■第十五夜:我を失う中庭
アラム教圏の楽園の幻想は中庭に集約されている。
そう記したのは誰であったか。
著者の名はさておき、その指摘はまったく正しい。
四方ぐるり高い壁をなす建築物の内側に、アラムの人々は己のなかの楽園を解放する。
清水湧き、緑あふれ、鳥たちのさえずり絶えぬ安住の地の幻想を。
おそらくそれは、彼らの起源となった土地の多くがいまや砂漠や高原地帯、あるいはステップのような過酷な環境にあり、ハダリの野のような人外魔境に分断されていたことと無関係ではあるまい。
だが、ここで間違えてはならないのは「それは現在の話であり、かつてはそうではなかった」ということだろう。
すくなくとも、統一王朝:アガンティリスの時代。
世界ははるかに豊かで、はるかに美しかった。
この世に理想郷を降ろす──それがアガンティリスという文明に貫かれた思想だ。
歴史の帳の向こうへと消え去ったアガンティリスの知識や技術を色濃く受け継いだアラムの人々は、その遺志をも継承したのだと自認してきた。
だから、世界を切り開き、思想をカタチにし、建築物として築くことでこの世に理想郷を実現しようとしてきた。
その理想は、まず、中庭に現れる。
だから、いま眼前に広がる風景は単なる庭園ではない。
そこに集約されているのは、庭の主の頭のなかにある理想の投影なのだ。
とすれば、そのなかを歩むということは、つまり、庭園の主の理想のなかを歩くに等しい。
夢中を歩むに等しい。
強力な意志力と莫大な財貨によって受肉された天上の風景が、そこにはある。
そんな夢幻の光景をゆくのは、夢の主と娘のふたりである。
さくり、さくり、と草を踏んでオズマヒムは歩んだ。
おなじく、そのあとをアスカリヤが続く。
剪定と手入れにいそしんでいた園丁たちが、ふたりの姿を認めて臣下の礼を取る。
オズマヒムは鷹揚な態度で手を動かし、下がるように命じる。
「それで、話とは」
オズマヒムがそう促したのは、見事に咲き乱れ、まるで流水のごとくこぼれ落ちる珍しい花々の回廊を抜けながらであった。
そよ風にさわりさわり、と鳴る葉擦れが、他者の耳と目とを絶妙に遮ってくれる。
飛び交う蜂たちは大きいが、直接手で捕まえてもめったなことではヒトを刺したりしないおとなしい種類のものだ。
「大帝には、今回のヘリアティム攻略の真意をお聞かせ願いたく」
率直にアスカは訊いた。
もちろん、アスカは勅書でもってオズマヒムの「大義」については告げられている。
すなわち、西方から押し寄せる十字軍に抗するため、東方世界の守護者として己が最前線に立つ、との檄文である。
しかし、アスカはこの戦いの意図が、それだけではないことを感じ取っていた。
「真意もなにも……それはおまえ宛てにしたためた文にあったであろう」
「陛下自らのお手紙、たしかにアスカリヤ、受け取ってございます。しかし、すでに一都市国家レベルの国力に零落したとはいえ──あの都市を、ヘリアティウムを攻め落そうとは。二〇〇有余年前、かのバシュマル帝以来、これまでのオズマドラ皇帝のだれも……いいえ、アラムの指導者のだれをも行わなかったこと。あの都市は不可侵であるとして、定めてきたことであります。それを陛下は断行しようとされている」
アスカの指摘は、ある意味でアラム教者全員の心中を代弁してもいた。
これまでオズマドラ帝国をはじめとしたアラム諸国は、幾度となくビブロンズ帝国領土へと侵攻し領土を切り取ってきたわけだが、都市としてのヘリアティウムそのものを攻めたことは、歴史上、一度しかない。
それは彼らアラムの人々にとっても、自分たちの文明の起源である壮麗な都市を攻め滅ぼすことへの咎めがあったからであろう、と西側の歴史家たちは語る。
自らの文化の根源を破壊することを彼らは恐れたのであろう、と。
“もうひとつの永遠の都”に特別な想いを抱いていたのは、西方の人間だけではなかったのだ、と。
なるほど、アラムの民衆たちが、そのような認識を持っていたことも否めない。
文明・文化の守護者たるアラム教者が、偉大なる統一王朝の遺産に対して敬意を払っているからだと。
一時にせよ包囲を敷いた時の帝王も、だからこそ、陥落を諦めたのだ、と。
だが、真実とは、そんなロマンチストな理由からではない。
アスカはすでに感得していた。
だから、アスカの主張はいわゆる一般論とは異なる次元のものである。
「不可侵の理由を、統一王朝:アガンティリスに対する敬意に求めるものもいます。しかし、わたくしの考えは異なります」
アスカは蟄居時代、ヘリアティウムについて書かれた書籍から言葉を引用する。
「ある書にはこうあります。『すなわち、禁じられし知の箱は開け放たれ、十一の禍は、かの地より飛び立ちけり。これののち拭いがたき闇が世を覆い、魔の跳梁を阻むこと、あたわしめん』──ヘリアティウムにまつわる伝承です」
「それは、ヘヴル記であるな」
歩みを止めたオズマヒムは、こともなげに引用元を言い当て、溜息をついた。
現存するは古都の書庫に眠る一冊のみ、あとは部分的な写本がいくつかしかない希少な書物である。
アスカは息を呑む。
「陛下は、ご存知でおられましたか」
「古き言い伝えを持ち出して、我を諌めたのは、おまえがはじめてではない」
「では、陛下はこの続きもご存知のはずです。すなわち『かの地に触れてはならじ。敬して遠ざけおくべきものなり。この禁を破る者、皆、我を失いて破滅の道へと至らん』」
およそ二〇〇年の昔、ヘリアティウムを陥れ、オズマドラを大帝国とすべく包囲を敷いた王がいた。
名はバシュマル。
だが、帝王は数ヶ月の包囲戦の後、突然、すべてを投げ出すようにして戦線を縮小。
その後、原因不明の死を遂げる。
呼応するように突然活性化した戦鬼と豚鬼の群れが、オズマドラ本国の背後を突き、帝国の存続を危うくするまでに迫った。
ヘヴル記そのものはアガンティリス滅亡に端を発する暗黒時代終末期のものであり、急死した帝王はそのずいぶんとあとの時代のヒトであるが……それ以来、オズマドラは不可侵を貫いてきた。
帝王の死についての原因は、いかなる理由があったものか厳重に秘されてきた。
ただ、そこには古き警句が引用されているだけ。
アスカはそこに、ヘリアティウムの真実があると睨んだ。
だから言った。
「あの都市にはなにか……なにかがあります。軽々しく触れてはならぬ、なにかが」
「……なるほど、おまえは、よく学んでいるようだ。ならば、わたしも話し方を変えねばならん」
そうだな、と歩みを再会しながらオズマヒムは言った。
あるから、だよ、と。
「あるから、とは?」
「いま、おまえが懸念したものが、あの都市には隠されていると言ったのだ」
オズマヒムの言葉は、アスカの想像の上を行っていた。
驚愕に言葉を失った皇子に、オズマヒムは続ける。
「バシュマル帝の逸話ではないが──『我を失う』とは、なかなか言い得て妙ではないか。まさしく、ある意味で『我を消し去るものが』あの都市には眠っているのだ」
「我を消し去るもの、ですと?!」
「正確には“後の世を変え得る品”というべきであろうな」
「陛下、それはッ!」
「フラーマの漂流寺院で、見たのではないか。あるいは、人間を《ねがい》の走狗へとする儀式の一端を。そして、フラーマの──彼女の真実が後の世に、どのように捩じ曲げられ伝えられたのか、を」
この男は、どこまで知っているのか。
たしかに、アスカはアシュレと出会ったあの漂流寺院での一夜の間に、その儀式を目撃している。
フラーマがいかにして邪神に成り果てたのか。
いかにして《ねがい》を注がれたのか。
邪神の次なる依代として夜魔の姫:シオンとイリスが、どのような改変を施されかけたのか。
そしてなにより、アラムとイクスという教え分けられ残された伝承の数々が、真実と異なる、どのような改竄を受けていたのか。
だが、ことのあらましを、アスカはそこまで詳しくオズマヒムに報告してはいない。
する必要がない、とアスカ自身が判断したからだ。
ヒトを邪神に変成する儀式の次第など邪教にでもまかせてよけば良いことであるし、捩じ曲げられた神話の事実を口になど上らせようものなら、破滅するのはアスカの方だったからだ。
「あんずるな」
そして、そんなアスカの胸中を見透かしたかのようにオズマヒムは続けた。
「あのように不完全なものではない。もっと精密で、もっと洗練されたものだ。過去の過ちを正せるほどに。そのことで歴史を変え得るものだ」
そう語るオズマヒムの黒い瞳が、一瞬だけこちらを向いて、顧みられたようにアスカには感じられた。
が、それも一瞬、オズマヒムは自らの考えに没入するかのごとく語る。
「アガンティリス滅亡の説話には、大切なヒントがいくつも隠されている。開け放たれた禁断の知の箱。魔の十一氏族の解放。暗黒時代の到来。過去を清算するためのものが……後の時代を変えるほどのものが、あの都市には眠っているのだ」
夢見るように、確信して語るオズマヒムの背に、アスカは寒気を感じた。
後の時代を変える、というオズマヒムの語りには、ぞっとするような悪寒がある。
いや、あるいは、壮大な覇気を感じるのか、他の者は。
いまこうして、わたしが震えるのは、アシュレたちとともに漂流寺院での戦いを、トラントリムでの経験を経たからなのか。
それとも……すでにして変えられた存在=イリスベルダと対峙したからなのか。
「後の時代を変え得るほどの品。まさか、その奪取が目的なのですか?!」
「なにを聞いていたのだ、アスカリヤ。そうではない。我らが、ヘリアティウムを手に入れようとするのは、迫り来る西方の脅威に対し、わたしが東方の守護者となろうという大義のためだと。そのような品が、十字軍に悪用されたとしたら。人類圏を襲う災厄はどれほどのものとなろうか」
奪取などではない。
オズマヒムは静かに言った。
「わたしが、なろう、というのだよ。新たなる管理者として。歴史を正しく導こう、というのだ」
その宣誓を祝福するように、大きな翼の持ち主たちが庭園の上を擦過していく音が聞こえた。
大空を舞う羽音と影が、花のトンネルの上空から振ってくる。
「これまでの過ちを、正そうと言うのだ」
オズマヒムの言葉はあくまで穏やかで厳かだった。
だが、アスカにはこう聞こえた。
「歴史を書き変えようというのだ」と。
おもわず足が止まる。
たぶん、いま自分はひどい顔をしている、とアスカは思う。
歓談する親子の芝居を続けていられないくらいには。
いつか、トラントリムで“再誕の聖母”:イリスベルダと相対したとき、アスカはこんなことを言った。
わたしたちは間違いの側に属している──正解など、クソくらえだ。
人間性を上から見下す聖なる存在に、そんな啖呵を切った。
だが、オズマヒムの発言はアスカの言葉を、いいや、アスカという存在そのものを──「過ち」だと指弾しているように受け取れた。
「いかんか?」
そして、そんなアスカの胸中などまったく斟酌した様子もなく、無邪気とも思えるほどの調子でオズマヒムは言うのだ。
「わたしが、間違えた歴史から世界を救うのだよ」と。
枝垂れて降りかかる花のトンネルを抜けると、そこには池が広がっている。
遅咲きのアーモンドの大樹が桃色の花を、まるでヴェールのようにまとって揺れている。
アスカは、そこに大きな鳥たちが止まり、オズマヒムと自分を見下ろしていることに気がついた。
いや、それは鳥ではない。
それぞれが光り輝く白銀の甲冑を身にまとい大槍を携えた彼女らは、全員が人間ではなかった。
まるで、天から遣わされた御使いのごとき存在。
真騎士の乙女たち。
そして、冷然と微笑む彼女らと楽園の風景を背負って、オズマヒムは振り返る。
穏やかだが、どこかうつろな笑みを浮かべ。
アスカに手を差し出す。
「おまえも、変わるときがきたのだ」と、そう言って。
嵐のただなかのにいるように、激しく打ち合わされる大きな翼の羽ばたきの連なりを、アスカは聞いた。




