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燦然のソウルスピナ  作者: 奥沢 一歩(ユニット:蕗字 歩の小説担当)
第一話:降臨王のデクストラス
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■第二夜:剣と槍と


 法王庁の闇は濃い。


 新月の晩は特にそうだ。

 地方の修道院ならばようやく終課を終え、寝入りばなの時間だろうが、ここエクストラム法王領の中心、法都:エクストラムではそうではない。

 一〇〇〇年の歴史を誇る壮麗そうれいな神の都。

 そのイクス教の中心地として備える行政的機能のほとんどを停止し、だれもが眠りを貪る時間だ。

 わずかに、夜警の衛士を除いては、わざわざ暗いこの晩に出歩こうという者はまずいない。

 

 あるいはこうとも言えた。

 この真夜中に跋扈ばっこするのは、人目をはばかる男女か、あるいは夜盗、それとも謀の主だけであると。


 しかし、その夜、聖遺物の保管庫へ足をさしむけた男は違った。

 男は聖騎士パラディンだった。

 胸騒ぎがしていた。

 それは史上最年少で聖騎士に叙任された彼が、幼少よりこの法王庁に寝起きし続けてきたからこその勘働きと言い換えてもよい。


 アシュレダウ・バラージェ。

 末席とはいえ、わずか十八歳の若さにして聖騎士の列に加わることを許された彼は、同時に聖遺物管理課を代々世襲するバラージェ家の長子でもある。


 法王庁が認定する聖遺物の数々を発掘、鑑定、ときには異教徒や魔物の手より奪還し、記録、管理保存すること。

 それこそがバラージェの家名に課せられた義務であるとアシュレは教えられてきたし、そう信じてきた。

 だから、だれよりも聖遺物に関して真摯しんしであろうと自身を律してきた。


 その自分の勘に働きかけるものがあった。


 僧服に聖騎士の官位を示すサーコート。

 護身用のグラディウス。

 かろうじてそれだけを身につけると宿直室を後にした。

 等間隔で廊下に備え付けてある燭台のひとつを拝借し、足早に管理保管区に向かう。


 そこで自身の予感が杞憂きゆうではないと確信した。


 きい、と金具の軋む音がした。

 廊下の壁面に大きく切られた窓。

 大ぶりなガラスをはめ込まれたそれが開いていた。

 豪奢ごうしゃなビロードのカーテンが風にはためいている。

 管理者の閉め忘れではありえない。

 なぜなら、その影に魔がわだかまっていたからだ。


 それはアシュレが生涯のうちで見たそのどれよりも、ソリッドな闇のカタチをしていた。


 寒気がくるほどの美であった。

 闇は少女の形をしていた。

 喪服と見紛う漆黒のドレスをまとっている。

 大ぶりな王冠を――それだけはサイズが合っておらぬ――斜めがけにかぶっていた。


「だれか」

 燭台しょくだいを突き出しアシュレは鋭く誰何すいかの声を上げた。

 同時にグラディウスを抜刀している。

 低く下段に構えた。


 愚者の構え、と教本にはある。

 本来、長剣用であるその構えを、片手で行う。


 誰何すいかの声は騎士として最低限の矜持だった。

 こちらを意識せず、ましてや丸腰の相手に、たとえそれが魔物であっても切りかかることはできないという青臭い、しかし、アシュレには無視できぬ掟。

 敵である、ととっくの昔に本能は告げていた。

 のしかかるような重圧が少女のいるほうから、ほとんど物理的圧力で持って吹きつけてくる。


 強敵だ、とアシュレの全感覚が判断した。

 神槍:〈シヴニール〉を携えてくるべきだったか、と一瞬、後悔にも似た逡巡しゅんじゅんが脳裏を過ったが――もう遅い。


 その瞬時の迷いを見越したかのように、少女のカタチをした闇が口を開いたからだ。


「童か」

 清涼なラベンダーの香りを、その声は思わせた。

 思わずはっとするような心地よさを運んできた。

 それから、なにを言われたのかアシュレは自覚して頭に血を昇らせた。


「母君の膝元へかえるがよい。そなたを傷つけるつもりはない」

 少女が言い終わらぬうちにアシュレは打ちかかっていた。

 警告をした以上、躊躇はない。

 下段からの切り上げをフェイントに使う実戦的な突き込み。

 まっすぐ少女の頭部を狙う。

 何万回と繰り返した練習は、実戦でもきちんと身体を動かしてくれた。


 聖騎士叙任にあたり、たとえ聖遺物管理課の職員であっても基礎的な剣技は徹底して仕込まれる。

 旧世界の遺産である槍:〈シヴニール〉は強力無比の兵器だが、戦うのが人間である以上、最後にものを言うのは地力とシンプルな道具のほうだ。

 先任騎士であり、同時に父親でもある男はそう言った。


 歴史を変えるのは、ヒトの《意志》の力だと。

 アシュレもまた、そう信じていた。

 そのときはまだ、純粋に。


 少女は剣を避けなかった。

 加速された知覚のなかでアシュレはそのかんばせを改めて注視した。

 少女はまるで剣などないかのように、必殺の刺突が顔面に迫るのを見ていた。

 その瞬間、アシュレのなかに慚愧ざんきの念が湧いた。

 すなわち、自身のこの行動が、単に瞬間的な感情の激発に寄るものではないのかという疑念だ。


 軽々に己の感情にしたがってはならじ、ただ神の御前に忠実たれ。

 聖騎士の訓示にそうある。

 

 だが、突きを引き戻すには遅すぎた。

 剣はアシュレの後悔を乗せたまま、美しき獲物に突き立つ――。


 そのはずだった。

 その時、起きたことをアシュレは、すぐには理解できなかった。


 す、と少女が身を投げた。

 剣の側に。自ら。

 その純白の指が剣の腹をさわり、まるでアシュレを出迎えるかのように、空いた右手が頬に添えられる。


 次の瞬間、世界が流転した。

 五感がバラの香りに包まれた。


 そして、気がつけばアシュレは床に転がされている。

 痛みはなかった。

 ただ、組み伏せられている。

 グラディウスは、いずこかへ跳ね飛ばされており、手の届く場所にはない。

 そこまできて、無刀の体術に屈したのだと、やっとわかった。


 腹上に少女がいた。

 灯は失われており、体重と感触だけでしか知覚できなかったが。


「死が恐ろしくはないのか?」


挿絵(By みてみん)


 ほとんど感情のない声が暗闇でささやいた。

 そうであるのに圧倒的な存在感がアシュレを打ちのめす。

 まるで法王猊下そのひとを前にした時のようなプレッシャーが、腹上の少女から発せられていた。


「不名誉な生よりはマシだ」

 かすれる声で、やっとそれだけを返す。

 嘘だった。

 アシュレはこのとき、はっきりと戦慄していた。

 もっと端的に言えば怯えていたのだ。

 だが、強がらねばならなかった。

 それが名誉のためであるのか、騎士として、男としての矜持であるのかは年若い彼にはまだわからなかったが。


「嘘を申すがよい」

 あっさりと見抜かれ、アシュレは唇を噛む。

 暗闇であることがさいわいだった。

 男として、騎士として、にじむ涙を女に見られたくはない。

 しかし、続く言葉に、アシュレは激しく動揺せざるをえなかった。


「わたしの知るヒトの騎士は、はっきりと死を恐いと申したものだ。それでもなお、奴は命を懸けて戦ったがな」

 言葉ではなく行動にこそ信は現れる。

 そう女は言ったのだ。

 頭蓋をハンマーで殴られるような衝撃をアシュレは味わった。

 死の間際によりにもよって魔物に説教されるなど考えだにしなかったことだ。

 しかも、その説教には説得力があった。

 殺せ、という喉まで出かかったセリフが力を失う。

 三文芝居のように陳腐に思えた。


「今宵は預けてあった品物を、ひとつ、返してもらいにきただけだ」


 アシュレは、むせ返るようなバラの香に眩暈を覚えた。

 それは不快なものではなく、アシュレから抵抗の意志を奪う。

 すべやかで冷ややかな、なにかが頬を撫でた。


「そなたたちを傷つけたくない」

 おねがいだ。

 そう懇願されたように感じたのは錯覚だったのだろうか。


 アシュレがぼんやりとそんなことを思い起こす間に、溶け消えるように胸の上から重圧が失せていた。

 我に返ったアシュレが飛び起きるのは、それからたっぷり三十秒もたってからだ。

 保管庫の側から走り寄る足音を聞いた。

 立ち上がりながらアシュレは自身の体を嗅ぐ。

 あのバラが移り香となっていた。

 まるで逢瀬を終えた男女のように。


 ばつが悪くなり、アシュレは手探りでグラディウスを探した。

 鋼の刃は嫉妬したように彼の手に噛みついた。


         ※


「賊です! 管理保管庫・トレデキム・ロサエ(バラの十三番)、第一級聖遺物を収めたエリアに侵入者です!」


挿絵(By みてみん)


 息を切らしアシュレの腕のなかにアルマが飛び込んできた。


 アルマステラ・ヴァントラー。

 聖遺物管理課の同僚、官位はアシュレに劣る尼僧だが飛び抜けた記憶力の持ち主で、四カ国語を堪能に操り、読み書きだけならさらに三カ国語をこなす。

 管理主任の司教でさえ舌を巻く有能な事務官である。

 聖遺物管理課にはふたりしかいない十代のうちのひとりで、歳が近いこともあってふたりはよく話をした。


 物静かで思慮深いアルマは、アシュレにとって、そばにいても気疲れしない貴重な異性である。

 年上でも母のようにあれこれと世話を焼きたがらないことが、逆に助かった。

 それでいて、いつの間にか手助けしてくれている、そういうヒトだった。


「なぜ、こんな時間に?」

 アシュレはだからまずアルマの身を案じた。どうして、こんなところに? 

「勘ですわ。パラディン:バラージェ」

 聖遺物を案じたのだとアルマは言った。

 アナタは? 今度はアルマが訊いた。


「ぼくもです。シスター・アルマ」

 ふたりは顔を見合わせて笑った。

 アシュレは嬉しかった。

 聖遺物のことを気にかけ行動を起こしてくれた人間が、自分の他にもいたことが。

 そして、そのひとりが他でもないシスター:アルマであったということが。

 通じ合えている気がした。


「すでに帯剣なされているのですね。さすがです、パラディン。でも大変、おケガを?」

「これは自分で、です。剣に嫉妬されました」

 アシュレの手を汚す血に気がついたアルマが指摘する。

 今日は、ばつの悪いことばかりだ。

 傷を見せるとアルマはすこし安心したようだった。


「わたしなど、こんな大事に聖典を持ってきてしまいました」


挿絵(By みてみん)


 アルマは書架にかけてあっただろう大きな聖典を掲げて見せた。


 しおりとして使っているペーパーナイフの柄が見える。

 ナイフのほうも相当な骨董品だ。

 動転してこんなものを持ち出してしまうなんて、人間というのはわからないものだ。


 可愛らしい、とアシュレは素直に思う。

 それから救われた気持ちになった。

 あの有能な事務官であるアルマでさえこんなミスをする。

 失敗は取り返せばいいのだ、と。

 その思いが顔に出ていたのだろう。

 アルマが微妙な顔をした。


「パラディン:バラージェ、なぜ笑うのですか?」


 さすがに、あなたが可愛いと思って、とは言えない。

 そういえばアルマの髪の色をアシュレは初めて見た。

 頼りなげなロウソクの明かりの下で、それは、はちみつ色に輝いている。

 尼僧の規律に髪の露出は抵触する。それに伴う厳しい罰則も。

 だが、尼僧の帽子を身に着ける暇さえアルマは惜しんだのだろう。


 思わずその髪と美貌を褒めそうになり、アシュレは自らを戒めなければならなかった。

 それではまるでアルマを口説いているようではないか。

 彼女は仮にもイクス教の尼僧だ。

 不謹慎ふきんしんにもほどがある。


「あなたに救われたからです」

 アシュレは、ごまかすように言った。

 むっとした顔をアルマはした。

 はぐらかされたのが気に入らないのかもしれない。

 ほら、かわいい、とアシュレは思う。

 できればそんな彼女をもう少し見ていたかったが、そうはいかない。

 アシュレは思考を切り替えた。


「賊を追撃します。みすみす聖遺物をくれてやるわけにはいかない」

「わたしは応援を」


 意識の切り替えを瞬時におこなえるアルマは、やはり有能なスタッフなのである。

 増援要請をアルマに任せ、アシュレは駆け出した。

 第一級聖遺物の眠る管理保管庫へ。


 だが、アシュレは知らない。

 このとき彼が見落としたものの重大さを。それが彼の運命を大きく変える歯車の一枚であったということを。


 運命は軋みを上げて動き始める。


         ※


 翌朝早く、アシュレは法王猊下そのひとより詔勅しょうちょくを受けた。


 老齢であり長患いをしている現法王:マジェスト六世は、聡明で温情溢あふれる人柄で知られている。

 異教徒への理解ある政策もあり、イクス教徒以外にもマジェストの人気は高かった。

 かくいうアシュレも実の祖父のようにマジェストを敬愛していた。


「聖騎士:アシュレダウ・バラージェ。そなたに聖遺物の奪還を命じる。昨夜、法王庁の宝物庫より賊が奪取した聖遺物:〈ハンズ・オブ・グローリー〉、〈デクストラス〉の二点を奪還だっかんせよ」


 凍てついた冬の晩、恵まれない子供たちに贈り物を配って歩くという聖人が絵画から抜け出してきたような容貌のマジェストは、アシュレの肩に手を置いてそう命じた。


「一命にかえましても」

 覚悟が自然に口をついた。

 だが、マジェストの瞳に宿ったのは、痛みに似た光だけだった。

「ヒトの命と差し替えてよいような宝などないよ。ゆめゆめ忘れてくれるな」

 小さくアシュレにだけ聞こえるように身を屈かがめてマジェストはささやき、震える足取りで席に戻ろうとした。途上で老齢に、よろめく。

 その杖となりに、だれよりも早く、ひとりの枢機卿が駆け寄った。


 レダマリア・クルス枢機卿。

 法王庁の歴史でも珍しい女性の、それも十代の少女だった。

 マジェストの姪にあたり、アシュレの幼なじみでもある。

 幼い頃は同じ毛布ブランケットを奪い合うにして眠ったことさえあるふたりだが、時の流れと共にその距離は離れてしまった。


 ご無事で、と揺れる瞳が語っていた。


 勅詔しょうちょくである、と苛立った声で枢機卿のひとりが任務の復唱を求めてきた。

 アシュレは粛々しゅくしゅくとそれに従う。

 はつらつとした声が腹の底から湧いた。

 枢機卿の緋の衣に敬服したのではない。

 それはマジェストとレダマリアへの挨拶だった。


 生きて帰ります、という。


         ※


 勅詔しょうちょくの内容は、しかし、額面通りの単純なものではなかった。

 当直の兵士が二名、殺害されていた。

 ふたりともが鈍器、それも背後から。


 急襲、と呼ぶべき計画的な犯行だった。


 なぜなら、保管庫の二重の守り――魔物に対する結界と盗人に対する特殊な錠前がともにキレイに外されていたからだ。

 事前に充分な下調べと下準備なくしては不可能な芸当である。


 検察官は早々にアシュレの遭遇した夜魔の手口と断定した。

 だが、アシュレの見解は異なる。

 あの夜魔の言動と澄んだ瞳が、冷酷無残な今回の犯行と、どうしても結びつかなかった。


 さらに調べを進めるうち冷静を保っていられない事態が起こった。


 払暁近くになりアルマステラが行方不明であることが判明したのだ。

 人気のない庭園で推理をまとめていたアシュレは、その報告を子飼の密偵から聞いた。

 アルマステラが魔物の餌食となったのではという恐ろしい想像に、全身の血液が沸騰ふっとうしたかのようにざわめいたのを憶えている。


 報告によれば事件の直後、郊外に向かう東門を貴婦人を乗せた四頭立ての馬車が通過したというのだ。

 その馬車の御者は、とある名門貴族の名を挙げ、火急の用であることを門番に告げたという。

 この時代、街でも村でも門は晩鐘の鳴り終りとともに閉じられ、開けられるのは早朝であるのが常識だったから、もちろん鼻薬ワイロをたっぷりと効かせて。


 門番の話では、御簾カーテン越しに見えた貴婦人はヴェールをかぶった黒髪の美女であったという――これはアシュレの目撃したあの夜魔の少女の特徴に該当する。


 アルマのことが気がかりだった。

 すぐに駆け出し、アルマを捜しに行きたい己を押しとどめるために渾身の力を使わねばならなかった。


 そうして、眠れぬ夜が明けた。





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