■第一夜:空の庭園(あるいは承前)
「そこもと……ここが我が居城・空中庭園:ガルフシュバリエの玉座の間であると知っての狼藉か」
「めっそうもない。ただ竜の皇女:ウルドラグーン殿下の庇護をすこしばかりの間、お貸し頂ければと思いまして。こうして罷り越したしだいにございます」
「言葉だけは慇懃だが……いまそこもとが座す場所こそ、我が玉座。そして、我は王である。殿下でなく、陛下と呼べ」
おだやかな日差しの落ちる柱廊であった。
アガンティリス、それも文明の爛熟期の意匠をこれほどまで鮮やかに残す場所は、いまや地上世界にはほとんどない。
だから、ここが地上であるはずがない。
ここはかつて地上から切離された空の庭園。
この世界:ワールズエンデの空に浮かぶ、いくつかの浮遊島。
偏光障壁と雲の結界に護られた秘境中の秘境。
そのひとつ、空中庭園:ガルフシュバリエから物語は再開する。
浮遊島の主:ウルドラグーンはこの日、狩りを満喫したあと、己が居城へと舞い降りた。
巨大な翼と尾を備える雲竜から、甲冑とドレスを組み合わせたお気に入りの衣装に変じ、君臨すべき玉座の間へと歩を進める。
そこで見たのだ。
不遜にも己が玉座に腰を降ろす、ひとりの妊婦の姿を。
「だれか」
低く押し殺した、唸るような声が自然と漏れた。
「そこもとはだれか。なぜ、そこにいる」
妊婦は眠っているようだった。
この世のものとは思えぬ美貌。
絵画のなかから抜け出してきたかのように美しい肉体は、完全。
白銀に光を放つ頭髪だけがひな鳥の産毛のようで、それは女性としては残念だったかもしれないが……いや、むしろそのアンバランスさこそが彼女の美を完璧に際立たせている。
「起きろ」
だが、ウルドはその超次元的な美を前にしても、容赦しなかった。
竜族は例外なく一個体が国を統べる王である。
逆説的にいえば、この世に王として生まれ出でた者こそが、竜である。
それが真なのかどうかは、わからない。
しかし、すくなくとも竜たちは例外なく全員がそう信じていたし、実際に己こそが唯一無二の王であることを証明すべく戦い続ける。
そういう生き方こそ、竜そのものなのだ。
さらに言えば、それだけの無謀を可能とする──王を名乗るだけの強力なカリスマと万の軍勢を瞬く間に壊滅させるだけの戦闘能力を、彼らは備えている。
だのに、だ。
ひさかたぶりに地上に赴き、狩りと血の味を堪能して帰ってみれば──玉座をみょうな女が占拠しているではないか。
家臣どもはなにをしていた?
そもそも、この女、どこから湧いて出た?
そんな当たり前の疑問が脳裏を過らなかったかといえば嘘になる。
いや、そんなことよりもだ。
優先すべきことがウルドにはあった。
「起きろ。そして、退け」
そこはわたしの場所だ、速やかに退去せよ──そういう言葉が熱い呼気とともにウルドの唇から迸った。
竜の血筋に連なるものとして、玉座を無断に占拠されたまま問答をすることが、どうにもウルドには我慢ならなかった。
しかし、対する女の返事は奮っていた。
う、ん、と小さくうめいたあと。
「ここは……おはようございます……そして、お帰りなさいませ……ウルドラグーン殿下」
まるでここが我が家で、いま座っている場所が自分のもとよりの座席だとばかりに女は言った。
ぶちり、と堪忍袋の緒が切れる音をウルドはたしかに聞いた。
それで、先ほどの会話の流れとなる。
「そこもと……いますぐ非礼を詫び、玉座を我に返還せよ。そうすれば、せめて苦しまずにこの世から消してやる。我が雷霆の《ちから》によってな」
「あらあらあらあら、なんてこと……わたくし、とんでもない非礼を陛下にいたしておりましたのね」
でも、と女は困ったように眉根を寄せ、小首を傾げて見せた。
一応、謝罪めいたものだけは口にしながら。
「どうしましょう。わたくし、もう、立てません」
身重であることをアピールするように、女は自らの突き出た腹をなでて見せた。
そのたびに、燐光が散り、いずこからか純白の羽根が生じては舞う。
ぞくりとした寒気をウルドが背筋に感じたのは、その瞬間だ。
激情に染まりかけた頭のなかを、その寒気が冷ました。
こやつ、ヒトではない。
かといって、我らが竜族でも、ない。
「オマエは、だれだ。名を、名を名乗れ」
「あらあら、まあまあ、どうしましょう、わたしとしたことが。産屋の軒を借りようというのに肝心の名前を申し遅れてしまうなんて……」
では、あらためまして、と完璧すぎて違和感のある笑みを浮かべて女は名乗った。
「わたくし、イリスベルダ・ラクメゾンと申します。わたくしを知る人々のなかには、大仰にも“再誕の聖母”などと呼ばれる方もいらっしゃいますが……わたくしなど世界を救済する“あの方”をこちらにお喚びするための──理想郷を地に降ろすための《門》に過ぎませんのに」
「《門》……だと?」
古き竜の血筋であるウルドは知っている。
同じく古き言葉──《門》という単語の意味を。
それははるかむかし、アガンティリス期よりも先史の文明から受け継がれた。
かつて“理想郷”と地上とを結んでいた次元通路と、その入口を指し示す単語だ。
アガンティリス期の人々は、その探索と復活に血道をあげた。
封ぜられし“理想郷”の風景を取り戻そうとしたのだ。
そして、彼らの試みはなかば成功し、しかし、もう半分は──おぞましい結末を呼び起こした。
すなわち《ブルーム・タイド》と《御方》の顕現。
世界観を破壊する凄まじき超常現象と《ねがい》の代理執行体による世界改変を引き起こした災禍の穴──《門》。
それを自ら名乗るとは。
この女は、狂っている。
瞬間、ウルドは確信した。
危険だ、とも。
どうする、と一瞬だけ、ためらう。
化身の異能を解き、竜族本来の姿となってこやつを消し飛ばすか。
それとも、いま腰に佩く魔剣にて決着するか。
いずれにせよ、この無礼千万な物狂いを排除することは違いないが、玉座の間を汚すのは腹が立つ。
グランシュバリエ──この庭園を勝ち取ってからこちら、外したことのない記念のタペストリー群を丸焦げにはしたくない。
そんなウルドの葛藤を見抜いたように狂女:イリスは微笑みを広げた。
「いま、とても恐いことを考えてらっしゃいましたね?」
「いまさら気がついたのか。だが、もうおそい。キサマの死は決定事項だ」
竜族の本拠に押し入ったどころか、居座っておいてぬけぬけと。
言い放つウルドの眼光はそれだけでヒトを射殺せる鋭さを秘めていたが、対する“再誕の聖母”は小揺るぎもせず返した。
「それは難しいと思いますが……どうしても、どうしても、軒を貸して頂くことはできませんの? せめて“この方”が落ち着くまで」
「ここはどこかの寺院や教会の託児所ではない。そもそも、キサマは筋を違えている。こんな横紙破りが通じるとでも思うのか」
ずらり、とついにウルドは抜刀した。
東方の果てから来たという魔剣:クカミギリは、片刃でゆるい反りを持つ。
刀身の長さこそロングソードには及ばぬが、《スピンドル》を伝導しなくとも岩に突き立つほどの切れ味を誇る。
いつか、卑劣な罠を仕掛けウルドを我が物にしようとした土蜘蛛の王族の小倅から、竜族の革を用いて作られた甲冑とともに勝ち取った品だった。
「せめて、苦しまぬように斬ってやるから感謝せよ。あんしんせい。斬撃受けたそのあとで、数歩、歩いてからはじめて血潮の迸り出る。これぞクカミギリの妙技。無明剣よ」
まだ成人前の少女の姿を持つウルドの喉から、殺人に馴れた声がした。
だが、凶刃を突きつけられてなおイリスは微笑みを消しはしなかった。
むしろ、もっと良いことを思いついたという顔をした。
ぽん、と両手を打ってさえ見せる。
「ああ、そうだ、そうでした。わたくし完全に失念しておりました! そう──もうひとつのお願いがありましたのに」
「だまりおれ、この下郎ッ!! 問答は終わりだッ!! 疾く死ねッ!!」
ギュン、と目にも留まらぬ素早さ──縮地と徒名される特殊な歩方──でウルドが間合いを詰めた瞬間。
空間の割れる音が響いて、それは現われた。
純白のボディを持つ、巨躯の自動騎士たち。
それがウルドの進路を塞ぐべく武器を振り降ろしてくる。
「ちょこざいなッ──キサマ、やはりヒトではなかったかッ!」
つぎつぎと突き立てられてくる重質量の攻撃を竹林を走るようにして潜り抜け、イリスへと肉薄しながらウルドは叫んだ。
そして、技を放つ。
「九鬼すら退けるという、この太刀を防げるかッ?! 魔刃:鬼断刃華狂乱ッ!!」
一瞬にして励起された強力な《スピンドルエネルギー》が刃に伝達される。
刀身に浮かび上がる桜花の透かし彫り。
放出の瞬間までハデな発光現象が起ったりしないのは、使い手の練達か、はたまた刃のエネルギー伝導率が桁違いだからか。
そして、敵中をまさしく疾風怒涛の勢いで潜り抜けたウルドは放った。
最大奥義の一閃。
それは収束された細い線となり、遅れて玉座の間を白い閃光が焼く。
神懸かり的な防護をもまさしく紙のごとく切り裂く必殺の奥義が、イリスを直撃し──つぎの瞬間、霧散した。
そのときの驚愕を、ウルドは一生忘れないだろう。
いかなる盾や装甲を用いようと絶対に防げないはずの一撃を、イリスはただただ己を包む薄絹一枚振り抜いただけで凌いだのだ。
「バカ……な」
放心し、まさに残心を忘れた状態のウルドは打ちのめされる。
まず、心理的に。
つぎに、物理的に。
四方から伸びてきた自動騎士たちの腕が、ウルドを地に這わした。
これまで、この世に生まれ出でてからすでに一〇〇〇年以上。
一度とて味わったことのない屈辱に、ウルドの瞳が燃え上がる。
「おのれェエエエエエエエッ!!! もう許さんッ!!」
化身を解き、本来の《ちから》を解き放とうとウルドが吠えた。
もし、そのまま竜族の姿を取り戻していたのなら、いかに自動騎士たちが強力とはいえ、無事では決して済まなかっただろう。
最大体長三十メテルに達する竜族だ。
ウルドは小柄だが、竜の姿になれば。それでも二十メテルはある。
その心臓は小さな馬車ほどの大きさになると言えば、ものの目安になるだろうか。
己が司る雷霆の息吹をもって、一瞬ですべてを灰燼に帰す──そのつもりだった。
だが、果たせなかった。
イリスが、怒りに燃えて振り乱すウルドの頭部を撫でたからだ。
優しく、あやすように。
するとどうだろうか。
みるみるうちに、集められていたウルドの《スピンドルエネルギー》が揮発していく。
「なん……だと」
今日二度目の驚愕を自分の唇が発したことに、ウルドは一番の屈辱を覚えた。
「おいたはいけませんよ、ウルド」
さきほど玉座に座し「立ち上がれない」と言っていたはずなのに。
胎内に宿るものを護るようにしてウルドのそばに座り込み、優しく髪をかいぐりながらイリスは続けた。
「どうか、しばらくのあいだ、この軒を貸してくださいませ。それと……厚かましいお願いなんですけれど……“この方”が栄養を必要とされてまして……それも特別な」
この女──ほんとうに申し訳なさそうな顔をするのが、余計に腹が立つ。
ウルドは、組み伏せられたままツバを吐いて見せた。
なぜ、竜の姿になれないのか、わからないまま。
イリスはそんな不服従の態度にすら微笑んで見せて続けた。
さて、と明日の天気でも話すような気軽さで。
「ウルド陛下は、竜玉というのを、お持ちではないですか? どうしても、それが“この方”は召し上がられたいらしいのです……どうしましょう、わたくし、竜ではないので持ち合わせておりませんの」
“この方”というのは……下腹を撫でさする仕草から推察するに腹中の胎児が、という意味であろうか。
それで、とイリスは提案した。
ほんとうは、すでにそれは強制だったのだが。
「ウルドさんのものを、わけて頂くことができないかなあ、って」
玉座に響き渡る絶叫が、だれのものなのか、もうウルドにはわからない。
この日、空中庭園:ガルフシュバリエは“再誕の聖母”の手に落ちた。
改稿版第1回目です。
この部分だけはあまり変更点がなかったので、上書きにさせて頂きました。
が、わりと重要な設定が挿入されています。
楽しんでもらえたらうれしいです。




