■第二十一夜:密航者と解毒剤
※
「スノウ。キミはいけないコだ。子供は見てはいけないってあれほど言ったのに……見ていたんだね?」
どこか諦めを感じさせる声で、その男は言った。
スノウはなぜかひとりで、見知らぬ場所で、手足を太い鎖に縛されている。
横たえられ、抵抗する術を奪われている。
寒くはないのに、震えが止まらない。
震えが止まらないのに、全身が熱い。
これは尋問だ。
いつもの。
「み、見てない、見てない!」
反射的な否定が口をつく。
こまったな、と男が溜息をついた。
「そのうえ、嘘をつくなんて」
見抜かれていた。
そうだった。
嘘なのだった。
スノウは見てしまったのだ。
でも、そんなこと言えるわけがないじゃないか。
そんなスノウの葛藤を見抜いたように、男は言った。
「キミが正直になるまで、解放できない」
こまったな、ともう一度。
スノウを組み伏せるようにのしかかってくる。
熱を感じた。
沸き立つ鋼のような匂い。
吐息が剥き出しの首筋にかかる。
自分がいま、ほんの申しわけ程度の薄絹しかまとっていないことをスノウは意識してしまう。
指が、触れる。
たったそれだけで電流を流されたかのような衝撃が全身を走り抜ける。
生理的な嫌悪であれば、どれほど救われただろう。
鼓動が早鐘を打ち、呼吸が早まる。
男はスノウの反応に、触れていた指を離す。
それから、あとわずかの距離を保ちながら言うのだ。
「キミには正直さが、必要だと思う」
耳朶に囁きかける。
男は言葉でうながしただけなのに、スノウの瞳はみるみる潤んでしまう。
全身を走る震えは、もう痙攣と言っていい。
「なんで、どうして、こんな──こんな」
追いつめられたスノウの言葉は、すでに濡れている。
「どうして、こんなひどいことをするの──」
自分の訴えが支離滅裂なのは、スノウだってもうわかっているのだ。
男はまだ、なにもしていない。
「素直になれないキミは、とても苦しそうだ」
残酷なくらい優しい声で男が言う。
提案する。
もしよければ、と。
「手伝おうか」
そして、笑うのだ。
くすくす、と意地悪に。
「ひどいよ、ひどいよ──こんなに、こんなにしたの、あなたじゃない、あ、あなたのせいじゃない」
「ボクの、せいなんだ?」
それはそれは、と男はまた笑った。
「なおのことだね」
でも、と逆接する。
そんな、とスノウは震える。
言われてしまうのではないか、と恐怖して。
いま、いちばん言われては困ることを言われてしまうのではないか、と。
そして、その怖れのとおりに、男は言うのだ。
「でも、キミを素直にしていいかどうかの許可は、キミ自身にもらわなければならない。ボクは無理強いはできないんだ、女の子には」
ひいっ、と男の言葉に耐えきれずにスノウの喉が鳴る。
「答えられないのかい」
男が訊く。
「ずるいコだね、スノウは。とても手加減できそうにないよ……もし、素直にすることが許されたなら」
男の言葉に、スノウはあってはならない想像をたくましくしてしまう。
がくがく、と手足が震えて、全身に鳥肌が走る。
「頷くだけでも、いいよ。特別だ」
キミは、朦朧として首を縦に振っただけ。
そういうことにしてもいい。
男の囁きは悪魔のような誘惑だ。
こんなの、こんなの──耐えられるわけがない。
素直にされずに、いられるわけがない。
そう気がついて、スノウは、スノウは、
※
「──ダメッ!」
叫びながら、スノウは飛び起きた。
周囲は真っ暗闇。
にわかにはここが現実なのか、夢の続きなのかを把握できない。
ただ、独特の湿った空気と逃げ場のない臭気のせいで、なんとかここが船のなかなのだと認識できる。
「ま、またあの夢──」
口から飛び出しそうな勢いで早鐘を打つ心臓を押さえてスノウは呟いた。
ここ数日、微睡むたびに見る夢だ。
見知らぬ男に自由を奪われ、本心を語るように脅迫される夢。
いいや、相手の男がだれなのかは、じつはもうわかっている。
もちろん、その男にスノウを脅迫するような度胸が……いや、そういう性根の持ち主でないことも知っている。
ただ、認めたくないだけなのだ。
「ちがう、ちがう。わたしはただ、アイツがちゃんと責任を取るかどうかを監視しに行くの。わたしたちの暮らしを、祖国を蹂躙したくせにその責任も取らずに次は別の街を攻略するだなんて、許せるわけがない! 許せるわけがないでしょ! だから、だから、見張るの!」
目覚めるたびに襲いかかってくる胸の奥の切ない痛みの正体を、そうやって定義づけることでスノウはいま、なんとか正気を保っている。
自分の行動原理を自分で毎日いくども承認しなおして、なんとかここまでやってきた。
つまり、いかにして我、密航者になりしか、という話である。
そして、その密航者の頭上から、あきれたような、しかしどこかに笑みを含んだ声で女が言うのだ。
「ずいぶんと苦しそうですけれでも……ほんとうに大丈夫ですの? あと……なんだかここ、獣臭いですわ。なにかしら、このニオイ。スノウさんってこういうワイルド系のにおいでした?」
弾かれたように見上げれば、淡い燐光が帯になって降りてきた。
スノウは頬杖をついて苦笑を浮かべる女の姿を認めることができた。
不思議な異国の巫女装束に身を包み、積み荷の山に腰かけて微笑むのは、ほかにだれあろう土蜘蛛の姫巫女:エルマである。
「ち、ちがうし! それに、く、苦しくなんか、ない!」
気づかうようなエルマの声に子供扱いされた気がして、スノウは反論する。
「だといいんですけれど。あの晩から、どうもおかしいんですの。スノウさん、ほんとうにおクスリの入ったお酒、飲んでないんですのよね?」
もう何度目になるか、エルマが問うた。
人類圏のお伽噺においてシャレにならない悪戯を行う妖精の元型としての土蜘蛛にしては非常に良心的な手法を、あの晩、エルマは採択した。
笑顔の下にアスカが押し込めた本音を吐き出させるためである。
心の枷を甘くするクスリを、食事にではなくぶどう酒に混ぜたのは、同席するスノウを対象外とするためだ。
案の定、良識派のアシュレに背伸びを止められスノウはむくれたわけだが、ともかく共犯者であるアテルイ以外には意図を悟られることなく、エルマの描いた絵図のとおりに事態は進行したはずだった。
だったのだが。
「な、何度目よ、その質問! の、飲んでるわけないでしょ!」
「でも……あの晩以来、スノウさん、ものすごく苦しそうですの」
「こ、これは、あれよ、ちょっと、ちょっと体調が悪いの! そう、船に酔ったの。ふ、船酔い。船酔いよ!」
苦しい、あまりにも苦しいスノウの言い訳に、エルマはまったりと笑う。
じつは、あの夜の時点で、エルマだけはスノウの変調に気がついていたのだ。
というより、盗み飲みするところさえも完全に目撃していた。
だが、止めることも、咎めることもしなかった。
アシュレやノーマンあたりなら頭から湯気が出るほど怒ったかもしれないが、そこは土蜘蛛の女だ。
どうするのかな、と思ったのである。
それどころか、意中の男に夜這いをかけるなら協力する気でさえいたエルマである。
そして、スノウのその後の行動はエルマの期待の上を行く大胆さであった。
なんと翌朝、直談判に出たのだ。
だれに?
アシュレに。
自分もヘリアティウムに連れて行け、と。
随伴させろ、と。
もちろん、アシュレはこれを即座に却下した。
当然の判断であろう。
いまから二十万の大軍勢が、それも最新式の大砲を擁する大軍団が押し寄せようとする場所へ《スピンドル能力者》でもない少女を連れて行くような男がどこにいる。
こんこんと説いた。
将来あるスノウには、この件にはなるべく関わって欲しくないのだと。
本心である。
だが、対するスノウの反応は劇的であった。
猛然と食ってかかったのだ。
「アンタが、アンタたちが、そうしたんでしょ!」と。
つまり、それまでトラントリムが浸っていた偽りの演出されたものではあったとしても──平穏を破壊し、夢を醒ましたのはアシュレではないか、と。
「そのアンタがなにを為そうとし、どう生きるのかをわたしには見届ける義務があるの!」
なるほど、一応の理は通ってはいる。
だが、とうてい受諾できない理屈をまくし立てるスノウにアシュレは珍しく断じた。
有無を言わせぬ厳しい口調で、彼女の両肩を掴んで。
「ボクを悪者にしたいなら、そうすればいい。実際にボクはもう悪党だ。それは仕方ないし、正当な評価だ。でも」
でも、キミは生きろ──未来を生きてくれ。
まっすぐエメラルド色の瞳を覗き込んで言うアシュレになにも言い返せず、かわりに傍目にわかるくらい顔を紅潮させスノウは走り去った。
「これでいい」
事態は収束した、と思ったのだろう。
アシュレはそうひとこと呟いて、出立の準備に戻ったのだ。
甘かった。
そう、全然、収束などしていなかったのである。
おもしろいことになった、と思ったのはたぶん、一行のなかでエルマだけであろう。
案の定、その夜、スノウは密航を企てた。
ものすごい猪突猛進な娘さんである。
そんなあぶなっかしい単独隠密作戦に、エルマは助け船を出した。
「アシュレさまは昼間、あんなふうにおっしゃいましたけれど、わたくしは恋する乙女の味方ですわ」
「こ、恋なんかじゃないし!」
「しいっ、おしずかに。なんでもいいじゃありませんの。こんなご時世ですもの、どこにいたって死ぬときは死ぬ。せめて思い通りに生きなければ、損ですわ」
「わ、わたしはただ、アラムの軍勢に支配されるのがイヤなだけよ! わたしたちの国をめちゃめちゃにしたんだから、アイツには責任を取る義務があるんだわ!」
「……強情ですこと」
「なにかっ?!」
「いいえなにも」
とまあ、そんなわけで、エルマという共犯者を得て、スノウの密航者生活は始まった。
船旅は数日。
特別な任務を帯びている性質上、船が寄港するのは終着点であるヘリアティウムだけ。
取って返すのが不可能なほど沖合に出てしまいさえすればあとはなんとでもなる、とスノウは考えていたらしい。
土蜘蛛の姫巫女の助力も得て、その企みはほとんど成功したつもりでいた。
ところが、だ。
例のクスリの作用を甘く見積もり過ぎていたのだ。
気がついたときには遅かった。
効果は薄れるどころか日増しに強まっている気がする。
どうしたらいいのか、スノウにはもうまったくわからないのだ。
そして、強情な半夜魔の娘が、認めがたい想いに煩悶するさまは土蜘蛛の女であるエルマにとって最上級の見せ物であった。
「まあ、スノウさんが船酔いだとおっしゃられるなら、そうなのでしょう」
荷物の上で、今日の分の差し入れを入れた編みカゴを準備しながら、エルマは言った。
「ですから、これは独り言ですの。あの日、わたくしが処方した素直になるおクスリ。あれは、経口でも肌からでもすみやかに浸透して、肉体に継続的に作用いたしますの。そして、効果を受けた場所の心を伝達する経路を広げたり、新たに作り上げてしまうんですの」
ですので、
「服用後、適切なところでちゃんと想いを遂げるか、解毒薬を服用しないと……ほんとうに取り返しのつかないことになってしまいますのよ。心がメチャクチャになっちゃいますの」
カゴにロープを結びつけて下ろしながら、エルマは呟いた。
びくんっ、と飛び跳ねたスノウを横目に含み笑いを噛み殺す。
いっぽうで、スノウのほうはそんなエルマの表情に気を配る余裕などなかった。
「う、うそっ」
「うそではありませんの。だって、わたくし、そうされてしまいましたから」
土蜘蛛の凶手としてのエルマの過去までは、スノウはほどんど知らされていない。
しかし、大勢の見張りの目を掻い潜り、やすやすと自分の密航を成功に導いてくれたエルマだ。
ただならぬ人生を歩んできたであろうことだけは感じていた。
だから、そんなエルマの言葉は、言い知れぬ凶手としての過去を推察させるに充分だった。
「まさか、とは思いますけれど……解毒薬、そのカゴに入れておきましたわ」
降ろされてきたカゴを掴み、固まったスノウにエルマは微笑む。
「夜魔であるシオンさまには効果などないでしょうけれど。人間の血を半分引くあなたのような方の場合……夜魔の完全記憶の種族特性が不完全に受け継がれていたりすれば……一生、その想いから抜け出せなくなるかもしれません」
「抜け出せなくなる……」
「狂っちゃう、ということですわ」
どうしたら、とスノウは思う。
その心を読んだかのように、エルマは答えた。
「素直になること、ですわ」
解毒剤も飲んだり、塗ることで効果が現れますよ。
微笑み、用法を言い残し、エルマは立ち去る。
その姿が消えても、スノウはしばらく固まったまま動けないでいた。




