■第九八夜:わたしの騎士として
※
乾いた花弁の匂いがした。
枯れかけた、あるいはドライフラワーにされたバラのような。
そんな華やかさと胸の奥の喪失に訴えかけるような──どこかメランコリックな匂いだと、トラーオは思う。
シルクのような手触りがした。
表面は冷たいようでいて、その内側に柔らかな熱を蓄えたしなやかな触り心地だ。
それが女の肌であり、自分はそこに顔を埋めていたのだと気がつくまでに、トラーオにはしばらく時間が必要だった。
「うわっ」
あわてて女から身を引き剥がし、身体を起こす。
つられて、純白の鎖がジャララララッ、と音を立ててのたくった。
「う、ん……こら、勝手に暴れない、トラ……繋がっているんだから……痛くしないで」
まだ半分眠りの側にいる口調で、女が言った。
トラーオには、女に見覚えがあった。
うっすらと、などというものではない。
はっきりと、間違いようもなく、どうしようもないほどに。
魔女だった。
憎むべき敵であり──いまや、トラーオの主人。
ジゼルテレジア・オーベルニュ。
たしかに……存在の喪失にうなされた夢のなかでトラーオは、たしか、この女に隷属の誓いを立てた。
「夢……夢じゃなかったのか」
「ざんねん、夢じゃないわ。起きているでしょう? それより引っ張らないで。さっきも言ったでしょ、繋がっているの。急に乱暴にされたら……痛いの。わかるでしょ? や・さ・し・く」
「うわわわわっ、よ、寄るな!」
「なーにをいまさら。胸に開いてた大穴を、どうやって封じたか覚えてないワケ? そのあとキミがどんなになったか。わたしをどんなふうにオモチャにしたか?」
「なん……だと……」
「とりあえず、服を着させてくれないかしら。これでも婚前のレディなのよ。というか、その前に聖職者だったか」
冗談とも本気ともとれぬ口調でジゼルが言い、トラーオはその裸身に思わず視線を走らせてしまった。
ぞっとするような美しさ。
魔性の、というのはこういう女を示すのだろう。
薄く赤みを帯びた豪奢な金髪だけが申し分け程度に裸身を覆う。
カタチの良い乳房がその内側からのぞいて見えた。
だが、なによりトラーオの視線を釘付けにしたのは、騎士とは思えぬほどほっそりとした右腕の先、手首に巻き付いた純白の鎖、ひと巻きだった。
それは束縛を感じさせ、女の姿をより扇情的に見せた。
しかし、自分がその鎖のなにに引きつけられたのか、トラーオにはすぐにわかった。
その鎖はジゼルの肉体に直接に接続されていたのだ。
ジゼルの手首の先端下部にあたる部分に波に洗われた骨のように白い器官が突き出していた。
鎖はそこから生じていたのである。
トラーオは思わず鎖がどこへと向かうのかを目で追う。
いまふたりが臥していたベッドの上からいったん床へとそれはこぼれ落ち……再びベッドの上へ。
毛布のなかを這ってから、もう一度、姿を現して終点へとそれは向かった。
すなわち、トラーオの胸に生じた、これも奇怪極まりない器官へと。
「なん、だ、これは」
「あらあら、忘れたの約束。助けると言ったでしょ?」
「こんな……こんな話は聞いてない」
「してないもの。というかそんなヒマあったっけ?」
超常の理を制するのには、常識の側のやり方で通じるわけがないじゃない。
ジゼルは己と少年とを繋ぐ不可思議な鎖を指して言った。
この状態にするために、どれだけわたしがあなたに尽くしたか、わかってないの?
艶然と微笑んでジゼルが問うた。
正気を疑うような、しかし、美しき微笑み。
ぞっとするような寒気とともに、狂的であるからこその官能が、背筋を競うようにして這い登った来た。
ヒトの価値観という尺度にあって、狂気と美は紙一重の場所に座しているのだと、トラーオはしらない。
理性を蕩かすような媚態に接したことのない少年は、ジゼルに翻弄される。
カテル病院騎士団は最前線を受け持つ戦闘集団であり、加えて、イクス教のなかでも特別に聖職者の妻帯を認める宗派であったから、厳格な規律のもとに暮らす他宗派の僧たちに比して、男女の関係性については多少なりとも免疫のあるほうだと思っていたのだが……。
「こ、ここは、どこだっ」
「あなたとわたしの愛の巣、というところかしら」
「ふざけるなっ」
「トラントリム首都近傍の森のなか。森番の小屋を拝借したって言えばよかったかしら?」
「なん……だとっ?! じゃあ、敵地のど真ん中……いや、むしろ中心地に」
「いけなかったかしら?」
「いける、いけないという話じゃあない! どうするつもりだ!」
興奮し激昂するトラーオの身体が、ぐらり、と傾いだ。
めまいがして目の前が暗くなる。
「あん、もう。無理をするからです。わたくしの騎士さま」
そして、くずおれそうになったトラーオを優しく胸に抱き留めてジゼルは続けた。
「あなたはまだ存在が安定してないのだから。まだヒナのカタチにすら固まりきっていない卵のような状態なのよ。それに、わたくしから《夢》の供給が絶えたら、途端に栓が開いて消えてしまうのだから、ね?」
先ほどまでの挑発と嘲弄を含んだ口調から一転、まるで聖母のごとき慈愛の表情でトラーオの頭髪に手櫛をかけながら、ジゼルが諭す。
「ぐ、は、はなせ。魔女」
「口ではそのように申されても、身体は動かないでしょう? むしろわたしを求めている。あなたはこれから一生、わたしに依存しなければ生きていけないのですよ?」
「でたらめを抜かすな。オレを、図ったのだろう!」
「誤解ですわ、わたくしの騎士さま。きちんと約束は守っているではないですか」
「約……束?」
「わたしはあなたを助けた。そして……あなたの願いをも成就させてあげようとしているではないですか」
「オレの……ねがい、だと?」
関係を断ち切らなければならないとわかっているのに、ジゼルの胸乳の甘さと熱から逃れられず、なかば顔を埋めたままトラーオは訊いた。
「セラフィナ……あのコを取り戻したいって、そう言ったでしょう? 性悪なあの男──エスペラルゴ皇帝:メルセナリオの手から」
セラフィナ──その言葉が、ジゼルの愛撫からトラーオを引きがした。
がばり、と身を起こす。
まだめまいがしたが頭を振って堪えた。
まなじりを固め、ジゼルを睨みつける。
そして、トラーオの瞳に宿った炎に、ジゼルはますます昂ぶる。
そういう性だったのだ。
「だが……いったいどういうつもりだ! オマエはあの男の仲間なのではないのか?!」
「だれがそんなこと言ったかしら? 利用はさせてもらいます。けれども、あの男は野心が強すぎる。世界について詳しすぎる。なにより、その手に持つ武器が剣呑すぎる」
「世界について、詳しすぎる?」
「危険だということです。知りすぎている、ということです。この世界を秩序ある統治へと、正義によって律された世界へと導くには……でも、いまのわたしたちには《ちから》が足らない。だから」
だから、毒と知りながら用いているのですよ?
ジゼルは、秘めごとを話すときの口調で言った。
トラーオの目尻が吊り上がる。
ままならない腕にむりやり力を込め、ジゼルに掴み掛かる。
「正義、だと?! オレも……そうするつもりなんじゃないのか。メルセナリオが邪魔になったなら、そのとき、オレをぶつけるために、オレを助けたんだろう!」
「正解、かな」
「キサマッ!!」
「でも、それは半分だけ。あなたにはほんとうに、わたしだけの騎士さまになってほしいの」
掴み掛かるトラーオの暴力を甘受したままジゼルが言った。
どこか遠くを視るような、この場にいないような、そんな口調で。
「どういう……意味だ?」
「わたしをひとりにしないで。ずっとわたしのかたわらにいて、わたしを護って欲しいの」
「???」
意味がわからず、トラーオは混乱する。
そんなトラーオの態度に「いまはそれでいいわ」とジゼルは視線を現世に戻して笑った。
また、あのときのように艶然と。
「でも、なにをするにもまずはキチンとあなた自身を固めることが必要。そのためにはもっとふたりの関係を深めなければ」
「関係を、深める、だと?」
どういう意味だ、どうするんだ。
またあの堪えがたい暗転が襲ってきて、トラーオは枯れがけのバラの匂いがする肉体に囚われてしまう。
そして、その耳朶に、恥じらった乙女のような声でジゼルは言うのだ。
「男女が関係を深める、といったら、もうほかになにがあるというの? 言葉ではわからない場所をわかりあうとしたら、あとはもう、行いしかないわ」
あなたが、もし、ほんとうに自身の願いを成し遂げたいのなら、選択の余地などあるはずない。
これは取引なのだから。
そうでしょう?
耳元でささやかれるジゼルの言葉を、トラーオは免罪の言葉のように聴きながら、取引に応じることを承諾した。
いままさに巨大な運命という器のなかに己自身を投じたのだと、自覚できぬまま。
※
長い夢を見ていたような気がする。
カテル島を旅立ち、ビブロンズ帝国首都:ヘリアティウムを経て、雪と森に閉ざさ秘密を抱えた國:トラントリムへと至る旅路の夢だ。
嵐の海での大海蛇との遭遇。仲間たちとの別離。そして、奪われた聖母。
その一部始終を追体験する夢を、見ていたようにノーマンは思う。
目覚めればたおやかなでよい香りのする娘の膝に眠っていた。
イズマと同じ種族的特徴を持つ──しかし、肌の色だけが灰褐色の民族色豊かな衣装をまとった娘だった。
「ここは? オレは?」
「イズマさま、お目覚めになられました!」
独白めいたノーマンの問いかけには答えず、娘はイズマの名を呼んだ。
そうだ、たしか、この娘はイズマの妻のひとりだと名乗ったはずだ。
名をエルマメイム。
エルマと呼ぶようにと……いわなかったか?
「エルマ殿……でよかったか。オレは、いったい。イズマはなにを」
そう問おうとした瞬間、シェルターじみた隠れ家へとふたりの男が言葉を交わしながら入ってきた。
ひとりは見間違いようのない奇抜な服装で。
そして、もういっぽうの男も、よく見慣れた風貌と旅装をしていた。
「バートン! 無事だったのか!」
「それはこちらのセリフですぞ……ずいぶん、無茶をなされたようですな」
ノーマンは直截に、バートンはやや皮肉るように。
しかし、再会を果たしたふたりは肩を叩いて互いの無事を喜びあった。
かたわらに立ったイズマだけが呆れたようにため息をつく。
「もう目覚めちゃったの? クマでも半日は寝てるような薬と技だったのに」
やっぱり朴念仁にはこの手の薬や能力は効きにくいのかなあ。
イズマは口をヘの字に曲げ、ノーマンを見下ろして、ぼやいた。
「それだけ、アシュレさまや、イズマさま、そして仲間の皆さんのことを強く想われていた証拠では?」
とりなすように言ったエルマに、それが困るんだよ、とイズマは応じた。
「寝ててくれりゃあ、黙ってこの《閉鎖回廊》から撤退する手もあったのに。中途半端なところで起きちゃったなあ」
心底困った様子でイズマは首を左右に振った。ぽきりぽきり、と音がする。
「寝ててくれれば、よかったのに、というのはどういうことだ……それに、なぜ、ここにバートンがいる?」
要領を得ないイズマの態度に、ノーマンが食い下がったのは無理もないことだっただろう。
「結論から言うと、だね。いなかったのよ、トラーオくん」
「!」
だから、イズマの口から飛び出た要約は、あまりに突飛で衝撃的に作用した。
「どういうことだ!」
ノーマンは跳ね起きるとイズマに詰め寄った。
「いや、だーかーらー、説明するからー、ちょっとまちなよー。オッサンが近いと調子が狂うって前にボクちん言ったよね?」
半裸の男に詰め寄られ、イズマは首を反らしながら落ち着くように言った。
「いなかった?! いなかっただとッ?! これが寝てなどいられようか! どういうことだ、イズマッ! バートン! 説明しろ! ……まさか……手遅れだったなどということはないだろうな……消滅してしまったなどどいうことは」
ほとんど半狂乱になり詰め寄るノーマンに言葉をかけたのは、イズマではなくバートンだった。
「消滅、というのではありませんな。もし、そうであれば、さらにあの男……メナスのセリフを信じるならば、皆さん方はともかくも、《スピンドル能力者》でないわたしが、彼のことを憶えていられるハズがない」
「では、どういうことだ! バートン、あなたが看ていてくださったのではないのか!」
ノーマンからの追及に、しかし、バートンは怯むこともなく落ち着いて答えた。
「おっしゃるとおり、たしかに、騎士:ノーマン。だから伝えましょう、彼の、トラーオの選択を」




