■第二十夜:震える血
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「そなた……なにか、感じぬか?
暗闇のなかでシオンが言った。
ヘリアティウムへと向かう中型帆船内部でのことだ。
日数的には、イズマとの再会を数日ほど遡ることになる。
航海は極めて順調だが、カテル病院騎士団のエポラール号ほどの居住性など望むべくもない空間にアシュレとシオンはいた。
光と音とを締め出す夜魔の闇の帳を張り巡らせたそこで、アシュレはシオンのぬくもりを甘受している。
下方からゆうらりゆうらり、と波のうねりが感じられる。
不届き者がこの空間に踏み込んだところで目と耳を塞がれ困惑するだけだが、いまのアシュレの瞳は、はっきりと世界を認識できている。
シオンとの心臓共有が引き起こした夜魔の特性の獲得は、現在も進行中だ。
「どうだろう……ボクに感じられるのは……キミとキミが噛んだ傷の痛みだけだ」
微睡みかけていたアシュレは、ぼんやりと言った。
もし、だれかアシュレやシオンと同じくこの漆黒のカーテンの内側を覗くことができたなら、アシュレの肉体に残る塞がりかけた無数の噛み跡を見ることができただろう。
旅立ちの日まで、アスカとアテルイにアシュレを独占されてしまったシオンの反撃であった。
精神を護る宝冠:アステラスも梱包されている現状、彼女自身の想いに歯止めをかけることができるのは、シオンの理性以外にはないのだ。
「がまんしたのだからな! がまんしたのだからな!」
と、言われながら噛まれた。
本人的には甘噛みなのだろうが、夜魔の犬歯は鋭い。
というわけで、本日で二日目。
この執拗なカミカミ攻撃はヘリアティウム到着直前まで続くのだが、まあ激しく余談なので全面的に割愛する。
「バカッ、そうではない! そういう意味ではない!」
アシュレの回答にシオンが噛みついた。
物理ではないほうの噛みつきである。
「なにをとんちんかんなことを言っている!」
「いや、だって、キミが噛むから……すぐ治るけどけっこう痛いんだよ」
アシュレはまだ新しい咬み傷を指しながら答えた。
「そんなもの、この数日、わたしが感じていた心の痛みに比べたらどうということもあるまい! そなた、釣った魚にはエサをやらんタイプか? それとも焦らしのテクニックか? なんにせよ許しがたいことだぞ!」
「えーっと、そういう話だったっけ?」
アシュレ自身、要点を見失いそうになって目頭を揉んだ。
「ちがう。そうではない! 感じぬか、というんだ」
「そうだった。でも、なにを? なにを感じるの?」
アシュレのナチュラルな返しに、むう、とシオンが頬を膨らませる。
「まだ、そなたにはこの《ちから》は早いか。血だ、血の共振だよ」
シオンの口調が神妙さを帯びる。
血の共振──その単語に、アシュレの意識は一気に覚醒した。
それは夜魔の持つ同族を関知する種族的な能力のひとつだ。
カテル島で夜魔の騎士たちを迎え撃つときにもシオンのそれには随分と助けられたのだが……まさか、こんなところでか。
後を襲った阿鼻叫喚の地獄を思い出し、アシュレは身を起こした。
冷たい汗が噴き出るのを感じた。
「いるの? 感じるの、夜魔を」
「うむ。じつはこの船に乗り込んですぐにも微妙に気配を感じたのだが……そなたのものか、船乗りのなかに旧トラントリム出身者でもいるのか、と思っているうちに感じなくなったのだ。トラントリムは……ほら、夜魔の血にゆかりのある者も多かったではないか」
だから、あまり神経質になり過ぎるのも良くない、とは思ったのだが……。
「それが?」
「いる。いま、この真下あたりに、いるのを感じる。強くはないが……」
まずいな、とアシュレは呟いた。
大王の命によりトラントリム大守代理を一時的に務めるべく進駐してきた大臣のひとりが、暗殺された事件をアシュレたちも聞き及んでいる。
トラントリムとその周辺の小国家連合は、インクルード・ビーストを使役する旧王党派との戦いの歴史に彩られてきた国家群だ。
ユガディールの死とともに、人々の脳裏に巣くっていた“血の貨幣共栄圏”という幻想は消え去ったが、しかし、それがいったいどれくらい徹底したものだったのか、アシュレたちは検証したわけでもない。
自爆を恐れぬ純血主義者、あるいは夜魔の騎士=白魔騎士団の残党が紛れ込んでいる可能性も皆無とは言えない。
「たとえ下級の夜魔とて、こんな限定空間で手下を増やされたらただでは済まん。わたしたちを倒すことはできなくても、船をどうにかすることぐらい簡単だ。そなた、海水浴は得意か?」
夜魔一流のジョークを飛ばしながらも、シオンも行動を起こした。
ワンピース型の下着の上に外套をまとう。
アシュレもズボンに足を通し、シャツを引っかけた。
「《フォーカス》は」
「主戦級のものはすべて梱包済みだ。再偽装の手間を考えると、うかつには開けられん。船内にいらぬ動揺を広げたくないし、正体を明かしてしまうわけにもいかん。なんだか、《ちから》の感じ方にひどいムラがあるが……いまのところ、夜魔の血の反応は弱い。下級であるか、半夜魔か。なんにせよ、わたしとそなたがいればそうそう遅れは取るまいよ」
言いながらシオンは守り刀であるシュテルネンリヒトをかざした。
アシュレも護身用に新調したスモールソードを掴む。
シオンの外套の下から使い魔のコウモリ:ヒラリが飛び出し、アシュレの頭にしがみついた。
静かにドアを開ければ、船内は静まり返っている。
波のうねりと潮騒、風、それから当直たちの足音、船体のきしみ。
「そなたは、エルマを起こせ」
「わかった」
「色仕掛けには厳重注意だぞ」
昔日の経験から、シオンはひとこと付け加える。
「そんなことにはなりません」
カテル島でのことを思い出し、アシュレは半目で答えた。
ふたりは別行動に移る。
シオンは階下の船倉を。
アシュレはエルマを起こして増援とするために。




