに来られたらスノウが一番困る男をエルマは連れてくる、というそれは確信だ。
そのとおりのことをエルマは行う。
「だいじょうぶですの、なんとかして、アシュレさまひとりだけを、こっそり連れてきて差し上げますの」
ダメーッ!! というスノウの絶叫は人語の領域を外れ、すでに追いつめられたケダモノの咆哮に近かった。




