■第一〇九夜:伝導
「あのとき──あのファルーシュ海での逃避行、フラーマの漂流寺院の最終局面で、ボクは、たしかに触れた。人間の《意志》と肉体とが合一した瞬間にだけ生じる概念に、この手で触った。あれが、あれこそが《魂》だというのなら」
《魂》を“庭園”へと打ち込む、という作戦を戦隊を担う姫君たちに話したときのことをアシュレは思い出している。
「迷うこと、懊悩すること、居場所を求めて彷徨うこと。それそのものが苦痛なのでは本当はないんだ。なぜって、それは《意志》そのものだから。選択肢に迷いながら選び取り、そして、いつの日か自分自身の選択肢を、自分自身で創出するものとなる。その道程のことだから。けれども」
淡々と語るアシュレを、シオンを始めとする姫君たちは瞬きを忘れて見つめていた。
呆れられたかもしれないな、とアシュレは思い、思いながらも続けたが、本当はそうではなかった。
彼女たちは、眼前にいる自分よりも年下の男が言い出したこの突飛もない作戦に、心を掴まれてしまっていたのだ。
いつのまにか、瞳の端に浮かんでくる涙を自覚できないほどに。
そして、一方のアシュレはそんなことになっているとは思いもよらないまま、続ける。
自分の行いを信じて。
「けれども、ヒトがそれを苦行だ、苦痛だと感じるのは、見えないからだ。星が、自分を導いてくれる光が。そちらに向かっていけばいいという指標が。……だから、もしかしたら、ボクのやろうとしていることは、イリスやユガディールのそれと根本的にはとてもよく似たことなのかもしれない」
たぶん、とアシュレは言う。
「たぶんそれは《スピンドル》と《ねがい》とが、本質的には同じ場所から来る《ちから》なんだというのと、そっくりそのままの理屈なんだよ。たったひとつ、その責任が個人の《意志》に由来しているか、そうではない不特定多数の無意識に依存しているか、というだけで」
でも、だからこそ。
「だからこそ、ボクにはこの賭けには勝算がある、と確信できるんだ」
わかるかい、とアシュレは戦隊を見渡す。
続けてくれ、と姫君たちは無言で乞う。
「彼ら──イリスやユガディールは、ボクたちを恐れている。正確には、ボクたちのなかに息づく《意志》を、だ。《ねがい》と《意志》とは同じ場所から来るのにも関わらず。なぜだろう。それはきっと、目障りなんだ。そして、本当に脅威なんだ。ボクたちを《救済》したい、という言葉の背後にはボクたちから《意志》を取り上げたい、という彼ら彼女らの《ねがい》が透けて見える」
彼ら、彼女らは恐れているんだよ。
自らで考え、選び取り、選択肢を創出する人間を。
なぜって?
それはね。
「操作できないからだ。《みんなのねがい》=《そうするちから》によって。思い通りに世界をできないから。とても、とても、目障りなんだ」
だとしたら。
さらにアシュレは言う。
それを聞く姫君たちは、瞬きすることすら忘れ、こくりと頷くことしかできない。
「だとしたら、目障りすぎる《意志》の先に《スピンドル》があるのだとしたら、そのずっと先に《魂》があるのだとしたら」
それこそが。
「それこそが、彼ら彼女らが、いちばん“庭園”に持ち込まれては困る“輝き”なんじゃないのか?」
目を逸らし、必死に否定し、取り上げようとしてきた──この世界からないことにして、隠蔽しようとし続けてきた《ちから》なんじゃないのか?
「たったひとりの人間に、そんなことが可能だなんて、証明されたら困る」
可能性を示されたら、困る。
「彼ら彼女らは、そう言っているんだよ。言葉ではなく、行いで。だったら──彼らが一番困ることをしよう。見せてやろう。人間の《魂》を。理想郷を気取るやつらに」
言い切ったアシュレに、だが、と訊いたのはシオンだった。
「だが……アシュレ。その……《魂》は常に存在している物質ではない。いや、あれは物質というか……現象だ。刃と刃を打ち合わせたとき飛び散る火花のようなもの。そうであろう?」
それに、とシオンは続けた。
「そ、それに、あのとき……フラーマの漂流寺院で、廃神と成り果てたフラーマを救うため、そなたは《魂》を代償にした。そ、そのあと、どうなったのか憶えてはいないのか?」
珍しくシオンの声が震えていた。
アシュレの推論、仮説を否定しているのではない。
むしろ、逆だった。
シオンは恐れていたのだ。
アシュレの語る計画は成功してしまうだろう、とすでにこのときシオンは直感していたのだ。
だからこそ。
だからこそ、恐かったのだ。
アシュレが、こんどこそ本当に死んでしまうのではないか、と。
完全に失われてしまうのではないか、と。
そんなシオンを安心させるように、アスカが肩に手を置く。
「いいや、シオン殿下。信じろ。コイツはいまはもう、玉砕覚悟なんて考えちゃいないさ。完成間近の“再誕の聖母”相手に、親の総取りを狙ってるんだ。絶対に勝つための手を考えている」
そうだろ、と問うアスカの瞳が「そうだ、と言ってくれ」と語っていた。
だから、アシュレは言うのだ。
「そうとも」と。
ふふふ、とアスカが笑う。
オマエ、ホントに悪い男になるつもりなんだな、と。
もちろん、アスカだってわかっていたのだ。
この賭けに「絶対」などありはしない、と。
あらゆる勝負に「それ」がないように。
「じゃあ聞かせてくれ。希代の詐欺師よ。“再誕の聖母”相手に仕掛ける、一世一代の大博打、そのバカでかいイカサマのタネを」
挑むように言うアスカの問いかけに、応じたアシュレの答えこそ──シオンの肉体に埋設された忌まわしき人体改変の魔具:ジャグリ・ジャグラを用いる奇手だった。
※
まさか、と見開かれたユガの瞳が物語っていた。
同じく、異変を察知し、振り向いたイリスの瞳も。
どうして、わずかな判断の誤りと遅滞が致命的な結果をもたら死地で。
世界の命運を決しようという舞台の上で。
騎士の理想を体現した男と、“再誕の聖母”を相手取って。
どうしたら、これほどのペテンを仕掛けようなどと。
思い至れるものがいるだろうか。
いいや、思い至るだけなら、あるいはそのような者もいたかもしれない。
けれども、それを実行する者は。
実現する者は──。
ここにいた。
《みんなのねがい》=《そうするちから》に抗うと決意した男は、口先ではなく、この土壇場で大仕掛けを組み立ててきた。
アシュレとシオンとが心臓を共有していることは、ユガディールも、むろんイリスも知っていた。
ユガディールに至っては魔具:ジャグリ・ジャグラの仮の主人を務めていたことすらあるのだ。
場合によっては、それをもう一度用いて、シオンを征服することさえ脳裏にはあったかもしれない。
だが、だからこそ。
既知であればこそ。
そこに罠などありえない、と彼らは思い込んだ。
ジャグリ・ジャグラはすでにアシュレダウを正式な主人と定め、シオンの肉体とは完全に癒着した存在と成っている。
であれば。
「それを《魂》を用いて扱えば、どうなる?」
《スピンドル》の上位に《魂》は座位するのだから。
それがアシュレダウの導き出した答えだった。
アシュレを封じ込め、シオンを取り込み、アスカの動きを押さえた。
すべてに決着をつけるべく変形を遂げ始めた舞台は、ここが最初から張り巡らされた罠だったのだとはっきりと告げている。
柱廊じみて屹立してゆく装置群は、〈ログ・ソリタリ〉の接続機構だ。
状況は圧倒的に、アシュレたちの危地のハズだった。
すくなくとも、そこに立ち現れた風景そのものは。
けれども、実際は、その真逆だった。
追い詰められていたのは、アシュレたちではない。
このとき、ユガディールは長い夜魔の騎士の生のなかで久しく想起されることのなかった感覚が、背筋を走る抜けるのを感じた。
すなわち、絶対的な恐怖である。
シオンを捕縛するハズだった触腕を、青きバラを護る棘となったジャグリ・ジャグラが、十三本の先端、その一点で受け止めていた。
いや、受け止める、というような防御的な働きではそれはない。
搦め捕られているのは、すでにして、ユガディールの方だった。
「ばかな」
「驚くことではない、ユガディール。これが、ジャグリ・ジャグラの本当の用途なのだから」
淡々と、夜魔の騎士に背を向けたままシオンが言った。
「犠牲者を思うがままに変更し、弄ぶための道具。それは貶められた姿に過ぎない。長い年月をかけて道具に込められた歴代の主人たちの欲望の蓄積。それが本来は、《意志》を伝達するための道具であったジャグリ・ジャグラを歪めたのだ」
だが、とシオンは振り向きながら言った。
頭頂の宝冠:アステラスを投げ捨て、髪を解きながら。
艶やかな黒髪が宙を舞う。
そのときになって、ユガディールは気がついた。
シオンの投げ捨てた宝冠は、土蜘蛛の姫巫女の作り出した幻だったのだと。
だとしたら、いま本物は──。
そして、知るのだ。
“庭園”に囚われ《意志》を奪われているはずの男──アシュレダウの頭頂にこそ、それが輝いているのを。
精神を護る宝冠が強い輝きを発し、いやそれどころか、アシュレを主と認めて──最大の加護を垂れるのを。
「まさか」
「夜魔の騎士よ、我らの仲にあって“忘れた”などという言葉がどれほど空虚であるか、わからぬそなたではあるまい。だが、知らなかった、というのであれば教えよう。あれこそがわたし、シオンザフィルの真の所有者にして、心の臓の共有者」
だから、感じてくれ。
空中に縫い止められたように動けないユガディールは、シオンの言葉の意味を体験する。
伝達される抗いようのない律動を。
「これが、わたしたちの──《魂》だ」




