■第十八夜:誰がために
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「どうした、アシュレ。心、ここにあらず、という顔をしているぞ」
シオンにそう指摘され、アシュレは回想にはまり込んできたことに気がついた。
「アスカ殿下のことを考えていたのか」
よほど虚を突かれた顔をしていたのだろう。
お見通し、という感じでシオンが微笑む。
「うん。じつは」
ふう、とシオンが息をつく。
「気持ちはわかる。だが、いまは目の前のことに傾注しろ。あの夜、そなたがアスカ殿下に誓ったことを成し遂げるためにも、この作戦は絶対に成功させねばならんのだからな」
夕映えに染め上げられていく街並みを見上げながら、シオンはそう諭した。
まったくだ、とアシュレも思う。
“もうひとつの永遠の都”:ヘリアティムは、別名:千の塔の街とも呼ばれている。
もちろんそれは誇張に過ぎないのだが、それでも二百を超える教会や寺院の塔が立ち並ぶさまは、壮麗を超えて偉容と表現するのが正しいだろう。
アシュレたちはいま、その街の深部へと続くゴールジュ湾を小舟で遡っている。
オズマドラ領からの交易船を装っての入国は、驚くほど簡単に許可されてしまった。
数千年もの間、交易拠点として東西の文化の橋渡し役を努めてきた街だからこそ、と考えるのはいくらなんでもヒトが良過ぎるだろうとアシュレは思う。
「いまだ宣戦布告がなされていないとはいえ……どうもこの国の連中からは緊迫感が感じられない。不思議を通り越して、不気味ささえ感じるな」
シオンも平時のままの活気をみせる街並みに、同じ思いを抱いたのか、そう感想した。
「まさか東方の騎士と呼ばれた皇帝:オズマヒムが、先に条約を破棄してくるとは、考えもしないのか。あるいは、なにがあろうともヘリアティウムを攻めるものはいない、仮にいやいたとしても、決して陥落したりしないと信じているのか……」
アシュレも考えを口にする。
シオンがあいまいに頷く。
「アスカ殿下の話にも出てきたな。我を失わせるなにかが、この街を守護していると」
黄昏色の水面を、荷物を満載した小舟は滑るように進んでいく。
そんな光景のなかにいると、ここがもうすでに夢のなかであるかのように感じられる。
いま自分たちは、物語のなかの風景にいる。
ふと、そんな妄想が脳裏を過る。
いましがたシオンにたしなめられたばかりだけれど、やはりどうしてもアスカのことを考えずにはいられない。
「父上は、父さまは……わたしを、英霊に奉ろうとしているのだ」
あの夜、そう言って泣きながらアスカはしがみついてきた。
どうしたら、わたしはどうしたらいいんだ。
子鹿のように震えて、溺れる者のように必死に、強く。
「アスカ、違う。彼は、オズマヒムは、キミの父君は、真騎士たちに操られているだけだ。奴らは彼の罪の意識につけ込んで──自分たちに都合の良い繰り言を吹き込んだんだ」
鋼でできた鞭のようにしなやかな肉体を同じく強く抱き返しながら、アシュレは否定した。
ちがうちがう、とアスカは頭を振る。
涙と汗が飛沫になって飛び散る。
「わかる、わかるんだアシュレわたしには──ボクには、わかる。本気なんだ、父は、オズマヒムは、本気でボクを、いいやボクだけじゃない! ご自身をも書き変えようとしている! オマエも見ただろう、あの漂流寺院で、ボクが召喚した天翔る騎士たちの一群に混じる乙女の姿を! あれが、ボクの母だったのだ!」
クスリによる作用か、アスカは自らを「ボク」と呼び始めている。
それはある種の幼児退行だ。
皇女としてではなく皇子として生きなければならなかったアスカに、かつて施された教育のカタチがそう呼ばせた。
同時にアシュレの技術が、アスカの心の深い場所へと至りつつある証拠でもある。
「英霊となって永劫に奉られるということはアラムの騎士たちにとって、最大の栄誉とされる。しかし、それを実際に成し遂げる者などいはしない。人間は、英霊になんかなれないんだ」
狂おしくアスカが言い募る。
なぜなら、と泣く。
「英霊になるとはつまり、物語に──語られている間だけ再生される物語のように、ひとびとの理想通りの半物質的・情報存在になる、ということなのだ」
言葉が、物語が、人々の心に入り込み動かすのと同じように。
英霊とは半物質によって姿を得た物語そのものなのだ。
アスカの言葉は、すでにこの界における英霊の定義に肉薄している。
「そんなものに人間が、ただの人間が至れるはずがない! そうだろう! 物語のように矛盾なく筋の通った存在になんて、人間は、ヒトは、ボクはなれやしない!」
それは嗚咽混じりの告白だ。
「だのに、それなのに。真騎士どもは、その不可能を飛び越える。飛び越える術を持っているんだ。聖柩。そして、そして、誘惑した。父を。ヒトの世で犯した過ちの縛鎖を断ち切り、英霊としての道を歩めと」
本だ、本を思え、アシュレ。
熱狂に浮かされた巫女のようにアスカは言う。
物語を内包した本こそは──英霊の存在にもっとも近しい。
なぜならそれは物理的現実に属しているが、そこに書かれている物語は虚構に属している。
現実と虚構、その両方の属性を物語の記された本は獲得しているではないか。
そうだろう? 問う。
つう、とその瞳から涙がこぼれ落ちる。
「アイツは……黒翼のオディールは言った。『いまのキサマでは我々、真騎士には敵わない。それはキサマが不純だからだ。汚れているからだ。だから、その不純物の重さで負けたのだ』と。だから、英霊にはなれないのだ、と」
泣くアスカの下腹から胸部にかけて走る光の紋章のごときものは、彼女が真騎士の血を引いている揺るぎない証拠にほかならない。
アスカをこれまで以上に鮮やかに感じながら、アシュレは驚愕を覚えている。
強力な強制力:《そうするちから》によって、人生と姿とを歪められてきた人々のことを瞬間的に思い起こしている。
かつての降臨王:グラン。
あるいは、それこそ邪神と成り果てた騎士:フラメル──フラーマ。
夜魔の騎士王:ユガディール。
そして、もしかしたら、再誕の聖母:イリスベルダ。
彼ら彼女らも、そういう意味ではある種の英霊に違いない。
人々の《ねがい》を注がれ、書き変えられてきた人々とアシュレは関わってきた。
いや、己自身も、なかばすでにそういう存在なのだ。
「英霊とはそういう存在だと……まさか、ほんとうに物語のようになると、いうのか」
驚きを口にしながらも、アシュレは確信を抱いている。
アスカの言うことは本当だと。
これらはすべて事実だ、と。
ただ一点、どうしても理解できず、信じられずにいる。
それはなぜ、どうして、オズマヒムが自身だけでなくアスカにまで英霊への転生を求めるのか、という点だ。
「ボクの母は罪の意識に耐えきれず自決を選んだ。しかし、それは死によって楽になろうとしたのではない。逆だった。母は、ブリュンフロイデというヒトは、英霊への転生を果たし《フォーカス》に封じられた存在となることで、ボクと父さまと、その子孫と祖国とを、永劫に守るものとなろうとしたんだ」
激しく泣きながら、絶え絶えにアスカが告げた。
ほとんど慟哭のように。
「その事実を、奴らは、真騎士たちは父さまに突きつけた。母さまの死に、父さまが責任を感じていないはずがない。ないじゃないか!」
アシュレは泣きじゃくるアスカの頭を包み込むように抱きかかえる。
なんどもなんども、撫でさする。
アスカは続ける。
「だけど、君主とは、王とは、皇帝とは──それら情を注いだ人々の死を乗り越え、政治の毒を飲み、汚濁に塗れてもなお進まねばならないのだ。矛盾も過ちも抱えて、それでもなお」
アスカの言うことが、アシュレには痛いほどわかる。
古き貴族の家門に生まれた者としてのそれは共感だ。
国を担い、預かるという重責は実際のところ矛盾との戦いそのものだからだ。
「だから、純粋になるわけにはいかないんだ。清廉潔白で、完全無欠なものになるわけにはいかないんだ。そんな者が統治者になって良いはずがないんだ! なぜって、完全無欠な存在が、そうではない矛盾と欠陥だらけの人間たちの心や生活を理解することなんて、できるわけがないからだ! だから、だから、母さまはその純粋さという残酷を、進んでその身で引き受けられた──ボクや父さまが、完全無欠さによって苦しめられなくてよいように!」
だのに、それなのに。
アスカは必死に言葉を紡ぐ。
己の父:オズマヒムをかばうように。
「黒翼のオディールたちは、母さまの自決の責任を父さま自身に求めた。不純であるから、英雄として未熟であるから、ブリュンフロイデは──母はそうなるしかなかったのだ、と。オマエの罪だ、と。その罪は自身が英霊となり、この世に理想郷を降ろすことでしか贖えないと!」
そんなの、そんなの──。
父さま、と父:オズマヒムの心中を察して、アスカが泣く。
アシュレはすべての始まりの地:イグナーシュでの夜を思い出している。
あの夜、尼僧:アルマとアシュレの幼なじみであり従者であり想い人であったユーニスは、世界に追いつめられてふたりがひとりとして融合した。
《ねがい》をその身に取り込み、やがてその《ねがい》の走狗、いや《ねがい》の現世代理執行者──“再誕の聖母”と成り果てた。
そして、とアスカはちいさく付け加えた。
「そして、父さまは至ったんだ。あの考えに。悪果としての罪の子……ボクこそ、英霊とならねばならない、一番最初の存在なのだと」
生まれ出でたことが間違いではなかったのだと証明せよと。
アシュレはいっそう強くアスカを抱きしめる。
“再誕の聖母”と化したイリスに「自分たちは間違いの側から来たんだ」と啖呵を切ったアスカが、父から告げられた言葉に打ちのめされている。
真騎士たちはどこかで、アスカ出生の秘密を嗅ぎつけたのだ。
そしてそれを用いて、オズマヒムの心の間隙につけ込んだ。
国の次代を担うはずの第一皇子が──実は、大王の血を一滴も引いていない。
どころか人類であるかどうかすら怪しい。
その事実と罪の意識をてこにして、必死に塞いだ傷口に猛毒を注ぎ込んだ。
それは正義による脅迫だ。
「させやしない」
自分でも驚くような強い言葉が、自然と口をつくのをアシュレは止められなかった。
「そんなこと、させやしない」
ハッ、とアスカが息を飲み、瞳を見開くのがアシュレには見えずともわかった。
「アスカをそんな奴らには渡さない。真騎士どもの思い通りなんてさせやしない」
静かだが、だからこそ揺るぎない《意志》を感じさせる口調でアシュレは告げた。
「アスカ。はじめて逢ったときのことを憶えている? あのとき、告死の鋏:アズライールを求めて漂流寺院に乗り込んできたキミに、ボクは言ったね? キミはひとりになっちゃいけないんじゃないか、って」
突然の昔語りに、なにを言われているのかうまく理解できないで、アスカはぐずずっ、と洟をすすった。
「でも、いまはちがう。言い直すよ、アスカ。キミをひとりにはさせない。たとえ、キミを取り囲むすべてがキミの敵対者になっても──ボクだけは、キミのそばにいる」
数秒、間が合って、アスカが泣いた。
ただ、それはこれまでのものとは違って聞こえた。
「ばか! おおばかもの! それ、それではまるで、求婚ではないか! ばか! わ、わたしは皇子だぞ! お、男同士で結婚できるか! それに国はどうするんだ! おまえ、わたしを組み伏せてオズマドラを乗っ取るつもりか!」
アスカの人称が「ボク」から「わたし」に戻ってくる。
たぶんそれはアシュレの宣言がアスカの心を強く揺さぶったからだ。
ばか、ばか、と繰り返すアスカの口調のなかに、どこか笑みが生まれている。
「求婚、っていうか……アレっ? そう……なるの? いまの?」
「オマエ! この大馬鹿者の女ったらし! こんなに深入りしておいて、いまさら違うとか、よくわかってないとか、どういうことだ!」
相変わらずの泣き声だが、アスカの口から悪態がポンポンと飛び出す。
「わたしの側にいて、味方してくれる、という宣言なのだろ、いまのは。となると、必然だ……いや、そうか……わたしが、国にいられなくなるという考えもあるのか」
言いたいことを言ってすこし落ち着いたのだろう。
アスカが冷静な考えを述べた。
うん、とアシュレも頷く。
「それは最後の最後の選択肢だよ」
「あたりまえだ馬鹿者! 国を捨てる指導者など……それこそ恥だ!」
「バカバカ言い過ぎだよ、アスカ。でも、そのとおり。まだ、ボクたちには打つべき手がある。そして、それはいま、アスカが素直に胸の内を聞かせてくれたからこそ、あきらかになった」
抱擁を解き、アスカを見つめてアシュレは言った。
「素直に、聞かせたから?」
あまりにまじまじと見つめられて、アスカは恥ずかしくなった。
胸乳が剥き出しであることを急に意識する。
自らの肉体に自信を持って生きてきたアスカだから、肌を見られて羞恥を感じたのではない。
心の扉をこじ開けられ、触れられ、素直にされてしまったことにこそ恥じらいを感じたのだ。
だが、アシュレは頓着せずに続ける。
またもやあの天才性の発現だ。
「ひとつには聖柩という真騎士たちの《フォーカス》の存在。イリスのときのデクストラスやカテル島のコンストラクス、トラントリムのログ・ソリタリみたいなものだと思われる、それ」
真騎士たちが、人類を英霊に作り替えるために使う装置のこと。
「そんなこと……わたしがいったのか?」
「言ったとも。だから、ボクは憶えている」
そして、
「もうひとつは……そのためには──英霊となるためには、過去を改竄しなければならないらしい、ということ」
だから、歴史を書き変える必要があるって、大帝は言ったんだ。
アシュレは断定する。
そのためにオズマヒムはヘリアティウムを攻める。
「そして、ボクたちはそのヘリアティウムにこそ、あらゆる過去を暴く魔道書:ビブロ・ヴァレリがあることを突き止めた!」
これが偶然の一致なんかであるずがない!
偶然なんかじゃない!
そうだろう、とアシュレは訊く。
「いまの話は、さらにその存在の実在と恐るべき《ちから》を強く証立てするものだ!」
組み伏せられたまま、アスカが息を呑む。
そうさ、とアシュレはアスカに確信の表情を見せた。
「ボクたちが、ボクたちの戦いを始める理由がこれで完全に揃った。もう一度言うよ、アスカ。キミはボクのそばにいろ。自らの望んで選んだ変化ならともかく──だれかに強制されたそれを受け入れる必要なんてない。そんなこと、させやしない」
だから、ボクは。
「だから、ボクはそのために戦う。オズマドラ帝国皇帝と真騎士の乙女たちの思惑より疾く、過去を暴くという魔道書:ビブロ・ヴァレリを奪取する」
そうすれば、奴らの陰謀を阻むこともできるはず。
「それでいいかい?」
もうすでに自分が王者の貌をしていることに自覚がないのだろう。
世界に名だたる大帝国の皇子の人生を奪取する、と宣言したことにも気がつかずに言い切るアシュレに、アスカの胸は壊れそうなくらい高鳴ってしまう。
紅潮が止められない。
あまりにのことに想いを言葉に直せない。
だから、求めてしまう。
肉体で。
うれしいときにも、ヒトは泣くのだ、と実感しながら。
※
「あのとき、そなたがアスカ殿下に言ったこと──正しさの側から見たら噴飯物だろうけれどな。わたしは支持するぞ」
アシュレの回想に同調していたのだろうか。
シオンがそう言ってくれた。
「全力を尽くそう。そして、必ず、魔道書:ビブロ・ヴァレリをこの手につかもう」
それですべてが解決するわけでもないし、場合によってはさらなる敵との相対を迫られることになるかもしれんが。
微笑む。
「わたしも、アスカ殿下を奴らの思うがままにさせる気はない」
しかし、と夜魔の姫は夕闇迫る街並みに視界を巡らせ、笑みを広げた。
「この街を攻め落とそうと迫る帝国の皇子を救うため、二十万の大軍を出し抜こうというのは……ずいぶん豪儀なはなしだな」と。
 




