■第一〇四夜:戦旗を掲げて(5)
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アシュレは決戦の舞台に上がる前に、全員と交した意思確認を思い出していた。
そこを軸にして《スピンドル》を最大励起する。
《スピンドル》の律動は、縁を結んだ戦隊全体に一瞬で波及する。
鍛え上げられ、打ち上げられる鋼の刃の薫り。
焦がれるような熱さと鋭さは、アシュレが歩んできた人生を鉄床に、否応なく掻い潜ることとなった戦場と、数奇としか言い表しようのない運命が槌となって生み出したものだ。
それは、ともすれば《意志》を放棄し、安寧に身を任せそうになる心に打ち込まれるアンカーとして作用する。
目覚めろ、と喚起するのだ。
自分が自分であることを放棄するな、と叱咤するのだ。
シオン、アスカ、エレ、そして、スノウ。
深さは違っても、それぞれがアシュレと縁を結んだ女たちは、そう感じている。
恋の切なさにも似て胸の内を疼かせる痛みが「自分を護ってくれている」と自覚する。
透明な氷の表面に映し出されていたかのように、アシュレたちを包み込もうとしていた“庭園”の風景が砕け散ったのは、そのときだった。
起死回生の策を胸に秘めるアシュレたち戦隊は、だれひとり、のしかかってくるように圧倒的なイリスの《救済のちから》に屈しなかったのだ。
「ああ、なぜ」
アシュレたちが拒絶したことで、優勢になりつつあった“庭園”の風景は砕け散り、またイリスの背後に退いた。
荒漠とした現実の、戦場の姿が還ってくる。
「なぜ、なぜです、わが君──どうして、わたくしを受け入れてはもらえませんの?」
それまで慈愛の笑みを浮かべていたイリスが、両手を頬にやり、悲しみの表情を作る。
だが、その仕草が愛し子に拒絶された母親の姿、その擬態であることを、アシュレはすでに見抜いている。
「間違っているからだ。いいや、正しく言い直そう。気に入らないんだ、イリス。君が、きみたちが押しつけてくる救いが」
「気に……いらない?」
それ、だけ?
それだけのために、アシュレダウ、あなたは全人類のしあわせを遠ざけようというのですか?
驚愕に目を見開き、イリスが問うた。
「それこそ間違いなのでは」
「知っている」
だが、妻女であったヒトからの、嘆願にも似た言葉に対しアシュレはにべもなく返す。
ボク、と人称を改めたのは、彼女の前でだけは私人であるという表明か。
あるいは、本心だと伝えるためか。
「ボクたち自身の存在が間違いなんだ、ってことぐらいもうボクは知っているよ、イリス。でも、だからこそ、言ったよね、むかし。ボクは悪い男になる、って」
「どういう、意味、ですか?」
つかの間、恋に翻弄される女の顔になってイリスが言った。
愛しい夫に抱擁を拒絶された妻の顔だ。
きっと、この世界に隠されていた秘事についてこれほど深く知りえねば、いまでもその表情を美しいと感じたはずだ。
愛しくてたまらない、と感じれたはずだ。
けれども、アシュレはそこにもう人間を見出すことはできなくなってしまっている。
泣き虫で、優しくて、実は頑固者だったあのイリスを見出せなくなってしまっている。
そこにいるのは「ヒトではないものとして完成に向かいつつあるなにか」だ。
不完全だったあなたを、ボクは愛していたんだ、と気がついてしまっている。
思えばもう、ずっとずっとむかしに、すべては播種されていたのだろう。
アシュレが、アルマとユーニスを追い、あの廃王国:イグナーシュの地の底に赴いたときよりもずっとずっとむかしに。
もしかしたら、人間としての降臨王:グランがこの世を去ったとき。
いいや、もっともっと、遥かなむかしから。
《そうするちから》は、じっと目を凝らし、虎視眈々と狙い続けてきた。
目論み続けてきたのだ。
そして、今日、この日、ひとつの結論としてイリスは“再誕の聖母”と成り果てた。
自らが望んだように、心を偽装されて。
《みんな》の望みどおりに。
《ねがい》のままに。
人間であることをやめ、完全な理想の御旗として転成を完成させようとしている。
すべての民草から「考えるちから」を拭い去り、その代償に安寧を与えるものに成ろうとしている。
ここまでの過程にアシュレだって加担してきた。
聖母再誕の儀式に同意したのは他ならぬ自分なのだ。
イリスを想う心が、そうさせた。
けれども、その裏側で進行していた《そうするちから》を見抜けなかった。
思えば、危険を示す兆候はいくつも、なんどもあったのに。
そんな自分が間違っていないはずがない。
だからこそ、イリス、いや“再誕の聖母”は言うのだ。
こちら側に来い、と。
正解の側になれ、と。
ふざけるな、とその言葉に怒りを覚えるのは、理不尽だろうか。
いいや、そうではない、と叫ぶのだ。
圧倒的な《ちから》の奔流に揺さぶられ、震え続けるボクの心が。
アルマステラとユーニスとがひとつの存在となり。
結果として生じたのがイリスであり。
受胎したものが“救世主”であり。
それゆえに、自分こそが“再誕の聖母”であるというのならば。
正解だと、断言するのならば。
オマエたちは幾多の人々の戦いを。
いいや、ボクやシオンやイズマや、アスカや──いま〈ログ・ソリタリ〉の内部で救出を待つアテルイの決死の戦いを。
その果てに掴み取られた希望を、なんと呼ぶ気だ?
それらすべてを間違いだと断じ、線引きして作られた「正解した世界」の足元を、いったいどれほどの「間違い」が支えているのか。
そこから目を逸らすつもりか。
いや、目を逸らしているという自覚からすら、逃げようというのか。
間違いとされた側の人々の行いを。
ここまで自分たちの足で歩いてきた人々のそれを──なかったことにしようというのか?
傲慢という言葉は、まさにオマエたちを指して使われるべき言葉だ。
そんな正解なら、ボクはご免被る。
ヒトの行いを、そんなに軽く評価するんじゃあない。
ありていに言えば、ボクは、いいや、わたしは。
アシュレは思う。
人称を、公人としてのものに直して。
思いを口に出す。
「オマエたちが気に入らない。やりかたも、考え方も」
要するに、わたしたちがオマエたちに宣戦を布告するのは、とても個人的な理由なんだよ。
「たしかに、オマエたちの言う通りだ。わたしたちは不完全で、間違っている。だが、だからといってハイそうでか、と自分自身を売り渡せるか? ハッキリ言おう。無理な相談だ。わたしたちは間違っているかもしれないが、そんなに卑屈にはなれない。行いの結果も責任も、わたしたちのものだ(・・・・・・・・・)。売り渡すことなどできるものか。だから、わたしたちは決別を言い渡しに来たんだ。己の手を汚し、血潮を浴び、ここまで自分たちの足で、駆け上がって」
要するに、こういうことだ──。
ひと息ついて、アシュレは言い放った。
「ニンゲンを舐めるな」と。
なんだか、いつかイズマが吐いた啖呵みたいだなあ、と苦笑する。
小さく。
「ですから、わが君には、彼らを導く存在として、わたしたちとともに──」
だから、なおも食い下がろうとするイリスにアシュレは首を振ることしかできない。
「わかってないな。それが嫌だ、と言っているんだ。王冠は自分で捥ぎ取る。オマエたちに与えられるものは、なにひとつない。もし、わたしが支配者として立つならば、版図を切り取るのは、自分の腕と信じる仲間とでなければならない。統治するものは、自らの《意志》と国民たちの声でなければならない」
つまり、と締めくくった。
「自分のことは自分で決める。“再誕の聖母”よ──わたしたちの世界にオマエはいらない」
不要だ、と指弾され、イリスが初めて表情を強張らせた。
存在を完全に否定されて。
もちろん、アシュレの指し示す“再誕の聖母”という言葉が、イリス本人を名指ししたものとは微妙にズレているということまでは、わからないで。
このときアシュレは、イリスのなかに宿る「“再誕の聖母”」だけを廃しようと考えていたのだ。
「やはり、交渉では決着しなかったか」
淡々とつぶやき、頃合いを見計らったかのように進み出たのは、白馬・白装束の騎士である。
犠牲者の時を止める魔槍:〈ロサ・インビエルノ〉を携え、アシュレとイリスの間に割って入る。
「こうなると、思っていたよ」
「期待していた、の間違いではないかな、ユガディール」
惜しむようにかけられた言葉に、アシュレは冷然とやり返した。
ふふ、とユガディールが首を傾げる仕草で苦笑を表す。
「じつは、そうだ」
「あなたとの決着を着けなければならない」
だから、来たのだ。
戦いを挑む騎士としてアシュレは言った。
「……その娘には、証人となってもらおう」
ユガディールは、舞台の袖で震えるスノウメルテを見出すと言った。
そのときスノウが浮かべた表情は、哀切と表現するしかない。
「領主さま! ユガディールさま!」
呼びかけた唇が、わなわなと震えていた。
ただ、ただ、涙が落ちる。
どうすればいいのか、わからない。
どう問えばいいのか、わからない。
心のなかで吹き荒れる葛藤が肉体に現われ出でていた。
祖国の、いや、世界の運命を決しようという舞台にあって、小さな少女の心は器からあふれてしまっていたのだ。
無理もない。
このような局面に実際に立つことになる人間は、ほんの数えるほどしかいないのだから。
「ここからの死闘を子供に見せることは忍びないが」
「この国を想う子だからこそ、見せなければならない戦いもある。それに彼女は、望んで来たのだから」
ユガディールの言葉に、アシュレは答えた。
心を襲う嵐にうまく立てず、スノウは柱にすがりつく。
「どちらに軍配が上がろうと、彼女の安全だけは保証しよう」
そう言ったのは、ユガディールだ。
途端に球形状の結界がスノウを包み込み、護る。
おそらくは〈ログ・ソリタリ〉の持つ防御結界と同等のものだ。
エレのかけてくれたそれに加えて、二重の護りが彼女に垂れられた。
「そこから観ていてくれ。わたしたちの闘いを」
ユガディールは、かつての、いやいまでも護るべき国民であるスノウに声掛けする。
向き直り、武器を確かめるように一振りし、アシュレにだけ聞こえるように言う。
「残酷なことをしたな、アシュレダウ。あの子は戦災孤児だ。スノウフラウ。憶えているぞ。どうしてこれ以上の悲劇を彼女に強いる……わたしは、あのような子をこれ以上、増やしたくない。そのために戦ってきた。戦っている。だからこそ、この闘い、いずれが勝者となっても、彼女の心の傷は深いものになる」
「生きるとは残酷さと相対することだ。悲劇から子供たちを遠ざけようとすることと、思い悩む心を廃そうとすることは、似ているようでまったく別のことなんだ」
「だが、それが人間をして苦痛に歪ませ、誤らせるのだ。正しい導きこそ、この世界に求められているものなのだ。なぜ、それがわからん」
「ちがうぞ、ユガディール。彼女は、スノウは、この国を想えばこそ、ここへ来た。どんなに残酷であろうと、結末を見届けるために。それを彼女に促したものこそ、迷いであり、悩みなのだ。わたしたちはそれを《意志》と呼ぶ。だから、わたしたちには見せる義務があるんだ。《意志》を。だからわかる。オマエたちのしようとしていることは、苦しみながらも、すこしでもより良い未来を、明日を考えようとする《ちから》を、ヒトから奪い去ろうとしていることなんだぞ」
「若いな、アシュレダウ。オマエにもいつか分かる日が来る。ヒトは、それほど賢くも、強くもあれないものなのだ。時間は、時間の流れは、一瞬の気高さをあっという間に奪い去る。あとに打ち捨てられるのは、無残な《夢》の死骸だけ」
だから、そうなるよりも早く、人々を理想郷へ。
人々の心を、“庭園”へ。
信じるに足る正解を届けなければならない。
「数百年を生きたわたしの言葉だ、アシュレダウ」
語りかけるユガディールの言葉を、アシュレは首を振って否定した。
「絶望に身を委ねるな。行いを持ってそう言ったのはあなただ、ユガディール。たとえ、己自身で果たせずとも、志は受け継がれると、そう信じたのも」
ここにすべて記されている。
アシュレは胸を叩き、言った。
そこにはあの遺稿がある。
この世界の秘密に触れたユガディールの手なるものだ。
「それが若気の至りだというのだ」
「いいや、あなたは知らない。この手稿の裏表紙に記されたあなたの肉声を」
わたしは、オマエの知らないあなたを知っている。
アシュレの宣言に、ユガディールは値踏みするような目線を向けてきた。
だが、それも一瞬だ。
「なるほど言葉は無力。決着は槍で。実に騎士らしい条件だとは思わないか、アシュレダウ」
「ユガディールさま、その方を傷つけてはなりません」
ユガディールの返答に意見したのは“再誕の聖母”:イリスだ。
「ご案じめさるな──命までは取りませぬ。そのための武装、我が槍:ロサ・インビエルノなれば」
鎌槍の形状をした《フォーカス》を掲げてユガが言う。
犠牲者の時を止めるという魔槍で貫き通せば、なるほど「改変の時間」は事実上無限か。
「もっとも、腕の一本や二本は覚悟してもらうが……こちらに来ればどうとでもなる」
そして、ユガディールの言葉に呼応するように、轟音と凄まじい光量が下方から駆け上がってきた。
ごうおう、という唸りとガツンッ、とテラスを下から襲った衝撃は、ほとんど同時だった。
ギルギシュテン城の地下を潜り移動してきたもう一基の〈ログ・ソリタリ〉が、光翼を広げ、ついに姿を現したのだ。




