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■第一〇二夜:戦旗を掲げて(3)

         ※

         

 その光景を「美しい」と思えない自分は、もしかしたらすでに狂ってしまっているのではないか。

 そんな疑念が脳裏を、一瞬にしても脳裏を過った。

 

 あらゆる障害を突破し、ついに辿り着いたトラントリム深奥。

 そこに屹立する奇怪な塔・万魔殿パンデモニウムとでも言うべき建築物のテラスで、アシュレはそれを視たのだ。

 

 あたたかで、清らかな光を放つ、輝ける存在を。

 完璧に整えられた裸身を惜しげもなくさらし、法悦の笑みをたたえ、大きく張り出した己の下腹を撫でさする母親の姿。

 その指先が愛撫する存在は、産道を経ることなく直接に一部を、つまり輝ける翼をイリスの肉体を透過して現出せしめている。

 光の粒子でカタチ作られた十二枚の翼は、ゆっくりとはためいている。

 イリスの唇から漏れ落ちる妙なる調べは──あるいは、子守歌なのか。

 

 なによりも恐るべきことは、彼女が背中に背負った光輪ハロウの向こうに見える光景だった。

 

 それをなんと、たとえたらいいのか。

 ああ、そうだ、とアシュレは思い至る。

 あれは、あれこそは──天上のくにの風景だ。

 楽園の。

 理想郷の。

 

 ほんとうはこの世には存在などしない場所だ。

 それが彼女を境界線にして、現実とせめぎあっている。

 彼女がまされば、あの光景がこの世界に降りてくるのだ。

 

「よく来てくれたな」


 声は、輝ける存在を掲げる者からだった。

 

 全身を純白の甲冑で覆った馬身の上から、同じく鎧に身を固めた騎士が呼びかけた。

 いいや、正確を期すならば、この記述は間違っている。

 彼は馬に跨がってなどいなかった。

 彼の四肢こそがすでに、信じるべき乗騎のそれと一体のものであった。

 彼の肉体すべてが、すでに戦場をともにすべき甲冑そのものであった。

 彼の存在そのものが、すでに騎士という理想の体現であった。        

         

 そして、その理想像の上に、あの輝ける聖母は座していたのだ。

 

「ユガディール」


 アシュレは呼んだ。

 騎士の名を。

 騎士として。

 

 しかし、いまのアシュレは彼と並び立つには、あまりに汚れていた。

 汗にだけではない。

 泥と埃、戦塵、返り血と臓物の中身、そして、侵略者としてかつては国民であった、もしかしたら、関わり合いがあったかもしれない人々を──ことごとく打ち倒してここにいる、という罪に。

 もし、昔のままのアシュレであれば、こうしてここに立つ前に、罪悪感と羞恥で折れてしまっていたかもしれなかった。

 相手の輝かしさと、己の姿を対比して。

 

 けれども、どういうわけかいま、アシュレは全くそう思わない。

 そう思わない自分がおかしくて、苦笑さえしてしまいそうなほどに。

 なぜって。

 誇らしいのだ。

 

 なぜなら、いま自分が見ている光景は、かつてまだ本当の理想を胸に、世界の秘密を解き明かそうとしたユガディールが掴みかけた事実であり、この世界に生きるすべての人々が「無意識のうちに目を逸らし続けてきた真実」そのものであったのだから。

 

 いま眼前に広がるあの「美しさ」は、だれかが投げ捨てた責任そのもの。

 それによって蓄えられた身勝手な《ねがい》そのものの姿なのだ。

 あの理想郷の似姿こそ、“庭園ガーデン”にあっての《ねがい》のカタチ。

 視覚化され蓄積保存されてきた《そうするちから》そのものなのだ。

 

 だから、ごまかすのはもうやめよう。

 

 アレは、あの光景は《だれかのねがい》などではありえない。

 あれは、あれこそは《みんなのねがい》なのだ。

 

 だれも知覚できない自分の心の裏側の。

 そうであるにも関わらず、人の生きる裏側に常にいて、たわめられ続けてきた《ちから》。

 それは、現実では人間の小さな振舞いに現われる。

 仕草や。

 言葉づかいや。

 思考の偏りに。

 

 だれも気がつかないまま、世界を少しずつ偏向させ、変更していく《ちから》のことだ。

 人々がそれを思い知るのは、あるときそれが抗いがたき潮流となって取り返しのつかない段階に来たときだけだ。

 多くのヒトはこれを「時代」と呼び習わす。        

 自らがそこに「無意識にも加担し続けててきた」ことなど思いもよらず。

 その濁流に流されていく。        

         

 では。

 もし、それを……つまりその無自覚の《ねがい》を、汲み取って、忖度そんたくして、最適なカタチへと自動的に──人々が寝ている間にでも──変更し続けてくれる存在があったとしたなら、どうだろうか?

 そう──「時代という荒波」に押し流されるよりもはやく。

 

 見えず、触れず、聞くことも、嗅ぐことも、もちろん、味わうこともできないほどに小さくて。

 そんなものが、頭の奥の《ねがい》を少しずつ汲み上げて、世界を自動的に理想に近づけてくれたとしたなら……どうだろうか。

 みんなのそれ・・・・・・を、同時に行ってくれる存在があったとしたら、どうだろうか?

 

 たとえば“接続子ハーネス”のように。

 たとえば“義識グリフ”のように。

 たとえば“庭園ガーデン”のように。

 

 みんなの口に出せない《ねがい》を、汲み上げ《ちから》として、世界を変えてくれる機構システムが実際にあったとしたら──どうだろうか?

 

 この仮説と考えに至るとき、アシュレはいつも思うのだ。

 自分は本当に気が狂ったのではないのか、と。

 むかし、イズマと出逢ったばかりのころ、なぜ、彼がこの説明を言いよどんだのか、よくわかる。

 いまは。

 同じ想いを、あれは呑み込んでいたのだ。

 

 きっといま、眼前にその《ねがい》が現出せしめた光景がなく。

 あのとき、ユガディールに託された手稿が胸になく。

 今日これまでの旅がなければ。

 

 信じるどころか、考え至りもしなかったであろう。

 

 そう思うと、アシュレは限りなく誇らしいのだ。

 いま自分がここにこうして立っていることが。

 なぜならば。

 それは、ここまで歩んできた人間たちの遺志と《意志》が可能にしてくれたからだ。

 己の考えと想いを信じ、行動し続けてきた人々の足跡が、アシュレと仲間たちをここに立たせてくれたと、知っているからだ。

         

 世界と運命を思い通りにねじ曲げ、因果や過去さえ改ざんする存在との対決を、許してくれたのは、彼らなのだ。        

 そのなかには、いま対峙する騎士の理想:ユガディールも、いる。

 

「わたしもあなたと逢いたかった」


 だから、アシュレはフェイスガードを押し上げ、言ったのだ。

 ボクではなく、わたしと自らを呼ぶ。

 それは、この戦いに甘えの入り込む余地はどこにもないと知るからだ。

 己は、史書にトラントリムの国民を虐殺し、攻め滅ぼした大罪人として記される公人であると、アシュレ自身が規定したからだ。

 この男の前に立つとき、少なくとも自分自身の責任を背負えない人間であってはならないと、強烈に思ったからだ。

 

「ユガディール」        

         

 その言葉に、同じく甲冑に覆われて視ることは叶わぬはずなのに、ユガの顔がほころんだように思えた。

 

「来ると、信じていたよ」


 それは、敵としてということだ。

 だが、アシュレはそこに「《夢》を託した者として」という意味を見出している。

 あるいは、それも感傷と呼ばれる類いの心の動きであっただろう。

 けれども、それでも、アシュレは確かに聞いたのだ。

 

「あなたの行いが──わたしをここへ導いた」


 わたしがここに立っているのは、ユガディール、あなたのおかげなのだ。

 アシュレはそういう意味で言った。

 

「我々の出逢いは、不幸だった」

 だが、とユガは言った。

「やりなおせる」

 いいや、とアシュレは否定した。

「それはできない相談だ、ユガ。刻は、巻き戻せない。巻き戻せないことに、意味がある」

 なぜなら、と続けた。

「いまのあなたを構築したのは、その刻だからだ。そして、そのあなたとの出会いが、わたしを変えたのだから」


 わたしは、あなたとの出逢いを不幸だなどと思ったことは一度もない。

 アシュレは言い切る。

 

「だから、やりなおす必要など、ない」


 ほう、とこんどは凄みのある笑みがユガの顔に浮かんだように見えた。

 もちろんそれは彼が少し首を傾げたせいで、ヘルムの造型が起こした錯覚に過ぎないのだが。

 

「では……彼女との出逢いも、そう言い切れるのか?」


 ユガディールが馬首を巡らす。

 その背に座する聖なる乙女は、そのとき初めて気がついたように、アシュレを認めた。

 微笑む。

 

 それから呼んだ。

 

「アシュレダウ──わたくしが庇護すべき方。どうぞ、わが元へ」と。


 圧倒的なカリスマが、物理的な《ちから》となって叩きつけて来た。

 

 



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