■第一一六夜:“再誕の聖母”
※
「あすこに……セラフィナがいるのか」
丘の上から崩壊してゆくトラントリム中枢を眺め、トラーオが呟く。
跨がるのは“聖泉の使徒”:ジゼルが召喚した水馬だ。
「行かなきゃ」
「まった。ダメよ、騎士くん。おあずけ」
手綱を握り直し、拍車をかけようとしたトラーオをジゼルがたしなめる。
「なぜだっ! オマエとの契約は、セラフィナを助けることが前提のものだぞ!」
「だから、慌てるなと言っているんだ、このバカ犬め! いまのオマエはわたしからの《スピンドルエネルギー》の供給無しじゃ自分を保てないくらい弱っているんだ。そんなナリで、主戦場に突っ込んでいってみろ。メナスどころか、雑魚ども相手でも勝てるかどうか怪しいだろうが!」
腕に抱いた尼僧から容赦なく叱責され、ぐっ、と若き従騎士……いや、ジゼルの騎士はうめいた。
だが、そんなトラーオの様子にジゼルは表情を弛める。
成人を果たしたばかりの、まだ少年そのもののトラーオのおとがいに指を這わせながら。
「でも、いい感じ。そう、そうやって忸怩たる思いを蓄えなさい。そうやって男は磨かれていくんだから」
「さわるなッ!! それに、それに……いまいるんだ。《ちから》がッ!!」
「いいわあ、その悔しそうな顔。ごめん……興奮してきちゃった」
「茶化すなッ!! オレは本気だ!!」
「だったら、鍛えなさい。そして、なりなさい。理想の騎士に」
そのための試練と、相応の支援をちゃんとしてあげるから。
「もちろん、わたしとの奴隷契約を履行する、という前提でね?」
乗り手の《意志》に当てられてガカカッと、足を踏みならした水馬を制するとジゼルは艶然とした微笑みを広げた。
「それでどんな騎士にオマエはなりたいのかしら?」
ジゼルの問いかけに、トラーオは眼前の光景から逃れるように目をつむり答えた。
「オレに、いまのオレに、アシュレさまのような《ちから》があれば──」
「そう……そうなのね。アシュレダウがあなたの理想なんだ」
「あたりまえだ! あれほどの才能と武勇──武勲がすべてを証明している。あの方は、最高の騎士だ」
「たしかにそうか。なんたって、“再誕の聖母”の夫だしね。それ以外にも、夜魔の姫からも、異教の姫からも、あっちこっちから愛されまくり──ずるいよね」
そうか、とジゼルはトラーオの頭を自らの胸乳に導きながら言った。
「オマエはアシュレになりたいんだ?」
はなせ、とトラーオは言う。
だが、その肉体は言葉とは裏腹にジゼルを強く捕らえていた。
「いま、彼、来ているわよ。ほら──あの崩壊していく塔の上で、いまも、戦っている」
不思議なことが起っていた。
トラーオの脳裏に、ジゼルの言うさまがまざまざと映像として浮かび上がってきたのだ。
「わたしが見ている景色が、オマエとの間に結ばれた“絆”を介して流れ込んでいるの」
じゃらり、と互いを繋ぐ太い鎖を鳴らしてジゼルが説明する。
一方のトラーオは驚愕と畏怖と、なによりも、己自身が立つべき場所だった舞台の上で死闘を演じる英雄たちの姿から逃れるようにジゼルの胸によりいっそう深く顔を埋めた。
恥じていたのだ、トラーオは。
なによりも、戦いの場に馳せ参じることのできなかった己を。
「かわいい、トラーオ」
そして、恥に身を震わせるトラーオを愛し子のように、あるいは恋人のように抱きしめ母性本能をくすぐられたという顔でジゼルが言った。
「すごいよね、アシュレは。まっすぐで、一途で、勇敢で。そのくせ、わたしの気持ちになんかぜんぜん気付いてくれなくて」
あのね、トラーオ。
それまでとは打って変わった──いいや、ヒトが変わったようにジゼルが優しく清らかな口調でささやいた。
「わたしも、置いて行かれちゃった人間なのよ。だから、あなたの気持ちが、とってもよくわかるの」
怯えるように自分を求めてくるトラーオの抱擁を甘受しながら、別人の表情を浮かべたジゼルが提案した。
「ねえ……トラーオ。提案があるの。……もし、もしよかったらだけど。あなた、ほんとうにアシュレになってみない? もちろん、それはわたしの想像のなかの──理想のアシュレってことなんだけれど」
流し込まれてくる栄光の戦い、その輝かしさに責められ、トラーオは答えられない。
ただただ、喪失を埋めるように眼前のぬくもりと柔らかさに逃げ込む。
「ね、考えてみて。あなたの決断を、わたしは、まってるから」
大好きよ、と耳元で告げ、ジゼルはすべてをトラーオの自由にさせた。
喉を反らして天を見上げる。
乱され、上下がさかさまになった世界のなかに、輝きを発しながら崩れてゆく塔のシルエットが見えた。
そこにいま《魂》がある──ジゼルはつぶやく。
まだ、わたしはそれに触れることができない、と。
※
「イリス!!」
アシュレはヴィトライオンの鞍上から飛び降りながら叫んだ。
頭上を破城鎚の騎士の攻撃が掠め過ぎてゆく。
攻防はまだ続いている。
アシュレはあえて敵の攻撃の真下を潜ることを選んだ。
先ほどまでヴィトライオンがいた場所を超高熱の粒子が薙ぐが、それは一瞬で掻き消える。
ガオォン、と大気が唸り、ノーマンの帯びた浄滅の焔爪:アーマーンの一閃が放たれた高速粒子を消し飛ばしたのだ。
無論、破城鎚の騎士には消滅効果は無効化され、損傷も与えられないが、技を繰り出した直後には大きなスキが生まれる。
「おおおおおおおおおおおおおお!!!! 虚心断空衝ッ!!」
そして、そのスキを逃さずアスカが超技を放つ。
凄まじいパワーの直撃を受け、自動騎士の巨体が揺らぐ。
べこり、めこり、とその装甲がひしゃげるのが見えた。
アシュレはたたらを踏んだ自動騎士の足元を、聖盾:ブランヴェルに乗って滑り抜ける。
足場はすでに崩落の予兆を見せていた。
それでなくとも〈ログ・ソリタリ〉の攻撃のために変形しつつあった舞台は奇岩地帯を思わせる景観を成している。
木立の中を超高速ですり抜けながら戦う感覚に近い。
「イリスッ!!」
必死にシールドを操りながらアシュレはふたたび呼びかけた。
小高くなった台座にぐったりと横たわったイリスに。
アシュレの仮説が正しければ──いま、そこにいるのは《魂》の輝きによって表層人格を剥ぎ取られた「本当のイリス」のハズだった。
アシュレの知る、ユーニスとアルマの合心であるはずだった。
突然、背後で光の嵐が吹き荒れた。
追撃してくるユガディールへの牽制に、シオンが 輝ける光嵐を放ったのだ。
一瞬遅れて、背中に重みが加わる。
影渡り── いや、正確にはすでに月影渡りとでも言うべき技に変化した次元跳躍を用い、シオンが合流してくれたのだ。
「いけ、アシュレ。アテルイはすでに、エレが確保してくれた」
「ありがとう、シオン!」
「あの女──おもいっきりそなたへの愛を叫びよって! ジャグリ・ジャグラを通じて想いが伝わり過ぎて、頭がおかしくなるかと思ったんだぞ! 切なくなってな! いまのわたしにには宝冠:アステラスの加護がないからダイレクトに効き過ぎだ! 帰ってきたら、ご要望通り徹底的に愛してやるがよい!」
それに、だ。
「こら、イリスッ!! いつまで惚けているッ!! 起きろ!! そして、そなたこそ還ってこいッ!!」
シオンがあらん限りの声でイリスを呼んだ。
いや、それは喚ぶ、というのが正しい。
「“庭園”の──《みんな》の言いなりになどなるな! だれかの《ねがい》のために生きるんじゃない! そなたの──おまえのためにだけ、その命は費やすのだ! おまえ自身を生きろ、イリスッ!!」
シオンの呼びかけが届いたのか。
それまで虚ろだったイリスの瞳に光が宿り、ふらり、と立ち上がった。
「そうだっ!! そのままこっちへ還ってこい!! わたしが、わたしたちが受け止めるッ!!」
そなたも。
そなたの胎内に宿るものの責任も。
だから。
「だから、還ってきてくれッ!!」
いつのまにかアシュレも叫んでいる。
《魂》をその胸に宿したまま。
希望を信じて。
だから、気がつかない。
イリスの瞳に宿る光の正体を。
《魂》はたしかに、イリスの表層人格を剥ぎ取った。
だから。
だからこそ。
「アシュレダウ。オマエは、危険だ。この世界をふたたび、あの暗闇の時代に戻す存在だ。掲げられた篝火が明るければ明るいほどに、鮮やかであれば鮮やかであるほどに、影もまた濃くなると──なぜわからん」
色を失い純白になった唇から漏れ落ちたその声は、騒音に紛れアシュレとシオンのふたりには届かない。
ふたりはただただ、希望を信じ、イリスへと訴え続ける。
その進路を、影渡りによって先回りしたユガディールの抜け殻が塞ぐのと、イリスの下腹からふたたび勢いをさらに増した翼の群れが吹き出すのは同時だった。
ついに実体をイリスの肉体を通じて浮かび上がらせながら、輝ける存在は宙へと舞い上がる。
「イリスッ?!」
「行くなっ、行くんじゃないッ!!」
驚愕と絶望の言葉が、アシュレとシオンの喉から迸り出る。
立ちはだかったユガディールが魔槍:ロサ・インビエルノを掲げた。
天へと向かって。
そこから放たれた純白の破片がイリスを追いかけて行く。
魔槍の破片は空中でつぎつぎと結合し、大きな光背を形作る。
限定的だが時間を操作する《ちから》がイリスを、いや、“再誕の聖母”をさらなる段階へと押し上げてゆく。
「────ッ!!」
アシュレの上げた絶叫は、もうどこにも届かない。
限界を迎えた塔から、舞台そのものが崩落を始めたのだから。
燦然のソウルスピナ第五話:「戦旗を掲げて」 完
第六話:「ヘリアティウム陥落」に続く




