■第九九夜:不屈の者ども
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「むう」
これまでの道程をともにしたバートンから語られたトラーオの選択と決意、そして、エクストラム法王庁の刺客としての聖騎士:ジゼルテレジアの関与に、ノーマンはひとこと唸っただけであった。
突きつけられた理不尽と、トラーオを見舞ったあまりに過酷な運命に、なぜだ、どうしてだ、吼えることは簡単であっただろう。
あるいは、バートンを責めることすら、そうであったはずだ。
だが、ノーマンはすべての言葉を飲み込んだ。
その場に居合わせ、その理不尽なやりとりを見守ることしか許されなかったバートンを思い。
なによりも、いま己がそこに異論を差し挟むことは、もはや日常への帰還はままならぬであろうことを覚悟した上でトラーオが決意した選択肢を侮蔑することになると、知っていたからだ。
それは騎士であったり、人生の先達であったりするよりも先に、トラーオという存在に対する男としての敬意からだった。
エスペラルゴ皇帝:メルセナリオの放った弾丸によって胸郭に穿たれた「向こう側」へと通じる穴。
そこから吹き出す《夢》に呑まれ、この世界から記憶ごと消え去ってゆく己を、いや、なによりも救うべき少女:セラフィナのためトラーオは、エクストラム法王庁の魔女と取引をした。
それは死よりもはるかに過酷な選択であったに違いない。
あるいは、いずれ訪れるであろう彼の死をより陰惨に彩ることになるかもしれない。
しかし、あるいはそうではないかもしれぬ。
まだ、絶対的で覆すことのできない結末は、だれの身にも訪れてはいないのだから。
そこにノーマンは賭けたのだ。
そして、賭けると決めたからには、トラーオの選び取った決断を否定しては始まらない。
ノーマンという男は、こういう男であった。
「では、ひとまずにしても、トラーオは生き延びたのだな。そして、己自身の戦いを選んだと、そういうことなのだな」
問う、というよりも己に確認するという感じで、ノーマンは呟いた。
バートンが静かに頷く。
「さて、と。そうすると、ボクちんたちは、なにがしてあげられるか、だね。トラーオくんだけじゃない。そのセラフィナちゃんや……アスカちゃんの身代わりになったアテルイちゃん、トラントリムの僭主となったユガディールと決着をつけるために戦っているアシュレと姫のために。そして、なにより、囚われの身となったイリスのために」
こちらも黙ってことの経緯を聞いていたイズマが言った。
かたわらでは適切な手当てを受け、容態の安定した女大剣使い:コルカールが臥している。
かすかな寝息が聞こえてきた。
「加勢すべきだ、と思う」
「どっちに?」
ノーマンの言葉に間髪入れずイズマが訊いた。
“聖泉の使徒”を名乗るエクストラムの聖騎士:ジゼルとともに行くと決めたトラーオか、それともいままさにトラントリムの僭主:ユガディールとの対決に赴こうとしているアシュレにか、という意味で。
ふたりの視線が交差する。
決まっているではないか、とノーマンが言った。
「決まっているではないか……アシュレの側にだ。彼はオーバーロードと成り果てたユガディールとの決着のために首都への侵攻を選んだ。いまなお遠くから響く戦闘音楽は、彼らが戦い続けている証拠だ。その先には、囚われの聖母が……あの方が、イリスさまがいる」
「イリスさま、ね」
ノーマンの口から出たイリスへの敬称にイズマは目を細め、ふうん、と鼻を鳴らしてみせた。
一瞬の沈黙が場に降りる。
視線を合わせたままのふたりの間に、ちりっ、と小さな火花が散るのをバートンは見た気がした。
ま、いいや、と瞳を逸らしたのはイズマのほうだ。
「細かいことはあとにしよう。ともかく、大きな目標として、アシュレたちに加勢するということに関しては、ボクちんも賛成だからね」
「トラーオとセラフィナのことが気掛かりでないか、と言われたら……頭がおかしくなりそうなほど気掛かりなのだ……。だが、トラーオは土壇場で自分の生き方を選んだ。エクストラム法王庁の放った魔女の思惑がどうであれ、セラフィナ奪還の約定と引き換えの取引であるのならば、そして、我々が見てきた惨状が物語るように──エスペラルゴ皇帝:メルセナリオの狙いがこの國の中枢にあるのだとしたら、運命はそこで交わるはずだ」
そしてもし、あの魔女:ジゼルテレジアが約定を違えていたならそのときは──。
「容赦なく消し飛ばすまで」
ノーマンは言い、参戦の意志をふたたび表明した。
「だとしても、だよ、ノーマンくん」
それはいいとしても、と言うのはイズマだった。
「こっちの消耗度も半端じゃない」
気持ちはわかるけれど、現状把握も重要だよ。さらっと促す。
「たしかに、な」
イズマの指摘は、たしかにノーマンも承知のことだったのである。
「中枢への侵攻作戦を強行したくらいだ。アシュレたちはアスカちゃんを加えた最強戦力で勝負を賭けたに違いない。けれども、ボクちんたちの現状は違うぜ? いまやこの国はしっちゃかめっちゃかだ。国民たちの一部は狂信のあげくに、夜魔へと身をやつしはじめてる」
イズマの指摘にノーマンは深く頷いた。
それは納得から来るものだ。
なるほど、苦しい道程の最中でみた狂的な群衆は、そうであったのか、と。
だとすれば、と結論する。
「ここまでの長旅で疲弊したカテル病院騎士に、一命は取り留めたとはいえ深手を負った“砂獅子旅団”の剣士、そして切札を出し尽くした土蜘蛛の王か……たしかに、無理に駒を進められるような顔ぶれではないな」
「さて、そこに皇子をお助けしきれなかったふがいない家臣ふたりも加えてくださいますかな」
現状分析をしたイズマとノーマンの会話に割り込んできたのは、砂獅子旅団の副官であり、実質的な現場指揮官であるナジフ老だった。
「?! イズマ、こちらの御仁は?」
「あー、オズマドラ帝国の……アスカ姫の側近のお爺ちゃん。よかった、無事だったんだね!」
「我ら自身は、危ないところでしたが、ラッテガルト様の助けもあり。しかし、ご主君の危地になにもできぬようでは……」
雪と血泥、そこに城塞崩壊で浴びた塵芥にまみれ、すっかり汚れきった男ふたりは、避難用の天幕に現れるや、両膝と両手をついて座り込んでしまった。
汚れた顔面を涙が流れ落ち、まだらに筋を作る。
ナジフ老とティムール、アスカの側近ふたりの意気消沈は、無理もない。
イズマはアスカとアテルイの身に起きた一連の出来事──王の入城について、手短に説明した。
ぽかん、というのが砂獅子旅団ふたりの正直な感想だった。
「つ、つまり……アテルイはその身を挺して、アスカリヤ殿下をお守りさし上げたと……そういうことでございまするか?」
「うん、すごくざっくり言うと、そんな感じ」
「ではっ、では、殿下はいまいずこ」
「アシュレたちが最大戦速での侵攻を再開したところを見ると、ほぼ確実に一緒にいるね」
「つまり、殿下は最前線へと向かわれた、と」
「そういうことになるナー」
再び男ふたりは床に両膝両手をつき、号泣し始めた。男泣きである。
ただし、今度のそれは悲歎に暮れてのものではなかった。
感涙である。
「殿下ッ、殿下ッ、よくぞ、よくぞご無事でッ!!」
「アテルイッ、よくやった。よくやってくれたッ。すまない、ふがいないオレたちの代わりにッ、アテルイッ!!」
主君の生存を確かめた忠臣ふたりは感激と、アテルイの身を挺した献身に涙を流す。
そこに声をかけたのはイズマだ。
ノーマンはあっけにとられてふたりの姿とイズマの間で視線を彷徨わせることしかできない。
「えーと、ですね、おふたりさん。現状だけお話しとくと、アテルイちゃんもまだ、この世にいます」
「「なにっ?!」」
イズマの報告に、泣き崩れていた男ふたりが跳ね起きた。がばりっ、とほんとに音がした。
「助けねば」
言い切ったのはティムールである。さまざまな経歴を持つ“砂獅子旅団”の面々は、社会的底辺出身者であったり 社会的少数者であることが多く、その分、団内の結束は他の軍団とは比べ物にならぬほど固い。
命を賭けた死闘を潜り抜け、命からがらの敗走の後のことである。
疲労困ぱいの極みにあろうというのにも関わらず、ティムールの目には強い意志が輝いていた。
その意気に当てられたかのようにノーマンが姿勢を正すのを、イズマは見逃さなかった。
気炎を上げるティムールとその闘志を目の当たりにして、騎士としての心意気に火をつけられた様子のノーマンに対し、冷静だったのはナジフ老である。
「さて……いま我らが馳せ参じたところで……いったい、いかほど殿下のお力になれるやら」
ナジフのうめきにも似たセリフに食ってかかろうとしたティムールを制したのは、しかし、意外にもノーマンだった。
異国異教の騎士に制され、ティムールは驚きに目を瞠る。
だが、声を荒げたり、ノーマンに掴み掛かったりはしなかった。
優れた戦士同士は相手の力量を即座に計る。
それは《スピンドル能力者》も同じ。
そして、ノーマンの放つ歴戦の勇士としてのそれは、桁違いのものがあったのである。
それだけではない。
羽織られた土蜘蛛の意匠を持つストールの奥から覗く肉体が、なによりも雄弁に語っていた。
全身に刻まれた無数の槍傷、刃傷、矢傷。
それはこの男が潜り抜けてきた修羅場と、そこから必ず生還し、そして死と死を与える恐怖を克服し続け、戦場に帰ってきた存在であることを示していた。
その無言の、しかし、絶対的な説得力がティムールの感傷を吹き飛ばしたのである。
「ナジフ老、と仰いましたか。名乗りが遅れました。わたくしは、カテル病院騎士団所属の騎士。名をノーマン・バージェスト・ハーヴェイと申します」
「これはご丁寧に。わたくしこそ、名乗り遅れておりました。ナジフ・エブン・サビール。カテル病院騎士団となれば、いずれかの戦場で刃越しにお顔を拝したことがあるやもしれませぬな」
互いに一礼し、ふたりは言葉を交わした。
緊急を要する案件だとふたりがふたりとも判断したがゆえのものであり、また、一瞬でお互いの器の大きさを感じ取ったがゆえの結果であった。
「ナジフ老。じつはわたくしは、こちらにいらっしゃるティムール殿と、心は同じなのです。いますぐ主戦場に駆けつけ、アシュレやアスカ殿下とともに戦いたい。彼らの助けとなりたい。なにより、わたし自身に課せられた聖務を果たさねばならない」
だが、とノーマンは続ける。
しかし、現在の状況では、と現実を直視する。
「ここにいるほとんどの顔ぶれは、すでに大きく消耗している。いまこの状態のままに主戦場に駆けつけたとて……彼らの助けにはなれないでしょう」
ノーマンの断言に背後でティムールが息を呑む。
一方で、ナジフ老の反応は静かだった。
「さすがの戦巧者とお見受けいたします、ハーヴェイ卿。わたくしも同じく感じておりました。むしろいま、我々にできることと言えば、決戦を終えた後のことを整える方がよろしいように思われるのです。アスカ殿下やアシュレ様が決戦に勝利するとは信じておりますが、国家を相手取った戦争となれば──帰還を果たすまで、戦いは終わってなどおりませんからな」
しかり、とノーマンも頷く。
この地の支配者であるユガディールをたとえ打ち倒したとしても、それですべてが片づくわけではない。
狂信的になり、夜魔へと成り果てた住民をノーマンも目撃している。
その正体を、イズマからも聞かされた。
トラントリムがいかに小国とはいえ、周辺に散らばる“血の貨幣共栄圏”の同盟国と併せれば総人口が数万を下るということはありえない。
そのすべてが敵となったとき、強大なオーバーロードを仕留めるのに死力を振り絞った英雄たちは果たして生還できるだろうか。
だとしたら、そのための道筋をつけなければならない、とナジフ老は言っているのだ。
「むしろ、それこそ我らがせねばならぬことではありませんかな?」
諭すように言うナジフの言葉に、ティムールがうなだれながら納得を示し、イズマが頷く。
バートンも意見を同じくしたようだ。
場は、後方支援と安全確保への動きへと移ることで一致した……はずだった。
だから、誰もが驚いたのだ。
「よし、そこで、だ。この場にいる全戦力とは言わない。残された最大戦力を持って、選び抜かれたカードを持って、いまを戦う英雄たちを支援する役を立てようではないか」
はあ? とまとまりかけた場を自らまぜっかえした男に、その場に居た全員が注目した。
ほかにこんなことを、この土壇場で言い出す男がいるだろうか。
いやいない。
いるわけがない。
ノーマンである。
「あ? いままでの話の流れはなんだったの?」
あまりのできごとにツッコんだのはイズマである。
いつもと役割が反転しているのは、あまりにノーマンの発言がぶっ飛んでいたからであろう。
そうに違いない。
「これは貴公の受け売りだぞ、イズマ。絶対にない、と思っている札ほど効くものはない、とな」
これこそが奇手、というものだ。
なぜか自信満々に言うノーマンに、イズマは溜息をつく。
「いや、良くみなさいよ、ノーマンの旦那。どこに、このヨレヨレになったメンツのどこにそんなもんがあんの?」
切札って……とイズマが呟きかけた瞬間だった。
「さあ、皆さま、まずはお腹を満たしてくださいませ? この時期ですからお魚は難しいかなーと思ったのですが、おりましたおりました。石の下に、たくさん大きなのが」
湯気をあげる鍋を捧げて入ってきたのは土蜘蛛の美女:エルマである。
呪術を得意とするという剣呑な肩書きをうかがわせない世話女房の姿で、天幕へと入ってきた。
とたんに旨そうな匂いが鼻腔を襲い、だれのものとはなく、胃袋が鳴った。
鍋蓋にはザルが乗せられており、そこになにか食材めいた存在が蠢いている。
「エルマどの?」
「はい、この時期こそ旬の食材! ザザムシです!」
びちびちと跳ねる良く肥えたエビのごときもの。
なんとそれは、川虫の仲間だったのである。
だが、そんな衝撃的な食材の登場にも、なぜかだれも驚きの声をあげなかった。
「あ、あら? どうなさいましたの、殿方の皆さま。そんな爛々と光る熱いまなざし……ちょっとまってくださいまし、あの、いくらわたくしがその、手慣れておりましても……一度にそんな、いけませぬいけませぬなりませぬ、壊れてしまいますぅ」
「それだ」
「あったわ、切札」
「は?」
真剣な目をした男ども全員に詰寄られ、エルマはぽかんと口を開けるしかない。
前代未聞の奇手が繰り出されるのはこの後だった。




