■第九七夜:問いと眠り
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空間がひしぐ音と、弧を描く光条が偽神:〈ログ・ソリタリ〉を打ったのは、ほとんど同時だった。
ギャヒイイイイイイイイイイッ、と巨体を反らし〈ログ・ソリタリ〉は悲鳴じみた軋みを上げる。
だが、その光条が攻撃によるものではないことを、その場にいた人間のなかで、イズマだけが見抜いていた。
「王の入城──発動、しちゃったのか」
己が授けた条件発動型の異能である。
それが効果を発揮したことがイズマにはハッキリと伝わっていた。
そして、その意味するところも。
駒の位置交換が行われた。
つまり、アスカとアテルイの。
それも、ほとんど想定しうる最悪の状況で。
いや、どこかでこうなる予感がイズマにはあった。
あったからこそ、強力な駒の側の生存確率を高めたかった。
慈悲や憐憫といった人間的感情の居座る場所は《閉鎖回廊》には、ない。
イズマの判断を非情、非道と呼ぶか、あるいは帝王学と呼ぶかは、ひとそれぞれの判断だろう。
けれども、とイズマは思う。
おそらく、アテルイが失われ、アスカが奪還された状況を目の当たりにしたアシュレの心中は、とんでもないことになっているだろうな、と。
一、二発は殴られるだろう。
もとよりその程度は覚悟のうえだ。
ただ、イズマが案じるのは、己の保身ではない。
眼前で、仲間が代償となるさまを見せつけられたアシュレの心の傷のほうだ。
あいかわらず、あくどいことをしているナ、ボクちん。
想いが苦笑になって、現われた。
まあ、感傷にすぎないケドネ。
大悪党になることを数百年も昔に覚悟し終えた男は、へっ、っと己の感情を笑い飛ばし〈ログ・ソリタリ〉の観察に戻った。
アスカ姫のエスコートを務めていた砂獅子旅団の面々は攻撃続行を諦めたようだ。
ラッテガルトも手酷くダメージを負っている。
さいわいにも、飛行能力までは失われていないことが確認できたので、ナジフ老とティムールを拾わせに行こう。
それよりも気になるのは〈ログ・ソリタリ〉の動向だった。
殷々と鳴る特徴的な音声と明滅する頭部は、行われた位置交換の結果、アテルイが虜囚を替わった証拠であろう。
しかし、その直後から〈ログ・ソリタリ〉は嵐のような《救済》の手を止め、どういうわけか崩壊したギルギシュテン城へと収まっていくではないか。
イズマはその様子をしばらくの間、じっと観察してから、結論した。
これは──。
「こりゃあ、なんかあったな? 戦線を縮小し、戦力を集中させようって動きか?」
イズマの戦術眼が、その奇妙な行動の意味を見抜いた。
「たしか、〈ログ・ソリタリ〉はもう一基、トラントリム首都にあるそれと繋がってる“門”だっつてたよな。そうか──」
どうやら、イズマの仕掛けた策としての王の入城は、予期しなかった動きを相手に選択させたらしい。
見ている間にも、出現場所である城塞の地下へと巨躯を押し込もうとする〈ログ・ソリタリ〉の動きは加速している。
「たしか、地下通路があるっつってたねえ。首都へと直通の」
アシュレから得た情報を分析して、イズマはつぶやいた。
そして、この動きは──もしかして、アシュレがなにかを仕掛けたのかもしれない。
あるいは、そうなることを、伏毒の罠を盛られた〈ログ・ソリタリ〉が察知したのか。
つまり、怒りに燃えて、アシュレがアテルイを奪還すべくどこに向かうのかを──解析したのではないか。
「やるじゃねえか、チビッコが」
イズマは思わず、悪態めいて称賛する。
シオンを凌駕する年月を生き、ついにオーバーロードに成り果てた夜魔の王に、そういう判断をさせるほどの感情の量を、それはアシュレがアテルイに注いで与えた、ということだ。
そういう巨大な量の感情を持ち、相手に与えることのできる存在をなんと呼ぶか。
イズマは知っている。
「それに、こりゃあ、もしかして、チャンス?」
「元気そうだな……それに楽しげだ。さすがは、土蜘蛛の忘れ去られた王:イズマガルムというところか」
疲労困ぱいであるはずなのに、その口元に現われた獰猛な笑み見て、ノーマンは眼前の男の本質をいまさらながらに理解した気がした。
もちろんそれは、イズマによって行われた王の入城の謀を、ノーマンがまだ知らないからということもあったであろう。
もしすべてを知ったなら、アシュレより早く、文字通りの鉄拳を食らわせる男であったろうから。
「それはお互いさまっしょ──ノーマンの旦那。そんでもっかい聞くけど……なにしに来たわけ?」
全身に負った傷からその場に身を横たえるしかない女大剣使い:コルカールの容態を見ながら、イズマが応じた。
己の衣服に縫い付けられた傷封じの貴石をいくつかむしり取りつつ、だ。
「捜しにきたのだ──貴君らを」
そして、その問いにノーマンはまっすぐ答えた。
傷封じの貴石を用い、コルカールの負傷を癒していたイズマはそのまっすぐさにむせた。
「冗談でしょ。つか、なんでひとりだし、おまけにその格好。なに、遭難でもしたの?」
「話すと長過ぎる。遭難したというよりも、難破してな」
「……言ってる意味がよくわかんねえんだけれども……ダイナミックねえ、相変わらず」
それで、とイズマが促し、ノーマンが頭を掻いた。
「いや、それが……なにをどこから説明すればいいのか」
「あ? なんだって? もちょっとハッキリ話してくれる? 火柱の音が激し過ぎて、よく聞こえねえ」
「いや、だからだな……まず、移動しよう。そちらのご夫人は……立てるか。うむ、わたしがお助けしよう」
言うが早いか、ノーマンはコルカールに歩み寄るとその巨体を軽々と抱き上げた。
ただの甲冑であれば表面を火柱に炙られ高熱を帯びていたかもしれないが、そこは強大無比の《フォーカス》、浄滅の焔爪:アーマーンである。
抱きかかえられたコルカールは、己がか弱い乙女のように扱われていることと、両腕の冷ややかさ、男の肉体の熱さのギャップに頬が赤らむのを禁じえなかった。
「で、だ」
強力な輻射熱と轟音を凌げる場所へと、三人は身を移した。
これはトラントリム側の追撃を避けるという意味でも重要な判断である。
イズマは驚くべき手際で残雪の林床に隠れ家を構築してしまった。
なんでも地グモの巣、という特別なテントらしい。
「こういう長距離遠征に使う道具でさ」
いったいどこから現われたのか脚長羊の背中からそれを下ろして広げれば、恐ろしくカモフラージュされた陣地が、あっという間に現出した。
「とにかく、旦那ひとりが敵地をウロウロしてるってーのは偶然にしちゃあで来すぎだし、捜索隊だってーなら、どっちがだよ、ってくらいに滑稽なお話だ。……困ったことになってんでしょ」
「話が早くて助かる。だが……どこから話せばいいのだ」
「緊急性の高いヤツから、かな?」
「それだ」
珍しく混乱した様子のノーマンに薬湯を持たせてやりながら、イズマが促す。
ひとくち薬湯に口をつけたノーマンが言った。
「助けがいる。貴君の」
ノーマンはまず、ふたつの点に言及した。
すなわち、肉体に治療不可能な攻撃を受け、存在を危うくしつつあるトラーオのこと。
もうひとつは、聖母:イリスが強奪されたことを、だ。
本来であれば、そこにセラフィナのこともあった。
だが、ノーマンはまず、存在を失いつつあるものと、自分たちの本当の使命に関わることだけを伝えた。
本当に時間が切迫していたのだ。
けれども、イズマの解答はさらに辛辣だった。
「ノーマン、それ、選択肢だよ」
つまり、どちらかしか救えないよ、とイズマは言ったのだ。
「なぜだ!」
そして、わかっていてノーマンも食ってかかった。
イズマの襟首を両手でつかむ。
同じく、イズマもわかっていた。
だから、なにひとつ抵抗しなかった。
かわりに言った。
「時間がないから手短にいこう。ノーマンくん、キミ、自分がどれだけ疲弊してるかわかんないでしょ。興奮しているからね。あとでドッとツケが来る。デカイ異能を惜しみなく注ぎ込んで連戦、冬の海での遭難からの生還、あと、チビッコが受けた傷の応急処置、それも何度もだ。ふつうの《スピンドル能力者》なら死んでるよ、すでに。《ちから》の使いすぎで」
「だがッ!!」
「で、そのうえで、だ。ボクちんもさっきまでけっこうデカイ術を連続で行使してたんだよね。もちろん、協力はするよ。たださ、両方に手を貸すのは難しい。時間的にもね。それに、イリスをさらったのはユガディールなんだろ? それ、いそがないと世界に関わるレベルの問題が起きそうだけど?」
おそらく、イズマの心算は最初から、イリス奪還に関わる一点だけだったのだろう。
そして、ノーマンは知り得ようもないことだが──唯一、イズマだけが、あのときカテル島で起きた聖母再誕の儀式の結末、そのクライマックスに現われたイリスの真実の姿を知っていたのである。
「わかっている! しかし!」
「聖務遂行のためなら、己の感情やそこにまつわる一切を捨てていける男なんだと思っていたよ」
どこか冷たさのある声でイズマは言った。
端的に言えば、疑ってもいたのだ。
このとき、イズマは、ノーマンを。
あるいは試しても、いたのかもしれない。
「あのままでは……トラーオは、この世界からも、われわれの記憶からも──消えてしまう」
床に両拳をつき、絞り出すようにノーマンが言った。
その様子に、イズマは目を細める。
ノーマンという男の本質を見抜くように。
それから、そっと息を吐いた。
ショーガネーナー、とわざとらしいセリフとは裏腹に、顔に浮かんだ苦笑には己の甘さ加減、アホさ加減を嗤う調子があった。
「こいつはとっときのとっておき、最後の最後で切るはずのカードだったんだけれども」
おーい、出てきてくれるー?
と、立ち上がり、身体を包む外套の奥に呼びかけた。
我知らず涙を流していたノーマンは、なにが起っているのか理解できず、ぽかん、と口を開けてその様子を見ることしかできない。
そして、イズマの呼びかけから数秒、するすると不可思議な糸が外套の裏地に施された美しい娘の刺繍から抜け出し、イズマのかたわらに生身の裸身となってカタチを成し始めた。
「やれやれ。来てもらってて正解だったね、やっぱしサ」
呆然とするノーマンの眼前で、灰褐色の肌をもつその娘は存在を得ると、恥じらうようにイズマの胸元に飛び込んだ。
外套をひるがえし、その姿を隠すと、イズマは名を呼ぶ。
「今回は出番なしだと思ったんだけどなあ。エレにも内緒にしてたのに」
「敵を欺くにはまず味方から。さすがわたくしたちの支配者。棟梁にして旦那さま♡」
「いやあそれほどでもあるなあ」
ますますわけのわからない会話を始めたふたりに、ノーマンは自失する。
「あ、旦那には紹介まだだったよね。これ、ボクちんの何番目かの奥さん」
「やーん、はずかしいですぅ、そんなっ、奥さんだなんてっ♡ でも、ホントに新妻ですう♡」
「ほらほら、自己紹介して」
「土蜘蛛はベッサリオンの血脈、姫巫女:エレヒメラが妹、エルマメイムと申します♡ って、一回この方、お会いしてますよ、イズマさま?」
「アレッ、そうだっけ?」
「はい。直接的ではないけれど、殺し合ったなかですもの。忘れるはずがござません」
「マジでっ?! いやあ、あんときボクちん最後の最後まで操られてたからなあ。ごめん、マジで憶えてねーわ」
「んもう、旦那さまのうっかりさーん♡」
あはあは、というしらじらしいイズマの笑いが響くなか、ノーマンだけが場のテンションについていけず、次の瞬間には倒れ込んだ。
気絶、である。
それはイズマが服用させた薬湯の効果。
強制的な眠りに誘うものであった。




