■たれそかれ8:そして、反復横飛びは光速の
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「とまあ、そういうことがありまして」
報告のため休暇を切り上げ、エクストラム法王庁に帰還したアシュレは、ことの経緯を同僚であるアルマに語って聞かせた。
聖遺物管理課に、現在ふたりしか所属しない十代の同僚、尼僧:アルマステラは、アシュレにとって気兼ねなく話せる数少ない存在、それも異性だ。
ひとつ年上だが、古代に関する好奇心や、騎士たちの勲への興味など、趣味的なものまで含めて、とにかくウマがあった。
ユーニスとでは、残念なことに、なかなか共有できない部分だ。
「それは──災難でしたね、聖騎士:バラージェ」
話を聞き終え、アシュレのカップに茶を注ぎ足しながらアルマが、共感を表した。
その様子に、アシュレも打ち解けた表情を見せる。
話し終えて、肩の荷がすこし下りた気がしたのだ。
「アルマ、ここでは、アシュレとだけ」
「そうでした。職場のクセで、つい」
公の場ではともかく、こうしてふたりきりのときは、愛称で呼びあう仲である。
場所はアルマの自室。
露見すれば厳罰ものだが、昼下がりの法王庁は、午睡の習慣のおかげで静まり返り、人気がない。
北方の厳格な宗派からは堕落の印だ、と非難されるこの習慣を、しかし、法王庁の住人たちは改めるそぶりもない。
これはもう、土地柄なのだろう。
そんな時間帯をついて、アシュレはアルマを訪ったのだ。
密会、というと後ろめたさがあるが、ふたりの勉強会は、こうやって秘密裏に行われてきた。
イクス教の戒律に照らせば違反は確実だが、ふたりの間にやましいところはない。
だからこれは、男女間のそれではなく、趣味人同士の会合というのが正しい。
ただ、今日はそこに、告解としての要素が付け足されていた。
すでに法王への報告を行い、その過程で懺悔を済ませたアシュレである。
しかし、どうしても親しい間柄でなければ話せぬ弱音というのは、あるものだ。
普段ならそれは、従者:ユーニスが受け持ってくれていたが、今回は事情が違った。
この事件では、彼女こそ被害者・当事者なのである。
むしろアシュレは、ユーニスをケアする側だった。
じっさい、あの事件以降、ユーニスはアシュレの側を離れない。
あんな体験をしたのだ、無理もないだろう。
ふたりの関係は、バラージェ家の別荘の外には持ち出さない、と約束したはずなのに、毎晩、アシュレが法王庁での宿直のとき以外は、例外なく寝室を訪れてくる。
ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も謝りながら。
それでも、アシュレを求めずにはいられぬほど追いつめられて。
だから、とても、アシュレは自分の心の内を、ユーニスに明かせない。
いまは、男である自分が、彼女が心に負った傷を癒してやれねばならないときだ。
だが、同じくらい手酷い傷を、アシュレも負っていたのだ。
とても、胸にしまい込んではおけぬものを。
それで、アルマに聞いてもらうことにした。
聖遺物管理課の同僚であれば、あれこれと隠し立てする必要がないからだ。
そして、ふたりの密会が秘密である以上、アルマの口から情報が漏れる心配もない。
これ以上の人選はなかったのである。
「素晴らしい働きをなさいましたね。さすがは、聖騎士。わたくしたちの守護者です」
ジェリダルの魔物:ビエルとの戦いと、そこへいたる顛末。
すべてを語り終えたアシュレの手を取り、アルマが言った。
ふたりの美姫を救い出した我らが聖騎士の功績を讃えて。
けれども、アシュレの顔は晴れなかった。
「……どうしたのですか? 浮かない顔」
まだ、なにかあるのですね。
アシュレの心中を察して、アルマが言った。
それはアシュレが、勉強会のお伺いを手紙で寄越してきたときから、予想していたことだった。
今回の事件について、話を聞いてもらいたい、とそこには書き添えてあった。
それは、胸中を吐露したいのだ、というアシュレからの予告である。
なんの覚悟のないままに、聞いてよい話でも聞かせてよい話でもない。
そういうメッセージだと、アルマはその一文の意味を了解していたし、実際にその通りだった。
なにより、アシュレダウという男は己の武勇伝を語るような男ではなかったからである。
その男が「話したい」とわざわざ書き添えるのだから、それはよほどのことであろうと予測していたアルマだ。
そして、その予見のとおりに、アシュレは苦しい胸中を吐き出した。
すみません、シスター、と前置きして。
「素晴らしい働き、というのは持ち上げすぎです。けっきょく、ボクが助け出すことが出来たのは、ふたりだけだったんです。レダマリア枢機卿とユーニスだけ」
やっと絞り出した、という感じで告白したアシュレに、アルマは頷いて見せた。
「生存者は──やはり」
「いいえ、居たにはいたのです。けれども、その、なんというか。あれを生きていた、と言っていいのかどうか、わからない。もう、ヒトとしては──だから、慈悲を与えました。ボクの責任で」
言いながら、アシュレは腰に差した短剣の柄を握った。
ミゼリコルディアと呼称されるその武器は、騎士たちが組み打ちで使う最後の武器だが、それにしては奇妙な名が冠されているものだ。
その名、ミゼリコルディアとは、イダレイア半島の言葉で「慈悲」を意味する。
落馬し身動きのとれない騎士に対し、相手が慈悲を乞うならトドメを刺さずにおくことからそう名付けられた、という説もあるが、アシュレの感覚としては、それはどちらかといえば逆に思える。
生還も見込めぬほどの重傷を負い、すでに死を待つだけとなった敵や、味方に対し「慈悲」を与えるための武器だ、というのが実感だ。
そして、その名の通りのことを、アシュレはジェリダルの魔物の巣窟で生きていた犠牲者たちに行った。
もはや、ヒトとしては生きれぬ姿に成り果てていた生存者たちが、一様に、懇願したからだ。
尊厳ある死を。
「聖騎士──とても、つらい思いをされたのですね」
十三歳のときから戦場に侍ってきたアシュレである。
敵の命を奪うことに躊躇や後悔など微塵もない。
ただ、今回は事情が違った。
護れなかったこと。
そして、なんの罪もない民の命を奪ったこと。
それが聖騎士たるアシュレをして、苦しめていた理由だったのである。
苦いものを含んだように目を伏せたアシュレの右手を、アルマステラは自らの胸乳に導いた。
深い意味はない。
強い共感を覚えたときの、アルマのクセなのだ。
普段のアシュレなら、赤面して、どうにかこうにか、なるべく胸中を悟られないうちに、その手を離してもらったはずだ。
けれども、今日だけはなぜか、そこから伝わるやわらかさとあたたかさ、そして、鼓動が感じられなくなるのが惜しくて、言い出せなかった。
たぶん、このとき、アシュレはほんとうに疲れていたのだ。
無理からぬことだろう。
いくら、人間の尊厳を守るための慈悲とはいえ、いくら、相手に懇願されたからとはいえ──無辜の民の命を奪うことは、ヒトの心を老いさせる。
潤いを求めてしまうのは、だから、必然だろうと思う。
心地よさに身を任せていると、アルマはいっそう強く、アシュレの手を胸に押しつけた。
瞳と瞳が合う。
「助けられませんでした」
「いいえ、あなたは救ったのです。幕切れを望むものに尊厳ある最期を与えることは、むしろ、高潔な行いです」
アルマの言葉は、嘘偽りのない心からのものだったが、アシュレの表情は晴れなかった。
そんなアシュレを見て、アルマは言う。
ほとんど、健気に。
「わたくしで、そのお心を晴らしてあげられれば、よいのに」
言いながら、アシュレの手を両手で握りしめ、押し当てるアルマに、アシュレは無理やり笑顔を作って見せた。
ぎこちない微笑みに、アルマは胸の奥が締めつけられるように狭くなるのを感じてしまう。
どんなことをしても、このヒトの心に温もりを与えて差し上げたい、と思ってしまう。
「わたくし……わたくしに、なにかできることはございませんか──聖騎士、いいえ、アシュレのために」
どんなことでも、おっしゃってください。わたくしなどで、できることなど、大したことはないかもしれませんけれど。
もし、必要としてくださるなら、どんな罰も恐れず、我が身さえ差し出しそうな勢いで、アルマは言った。
けれども、アシュレの返答は、もっとありふれたものだった。
「では、お茶のおかわりを頂けませんか?」
そのひとことで、アルマはやっと我に返った。
アシュレの掌がめりこみ、指のカタチがはっきりと現われるほど強く、自らの胸乳に聖騎士のそれを押し付けていたのだ。
これではまるで、アシュレを誘惑しているようではないか。
弾かれるように両手を放す。
ただ、アシュレのそれを払いのけることはできない。
過去の経験から男性恐怖症的なところのあるアルマにとって、聖堂騎士団、特に聖騎士たちは、その恐怖をあまり感じずにすむ希有な存在であった。
アルマが聖遺物管理課の棟内に自室を構える、それは理由のひとつでもあった。
そして、その希有な人々のなかにあって、さらに特別な男性が、アシュレだったのである。
身体に触れられても、まったくイヤではない。
むしろ、安心感や心地よさを覚えてしまう。
いや、ホントは──もっと触れて欲しい。
そんな、尼僧としては、厳禁の感覚を覚えてしまう存在が、アシュレなのだ。
たぶん、柔和で童顔な顔立ちや、良家の子息特有の洗練された振舞いにだけ、それは起因しているのではない。
内側からにじみ出る光のように、心根の優しさと、その深奥に秘められた真の強さが、波動のように感じられるのだ。
それは、人生の暗がりを歩んできたアルマにとって、陽光に温められた毛布のように、やわらかくその身を包み込んで、やすらぎを与えてくれるのである。
アルマが解放してくれたのを確認すると、アシュレはゆっくりと、ふくらみから手を外した。
迷惑だったわけではなく、もし、許されるならこのまま身を任せていたかったけれど──これ以上は、互いのためにならないから。
そう、アルマに伝わる速度で。
「で、では、お湯をいただいて参ります!」
アルマはすっ飛ぶようにして部屋を出ると、階下の暖炉へと降りて行った。
下階から床を貫いて陶器製のストーブが熱だけは伝えてくれるが、アルマの自室には暖炉も煙突もない。
ポットを抱え、足早に廊下を歩むアルマの頬はありえないくらいに紅潮し、胸は壊れてしまうのではないか、というほど激しく打っていた。
厨房でポットに薬草を詰め直し、熱いお湯を注いでもらえば、部屋に帰り着くころには美味しいハーブティーが出来ているはずだ。
「どうしたね、顔が赤いよ。風邪かい? 季節の変わり目だからね」
蒸し暑いエクストラムの夏も、すでに終わり。
季節は一日ごとに、秋めいてきている。
厨房に詰めていた調理担当者が、アルマの顔色を心配した。
午睡の時間とはいえ、調理担当者は食事の下ごしらえで忙しいのだ。
「あ、そ、そうかもしれません。それで……ちょっと、ハーブティーを多めに」
「あー、そりゃいかんね。水分をしっかり取って。部屋は暖かく、汗をかいたら、こまめに着替えるんだよ」
当然、これも僧職である調理担当者からのアドバイスを、ポットを受け取ったアルマの耳は、聞いていなかった。
先ほどのみずからの行いに対して、激しい後悔と自責に駆られてしまう。
あれでは、アシュレを姦淫を迫ったようなものではないか!
ポットを抱えたまま、しばらく自室には戻れず、中庭で紅潮と動悸が収まるのを待つ。
いや、いままでも話に夢中になるあまりに、アシュレの手を、自ら導いてしまったことはあったが、それは完全に事故だった。
けれども、今日の、あの心の動きは、ちがう。
聖騎士の心が慰められるなら、わたし自身を差し上げても構わない。
いっときでも、アシュレの心が休まるなら、わたしのすべてで慰めて差し上げたい。
はっきりと、あのとき、自分はそう思ってしまっていた。
そのことが、これまでにないほどに、アルマを動揺させたのだ。
生い茂り収穫を待つレモンとオリーブの木陰から漏れ落ちる陽の光のなかで、両手で顔を覆い深呼吸をくり返すと、やっとのことで、どうにか平静さが戻ってきた。
だが、部屋に帰り着いたころには、お茶はすっかりぬるくなってしまっていた。
「ずいぶん……時間がかかったんですね、アルマ」
「あ、あやっ、そ、その、ハーブがしまってある場所が変わってしまっていて、ですね」
誤魔化すように冷めてしまった茶をカップに注ぎながら、アルマが言い訳した。
へんだな、という顔をアシュレはする。
ハーブを探していたのだとすれば、そのあとに湯は注がれたはずで、むしろ、いまもうもうと湯気を立てるアツアツのものが注がれていなければならないはずだ。
だのに、アルマの注ぐそれからは、もうほとんど、湯気は立っていない。
それに、ハーブティーを注ぐ手元は震え、こぼしながらだ。
顔色も、なぜだかどんどん赤くなっているように感じられる。
こういう観察力がなくては勤まらないのが聖騎士だ。
まあ、今回の場合は観察以前に、かなり、あからさまなのだが。
ちなみ、アシュレの経験的には、こういう挙動不審は「一服盛られる」状況だと分析される。
もちろん、盛大に間違っていた。
アシュレにだって、アルマから一服盛られる理由など思い当たらない。
「どうか……したんですか? アルマ」
「あやあ、いえっ、いいえ! なんでも、なんでもありません。お待たせしました、聖騎士! お茶のおかわりです!!」
差し出されたカップから、勢いあまって茶がこぼれた。
いっぽうのアルマはといえば、荒い呼吸を落ち着けるべく、カップいっぱいのそれをごくりごくり、と喉を鳴らして飲んだ。
ちなみにだが、喉を相手に見せるほどに逸らして飲むのは、テーブルマナー的に不作法とされる。
「と、ところでっ、その、ジェリダルの魔物討伐のきっかけを作った《フォーカス》ですが!」
二杯目を自ら注ぎ入れながら、急き込んでアルマが言った。
やりすぎなくらいあからさまに、話題を変えてきた。
どゆこと? アシュレには事情がさっぱりだが、とにかく、まだ口もつけていないカップに二杯目が注がれ、だばだばとこぼれ落ちる様子を、アルマが気づいてないのだから、この動転は相当なものだとわかった。
これはうっかり指摘してはいけないやつである。
女性の心の機微にはイマイチ疎いアシュレも、経験則から学んではいる。
だから、あくまで平静に応じた。
「所有者の印章:インテークですね?」
「す、すっごく、便利だと思います。いろんなモノに捺印しておけば、失せ物探しに手間取ることもないしそれから重要な文献や物品の遺失を防ぐこともできる盗難にだってあいにくくなるしいざそれを取り戻すことだってそれにもっと重要な事件を解決する手立てにやくだつし、なによりその、行方不明事件を打開する決定的な《ちから》になりますですものね」
息継ぎもせずに、一気にまくし立てたアルマが、やっと大きく息を吸い込んで、付け加えた。
「わ、わたしも、押してもらおうかな。そ、そしたら、なにがあっても安心だし!」
「は?」
たぶん、アルマはこのとき自分がなにを言ったのか、いや、言っていたのか、完全にわからなくなってしまっていたのだ。
それくらい動転していたのである。
ぽかん、と口を開けて、まじまじと見返してくるアシュレの瞳に映るアルマのそれは、完全にぐるぐると渦を巻いていたはずだ。
「いや、それは、ダメでしょう。イケませんよ。そんな、人間を家畜みたいに、監視するなんて」
「わ、わたしは、聖騎士:アシュレダウになら、か、かまいません、む、むしろ、安心です! 安心を、感じます! どこでも、いつでも、つ、つかまえていて欲しいほう、ですから!」
アシュレを案じる心と、瞬間最大風速的に巻き起こった先ほどの感情──尼僧として絶対に許してはならぬそれとがないまぜになって、普段冷静で聡明なはずのアルマステラを、挙動不審にさせた。
ぷ、とその様子があまりにおかしくて、また、たとえようもないほどに可愛らしくて、アシュレは吹き出してしまった。
かああああ、とアルマはふたたび、頬が紅潮するのを感じた。
耳まで朱に染めるそれは、しかし、今度はあの胸の高鳴りからではなかった。
「ひどい! 聖騎士ッ!! 笑うなんてッ!」
極まりすぎた恥じらいが、怒りに転化するのはよくあることだ。
アルマは下級事務官と聖騎士との身分差を忘れて、掴みかかってしまった。
それがまた、アシュレの笑いを誘う。
あはは、と声をあげて笑うアシュレに、本人は本気で怒っていても戦闘技術と膂力で圧倒的に劣るアルマが挑むさまは、飼い主に小動物がじゃれているようにしか見えない。
だが、さすがにその胸の谷間に圧倒されて、アシュレは降参した。
「まいった。まいりました! アルマ、ボクの、ボクの負けです!」
「ちゃ、ちゃんと謝ってくださいッ!」
「ホント、ほんとにごめんなさい。あはは」
「んもう!」
ぷく、とアルマは不満げに頬を膨らませたが、それすら可愛らしくアシュレの目には映る。
けれども、内心ホッとしていたのは、実はアルマのほうだった。
あの調子で話し続けていたら、きっともう二度と同じ関係には戻れなかっただろう。
ずっとずっと胸の内に封じ込めてきた想いを、ぶつけてしまったに違いなかった。
そして、そうなったとき、その想いを告白だけで終わらせる自信が、アルマにはなかったのだ。
ひざまずいて慈悲を乞う己の姿を、数えきれない夜、アルマは夢に見てきたからだ。
ほっとしたような、ひどく残念なような……複雑な気持ちを味わった。
けれども、いまはこれでよいのだ、と思い直す。
そのしあわせは、アシュレの従者:ユニスフラウのものだ。
わたしは、それを彼女に託したのだから。
そう思い至って、やっと心の整理がついた。
「でも……アシュレ、その所有者の印章:インテークは、けっきょくどうされたのですか?」
実際に超常的捜査に用いれれば、これほど心強いことはないはずなのに。
冷静な聖遺物管理課事務官の顔を取り戻したアルマが言う。
「いえ、それはさすがに……ヴァレンシーナ枢機卿にお返ししました」
まだ、笑いの余韻を残した様子で、アシュレは答えた。
ヴァレンシーナ枢機卿とは、つまりレダマリアのことである。
いくらなんでも、彼女を「所有する」というのはもう、聖騎士としても、幼なじみ的にもあってはならないと感じていたアシュレにとって、あの状況はあくまで、一時的・特例的ものでなければならなかった。
そうなのですか、とアルマは、常識的にはなかば納得しつつも、含みを感じさせる様子で頷き、言った。
「残念、と言ったら、不敬なのですが……もし、それがあれば聖遺物の保護・管理も、もっとずっと楽にできるようになったでしょうに」
インテークによる走査がどういう効果を及ぼすものか、体験したわけではないので正確にはわからないアルマが、聖遺物の管理・保管を預かる聖遺物管理課の事務官として、当然の感想を述べる。
「いや、それは期待できません──インテークは《フォーカス》や聖遺物には、捺印できないんです。あくまで一般的な道具か、生命に用途が限られる。外箱とか封印とかには使えるでしょうが……決定的ではない。もしかしたら、人類に扱える《フォーカス》は、こういう超常的捜査や予見・予知には向いてないのかも、ですね。種族的特性として」
「カテル島におわしますグレーテル派の首長:ダシュカマリエ大司教が頂く銀の冠には、強力な予知の《ちから》があると言われていますが……真偽のほどはわからないし。たしかに聖騎士のおっしゃる通りかもですね」
アシュレが返し、アルマも同意する。
だが、アルマはアシュレの仮説を卓見だと思う。
たしかに、人類に扱うことのできる《フォーカス》の多くは、超常的捜査や未来予知に関するものが極端にすくない。
逆に、忌むべき敵対種である土蜘蛛などは、その系統樹の異能に精通・堪能であるという。
もしかすると、それは、人類の持つ明日を指向する強い《ちから》を、超常的捜査や未来予知系の異能が「結果として削ぐ」からかもしれない。
アシュレの指摘にはそういう含蓄があったのだ。
つまり、未来を、明日を「知ることができないからこそ」人類は、歩みを止めずにここまでこれたのではないか。
たとえ、次の瞬間、己が命が果てるとしても──明日を夢見て。
可能性を信じて。
なるほど、とアルマはその見識に感じ入る。
このヒトは、やっぱり天才なのだ、と。
一足飛びに真理に近づいてしまうその感性こそ、この男の、真の才能なのだと。
畏敬の念とともに、胸を締めつけるあの想いがぶり返してきて、アルマは泣きそうになってしまう。
けれども、そんな感慨をぶち壊したのもまた当の本人、つまり、アシュレダウなのだった。
「だから、ボクはあれでよかったと思うんです。レダマリア、いけない……ヴァレンシーナ枢機卿は、ずいぶん強くあの印章をもらってほしい、と言ってたけど……やっぱり、なんというか、愛以外で相手を所有するやり方っていうか、モノみたいにヒトを扱うのは、ダメですよね」
独りごとのように言うアシュレに、アルマは固まってしまった。
「……強く印章を受け取るように、言われた?」
「アッハイ。なんだか、すごい必死に……受け取ればよかったのかな……いいや、ダメです。ダメダメ。そんなことやっぱりイケない。だって、それじゃあ、レダの人格や尊厳を踏みにじることになってしまう。いけないことです」
よいことをした、という顔で頷くアシュレに、アルマは呆れたり、胸を痛めたりした。
一連のやりとりで、アルマにはわかってしまったからだ。
ヴァレンシーナ枢機卿が、聖騎士:アシュレダウに寄せる──いや、ふたりは幼い頃からの顔見知りだから──ずっとずっと寄せてきた想いのことを。
「聖騎士:アシュレダウ──それは……断ってはいけなかったのでは?」
「ええええええっ?!」
清廉潔白を旨とする聖騎士として、非の打ち所のない模範解答をしたと思い込んでいたアシュレは、アルマからの指摘に思わず椅子ごとひっくり返りそうになった。
そして、驚いたという意味では、アルマも同じであった。
ただし、彼女が驚愕したのは話の流れに、ではない。
アシュレの行動に対して意見する自分の声に乗った、強く、誤魔化しようのない非難めいた色に、だった。
だからこそ、アシュレは転倒しそうになったのだ。
「ど、どういうことですか?」
「だって、それは……」
しかし、こうやって理由を問い質されれば、黙り込むしかないアルマである。
だって、それは……レダマリアさまは、貴方に所有して欲しいと、暗に告げられて。
つまりそれは枢機卿位を法王にお返しし、還俗なさる覚悟での告白なのだとは、さすがに言えなかった。
この鈍感男! 朴念仁! と呆れると同時に、深く安堵している自分がいるのを、アルマは発見してしまってたのである。
もし、そうなってしまったら。
もし、それが実現してしまったら。
不安定で、危ういながらも続けてきた、アシュレとの関係が壊れてしまう。
そのことが怖くて、また、だからこそアシュレがレダマリアの申し出を、断ってくれたことに、深い深い安堵を覚えてしまったのだ。
「と、とにかく、あんまり、よいことだとは思いません」
「う、受け取るべき、でしたか?」
それでは、と神妙な顔をするアシュレの頭に、ついにアルマは一発、拳骨を振り下ろしてしまうのだ。
「そうも言っていません!」
意外にも、けっこう痛かった一撃に頭を抱えたアシュレは、おなじく拳を左手でさすりながら涙目で言い放ったアルマを、まじまじと見た。
「ボク……なんか、怒らせましたか、貴女を」
「アシュレダウ、貴方は、イケないヒトですッ!」
ぷいっ、とそのままアルマは自分のベッドにうつぶせにダイブして、枕を抱え込んでしまう。
取り残されたカタチになったアシュレはどうしていいかわからず、反復横飛びのように右往左往するばかりである。
相手がユーニスなら、そのまま背後から優しく抱きしめて、耳元で許しを乞えばいいのだが……まさか、アルマ相手にそれはイカンであろう。
なす術ないアシュレの反復横飛びは、加速するばかりだ。
「いくじなし」
ぼそり、とアルマは呟く。
ありったけの復讐心を込めて。
どんなに復讐してやると息巻いたって、愛しさのほうが何千倍も何万倍も勝ってしまうアシュレへの感情に、悔し涙を流しながら。
「え? いま、なにか?」
「アシュレダウのおんなたらし、っていったんですッ!」
いつにないアルマの剣幕に、アシュレの反復横飛びはすでに異能・超常の領域だ。
どうせなら、目にも留まらぬほど速くなってしまえばいい、とアルマは思う。
そう、こんなふうにして、法王庁の日常は過ぎていく。
過ぎていく──はずだった。
あの事件が起こるまでは。




