■第一一三夜:その男、朴念仁
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「なんとういう光景だ」
眼下に広がるあまりにも異質な光景に、さすがのノーマンもうめいた。
アシュレたちの主時間をわずかに遡る。
「これがこの世界にかけられた認知の薄絹の下の肌。ほんとうの姿、というわけですわね」
背後から囁かれる声にも、珍しく緊張が感じられた。
「これが──イズマ様が歩んでこられた世界の景色なのですわ」
土蜘蛛の姫巫女、灰褐色の肌から“黒曜の巫女”と称された娘にして、エレの妹:エルマメイム──エルマである。
彼女はいま、背負子蜘蛛なる土蜘蛛の異能でノーマンの背に潜伏している。
「すさまじい、というほかない」
超級レベルの《スピンドル能力者》ふたりをして心胆寒からしめる光景。
屹立した旧世界の異物とそこから生じる赤い霧のごとき光に、ノーマンは肌が粟立つのを感じていた。
これは間違いなく危険なものだ、と。
「まさしく地獄の釜が開いた、という感じだな」
「そしていま、その地獄の底で、アシュレさまや姉さまは戦っていらっしゃいます」
「ユガディール……必ず討ち果たす」
決意の込められたノーマンの呟きに、エルマは言葉を噤んだ。
エルマはすでにイズマから可能性を示唆されていたのだ。
“再誕の聖母”と成ったイリスが「敵対的」である可能性を、である。
ただ、この場でそれについて言い募らなかったのは、彼女が策謀と暗躍を生きる土蜘蛛の女であっただけではなかった。
実直な人類のこの男の性根をどうやら気に入っているらしいイズマがいて、その妻としてはやはり心を砕いていたのである。
「それにしても……エルマメイム殿の《スピンドル》は高貴な酒のような、蘭の香りがするな。酔ってしまいそうだ」
エルマの沈黙をどう捉えたのかはわからないが、ノーマンが感想を漏らした。
ちなみにだが、他者の《スピンドル》の薫りについて言及するというのはおおよそいかなる種族・文化圏においても体臭について言及するくらいは「きわどい話題」なのである。
もちろん、そこは安定の朴念仁:ノーマンであるから、自分が艶っぽい話題を背に負う女性、それも人妻に振ってしまったなどという発想は皆無である。
「面と向かって、突然そんなことを言われては恥ずかしゅうございますぅ」
そして、エルマがわざとらしく恥じて見せるが、それは完全に芸妓としての演技である。
「お嫌でしたか?」
「いや、あまりに芳しいものでな。これから戦場に赴こうというのに、花を愛でているような心持ちになって、複雑な心境だ」
「そんなふうに申されると、本気にしてしまいますぅ。奥さまに言いつけますよぉ」
「はっはっはっ、それは恐いな。たしかに、あまり耽溺していると残り香の件で責められそうだ」
ノーマンはカテル島で大司教としていまも聖務についているダシュカマリエについて想いを巡らす。
“再誕の聖母”:イリスと常時接続している彼女が、現在、どのような状況にあるのかなど、考えを及ばせろ、というほうが無理な相談であろう。
「あー、いま、ものすごく愛しそうな顔をなされましたね。妬いてしまいます」
ノーマンが浮かべた表情に、エルマが混ぜっ返す。
対するノーマンのほうは小さく笑う。
すこしだけ、はにかんだように。
「しかし、ありがたいことだ。エルマメイム殿が《スピンドル》を貸してくれるおかげで、主戦場に降り立てる。背負子蜘蛛と言ったか。凄いものだな、土蜘蛛の技というのは」
「姉さまの衣服の隠しや、イズマさまの上着の刺繍に擬態しておりましたでしょう? あれと同じことですの」
「ほう」
「本来の使い道は、敵に対して使うもので──その背に取り憑いて逆に生気を吸い取り続けてやるためのものなのです」
「なんと」
「ただ、潜伏潜入には重宝する異能であることは間違いないし、ええ、今回のように《スピンドル》をお貸しすることだってできますのよ」
「ありがたいことだ。感謝するぞ、エルマメイム殿」
「驚嘆しているのはこちらでございます。まさか、こんな強引な策を持ち出してこられるとは」
「以前──カテル島での手合わせのとき、イズマから《ちから》を引き出し、ヘリオメデューサを操作していただろう? 近しいことができるのではないか、と思ってな」
あのときは、正直、肝が冷えたぞ。
ヒトの騎士はまるで楽しい想い出を語るように、笑って言った。
たくましい背中から伝わるノーマンの笑い声に、エルマもつられて笑う。
ただし、こちらは控え目で、いくぶんか苦笑めいたものであったが。
「ヘリオメデューサ:タシュトゥーカ。そんなこともございました。……ノーマンさまというのはじつに、じつに不思議な方でございますね。いくら戦時、非常事態とはいえ──殺し合い、命の奪い合いを演じた女を信用して背中を任せるどころか……このような無茶を通そうとなさるなんて。自ら傀儡針を呑むとか……ありえない」
さすがは、わたくしの旦那さまが目に留められるだけのことはあります。
エルマの賞賛にはもちろん呆れと揶揄があった。
あなたはホントに阿呆なのですね、という意味の、だ。
だが、そんなことすら意に介せず、ノーマンは言うのだ。
「あらためて礼を言わせてくれ。ありがとう、エルマメイム殿。わたしに再戦の権利を貴女はくれたのだ」
「あなた──ノーマダリウス殿、いいですか。良くお聞きなさい。いまのあなたはわたくしから提供される《スピンドル》で戦士として振る舞えているだけなのですからね。回復しているわけでなないのです。わたしとの接続が切れたなら、もう立ち上がることもできないほどに疲弊し、消耗し尽くしたあなたがいるのだ、ということだけは肝に命じておいてくださいな」
いつも遊女の演技めいた調子を崩さないエルマの声が、本気のものになった。
それはノーマンの筋金入りの実直さが引き出したエルマの性根──民を思い、一族の繁栄に心を砕き続けてきた姫巫女としての──だった。
「諌言、このノーマン、胸にしかと留めておこう」
「実際、とても消耗しますの。この浄滅の焔爪:アーマーンという《フォーカス》はとんでもない大喰らいですわ。こんなものを振い続けていたら……あなた、早死にしてしまいます」
「エルマメイム殿には、無理を強いることになるのだな。すまん」
「そうではなくて!」
んもう、と半実体化したエルマが朴念仁の耳を引っ張った。
あなたのことを心配してますの! と。
いいかげんにしないと、惚れてしまいますわよ! と。
とたんに、ぐうらり、と凧が傾いで方向が変わる。
ハッ、とふたりは息を呑む。
そういま、ふたりはイズマ特製の巨大な凧を背に、トラントリム上空を侵攻していたのだ。
これが、ノーマンを主戦場に送り届けるイズマの切札だった。
「あんまりにバカ過ぎるから、逆に成功すると思う」
というのがイズマの意見だ。
その意見にノーマンも完全に同意だった。
発想の外にあり過ぎて、だれも考えつかない策は、実現してしまえば逆に防ぎようがないのだ。
いいぞ、これはいい、と破顔一笑して乗り込む様子をイズマが困ったような笑みで見ていたのだけが、ノーマンには不思議だ。
凧を牽引する糸は脚長羊の毛をよってこしらえられた特別製で、最強クラスの《フォーカス》でも切断は難しい。
それは次元環の穴を経由して──ずっとずっと遥か遠く、脚長羊に跨がったイズマたちによって確保されている。
凧の骨は竜族のもの。
張られている帆は、土蜘蛛たちの間でも珍重される碧天蚕の糸から紡がれた最高の絹に、特製の薬液を浸潤させたものだ。
「もうっ、ちゃんと前を向いていてください! この朴念仁!」
「いまのはわたしのせいではない!」
エルマに言い返しながら、どこかノーマンの声には楽しさがある。
戦場を前にすると軽口を叩きたくなるのは、ノーマンの性なのだ。
そして、いままさに、そのための舞台が眼下に入ってきた。
「征くぞ、エルマ──戦場の習いだ。これ以降は戦闘言語、愛称で通させてもらう!」
「もとより! さあ、浄滅の焔爪:アーマーンの騎士よ、存分にその《ちから》を振いなさい!」
これより始まるは、暗殺教団:シビリ・シュメリはベッサリオンが氏族の長、姫巫女:エルマメイムと、その忠実なる操り傀儡にして浄滅の焔爪:アーマーンの騎士:ノーマダリウス・デストニアスが人形浄瑠璃。
「血の雨が降りますわよ!」
エルマの口上が轟きわたるのと、ノーマンが凧を放棄し、舞台へと身を踊らせたのは完全に同時だった。
騎士は向かう。
己の戦場へと。
流星のように。
※作中、ノーマンの名前が「ノーマン・バージェスト・ハーヴェイ」から「ノーマダリウス・デストニアス」に変更されていますが、こちらは「書籍版」に準拠しております。
先だって予告させていただいた通り、今後の連載部分は「書籍版」に用語等を統一して参ります。
ご了承ください。




