■第十夜:夢の醒めた跡
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「それで発つことにしたのか」
薫風の吹く丘に立ったアスカがそう問うたのは、英霊爆撃事件の後、五日ほどもしてのことだ。
オズマドラ本国から派兵された駐留軍本隊と入れ替わるように、トラントリム攻略戦の総司令官を務めたアスカは現在のオズマドラ首都:ドールドラオンへと帰還を命じられていた。
今回の攻略戦の戦勝報告と報償を受け取るためである。
それら司令官としての責務を終え、ふたたびトラントリムの地を踏んだアスカは、なぜか物憂げに見えた。
「うん。そのあともすったもんだあったんだけど──イリスの……“再誕の聖母”の足取りを掴むにも、カテル島の現状を知るためにもやっぱり伝説の魔道書:ビブロ・ヴァレリを手に入れるのが一番早いんじゃないかって、結論したんだ」
愛馬:ヴィトライオンに跨がったまま、アシュレは隣りにたたずむオズマドラ第一皇子に自分たちの意志を伝えた。
「結論したんだ、と言うが……もう行動を起こしている連中もいるじゃないか」
「せめてアスカに挨拶だけは、って引き止めたんだけど。先行して準備や調査を進めておいたほうがいいっていうイズマの提案はどう考えても正しいからね」
没していく夕陽を眺めながらアシュレは経緯を説明した。
件の英霊爆撃事件の直後、イズマは伝説の魔道書:ビブロ・ヴァレリが眠ると目されるビブロンズ帝国首都:ヘリアティウムへの先行潜入を提言した。
「だってさ、もうすぐあすこって戦場になるんだよね? というかアスカちゃんがトラントリム攻略を命じられたのって、そのための前哨戦──オズマドラ陸軍本隊の進路確保のためでしょ? そんなところに潜ってお宝探し出そうってんだから、そりゃ下ごしらえしとかなくちゃ、ヤバいじゃん。違う?」
と、当時のイズマの口調を真似て告げるアシュレにアスカは深いため息で応じた。
「ごめんよ」と謝るアシュレ。
「そうではない」とアスカ。
どう言ったらいいのか、というニュアンスがアスカの態度にはあった。
「キミに断りもなくイズマたちを行かせたのは、本当に悪かったと思っているんだ」
もどかしげなアスカの様子に、アシュレはさらに謝罪する。
イズマは土蜘蛛の元凶手:エレ、そして《スピンドル能力者》でこそないが、間者としての経歴と実際にヘリアティウムを幾度も訪れたことがあるというバートンを選出し、同伴とした。
その際、居残りをどちらにするかという問題が土蜘蛛姉妹の間で持ち上がったりしたのだが、こちらは完全に余談だ。
「ちがう、そうじゃない」
主人の心中を感じ取ったのか。
アスカを背にした栗毛の馬が、だくだくと足を踏みならしながら草原を旋回した。
その様子に、アシュレは目を丸くするしかない。
ええと、と問いかける。
「そうじゃない、っていうのは……」
「たしかに、オマエたちは客分として扱うし、槍働きで返してもらうとは言ったがな……」
トラントリムとその僭主:ユガディールとの因縁から、アスカはこれまでアシュレとシオンを客分として遇してきた。
その恩には戦場での活躍──つまり槍働きで報いよとアスカは言ったし、これを承諾したのはアシュレである。
ふたりは協力の結果、見事オーバーロードと化したユガディールの撃破に成功する。
さらにこれはトラントリムの人類圏への奪還をも意味する。
慣例に問うまでもなく、これは第一級の戦功だ。
「なにか、ボクらの働きに不足があったかい?」
「いや、そうではなく。今回の砂獅子旅団──その先方を務めた我が戦隊の戦働きについては大帝もおおいに認めるところだ。これまでわたしが治めていたピアソラに加えて、このトラントリムも我が直轄地となった。オマエたちのおかげだ」
まさに英雄的働きを見せたアシュレがまじめくさった顔をして訊くものだから、アスカはうんざりしつつも返すしかない。
そして、そのアシュレときたら、またバカ正直に喜んでみせるのだ。
「よかった! すごいじゃないか、アスカ。や……もうアスカリヤ大総督って呼ぶべきなのかな」
「オズマドラの慣例だと大守だ。いや、そんな堅苦しい呼び方を使ったら拳で殴るからな」
「アスカの大望に貢献できたんだと思えば、すこしは気持ちが楽だ」
派を違えど同じイクス教徒の国を攻め滅ぼし、“再誕の聖母”としての完成を目指すイリスとの対決を決断することになった戦いの記憶に踏ん切りをつけるように、アシュレは言った。
この男なりの気の使い方だろう。
だが、そうではないのだ。
いまここでアスカが言及したかったことは、そうではなかったのだ。
コイツ、今日、どうしてわたしが遠乗りにオマエを誘ったのか、まるでわかってないな。
もう一度、深々とアスカは溜息をつく。
「そうではなくて……だな」
その話の流れだと、アシュレ、おまえも旅立つつもりなんだろう?
アスカはそう聞いていたのだ。
約束した槍働きを見事に果たした男を束縛する術がもうアスカには残されていない。
夕陽に照らし出された眼下には、不思議な光景が広がっている。
トラントリム攻略戦での最終局面で明らかになったこの世界の真相。
豊かな自然とそこに調和した人々の営みで偽装された不可知領域の糖衣が引き剥がされたとき、あらわになったのは、巨大な異形の塔とそれを取り囲む内臓のごとき意匠の建築群であった。
すなわち“接続子”の生産プラント群である。
ユガディールの言葉を借りるならば、この世界に重なるもうひとつの異界:“庭園”と人々を繋いでいる因子と、それを生み出す装置たち。
だが、その異景は《閉鎖回廊》の主であったユガディールの消滅とともに瞬く間に崩れ去り、春の訪れとともに芽吹いた草花に覆われて、急速に土くれに帰ろうとしていた。
灰は灰に、塵は塵に──まさに、その言葉通りに。
アシュレはその光景に、いままで世界の真相が明らかになってこなかった理由を思い知っていた。
「ほんとうに……夢みたいに無くなってしまうんだな」
巨大な花畑に変じてしまったかつての戦場を見つめながら、アシュレはぼやくように言った。
あの激戦から、まだひと月も経っていない。
それなのにまるで、自分たちの戦いの記憶までもが、あの夢見るような花畑のなかに呑み込まれ、なかったことにされてしまいそうな錯覚に陥って。
「オマエも行ってしまうのだろう」
たぶん、似たような想いに囚われていたのだろう。
遠くを見るような瞳をしたアシュレの横にくつわを並べ直して、アスカがつぶやいた。
なにを言われていたのか、このときになってアシュレは気がついた。
出て行くんだな、とその意志を訊かれていたのだ。
あー、と複雑な想いが言葉ではなく、音になって口をつく。
「えーと、あー、はい……そうです」
そんなふうに問われれば、正直なところを答えることしかアシュレにはできない。
飛び去ったイリスを追跡し、いまなお進行しているであろう“再誕の聖母”の完成を阻むにはどうしても伝説の魔道書:ビブロ・ヴァレリが必要なのだ。
そして、そのためには当事者であり、聖母再誕にまつわるすべての発端にいた自分が赴かなければ話にならない。
たとえそれが、オズマドラ帝国第一皇子としての立場を捨てるわけにはいかないアスカとのしばしの別れを選択せざるを得ないとしても、だ。
「あのとき──シオン殿下を助け出す前に、主従契約の方を突きつけてやればよかったな」
機嫌を損ねた様子で馬首を巡らせ、そっぽを向いたアスカの瞳から真珠のような涙が飛び散るのをアシュレは見た。




