■第九三夜:奇跡の裏側で
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このまま自刃できたらどれほどに楽だろうか。
天を仰いで臥し、トラーオはついそんなことを考えてしまう。
ノーマンがイズマの元へ辿り着き、奇跡的な邂逅を果たしていたときのことだ。
激しい地鳴りとともに空が炎に染まったかと思えば、こんどは屹立した光の御柱に続いて、天空では輝くヴェールが幾重にもたなびいている。
これはこの世の終わりか、あるいは創世の書に記された約束の刻なのか。
なにもかもがわからず、ただ、激しく心がかき乱された。
立て続いた天変地異に呼応するように、封じられていたハズの傷口から、ごぶりごぼり、と《夢》が湧き出してきたのだ。
トラーオの胸に穿たれたそれを、もはや傷口と呼んでよいものか。
白色に珪化した周辺の中心は、一体どこへ通ずるのかわからぬ虚空である。
肉はおろか、骨も見えない。
それどころか、その穴はトラーオの肉体がもつ厚みをはるかに凌駕して、圧倒的に“向こう側”にまで通じていたのである。
それこそはエスペラルゴ皇帝:メルセナリオが操る魔銃:ギャングレイとそこから放たれた弾丸:エル・イーズ・テイルズの威力に相違なかった。
そして、そこから吹き出すのは血ではない。
《夢》──輝けるそれがどくりどくりと熱い血潮のように吹いては、トラーオを染めてゆくのだ。
そのたびに、トラーオは正体を失っていく。
つまり、この傷口は、そして、あの弾丸は、トラーオの肉体にではなく心か、心が属する場所に穴を開けたことになる。
その証拠に多大な代償を支払ったとはいえ、また、一時的にとはいえ、ノーンマンはこの傷口を封じることに成功している。
己の《意志のちから》、つまり《スピンドル》によって、だ。
「トラーオッ!! しゃっきりせんかッ!! 気を確かにもて!」
ふたたび開いてしまった傷口からの流出に苦しむトラーオの手を握りしめ、バートンが叱咤激励した。
「ぐっ……バートンさん……離れて、離れてください。もう、もう、保たない。爆ぜてしまう……」
「バカモン! おまえはわしの息子だろうが! 《スピンドル》だ! 《スピンドル》を想え!」
危険だった。
だから、離れて欲しかった。
砂地に横臥し、もがき苦しむトラーオを見下ろしながらメナスは言ったのだ。
《夢》は試みる、と。
オマエはオマエの《夢》に試される、と。
そして、それに破れたとき、オマエは忘れ去られる、と。
周囲を巻き込んで。
その現象をして《ブルーム・タイド》とメナスは呼んだ。
同じセリフをバートンだって聞いたはずだ。
なぜなら、ともに同じ戦場で戦ったのだから。
だから、せめて、バートンだけでも助けたかった。
それだのに、ほんとうは親子でもなんでもなくて、任務のための背景設定のはずなのに、危険を承知でバートンはトラーオを息子と呼び、篤く看てくれている。
苦しい旅の途中、トラーオはバートンの話をすこしだけ聞いた。
彼の孫娘は、トラーオが目標と定めた男、騎士:アシュレダウの従者だったという。
同時にかなわぬ恋をしていたと。
それでも従者として主人と添い遂げるため、危険を承知で聖務の地に赴いた。
そして、命を落とした。
おそらくそれは、バートン自身がなぜ戦うのか、という決意の話であったのだろうと、トラーオは理解している。
なんのために戦うのか。
そう問われたとき、トラーオは胸を突かれるような思いをした。
最初は聖なる任務のためには当然だと思っていたと思う。
だが、それはヒトから与えられた指針と目標であり、トラーオ自身の考えではない。
では──なんだ。
いま、こうして、自分を現世に留まらせている未練は。
生への執着か?
ちがう。
では、“再誕の聖母”:イリスのためか。
それは、おおいにある。
だが、このギリギリの間際にあって、己が世界から消え去ることの意味を理解したとき──トラーオの脳裏に鮮やかに甦ったのはたったひとりの少女の姿だった。
セラ──セラフィナ。
少年は思わず名を呼ぶ。
彼女の自由を賭けた一騎打ちで、トラーオは破れた。
騎士の儀礼に則るならば、だから、いま彼の胸中を吹き荒れる想いは邪念だ。
メナスはすくなくとも決闘の場にあっては、立派な騎士の振舞いをした。
正々堂々と行われた尋常の立ち合いの結果に異論を唱えることは、どの国の法でも許されていない。
決闘とはつまり、そういう納得ずくの殺し合いなのだ。
それなのに、諦められない──諦められるはずがなかった。
ひと目見たときから好きだった。
恵まれた出自に慢心する様子などまるでなく、ただ、ひたむきで懸命に己を高めようとする彼女の姿から目を離すことができなくなっていた。
せめて、旅立つ前に、想いを伝えるべきだった。
だが、もし、それで決定的に拒絶されたらと思うとできなかった。
聖務前に不謹慎すぎる、と己をたしなめることを口実に、先延ばしにした。
結果として、いまから、自分は消し去られるのだ。
肉体が滅びるだけではない。
メナスがいう「世界から消える」とは、それだけを意味しているハズがないことをすでにトラーオは理解していた。
《夢》に負けると《夢》になる、ともメナスは言った。
ただ単に肉体を滅ぼしたいだけなら、殺せば済むことだ。
けれども、メナスはそうしなかった。
つまり、《夢》になる、とは。
《ブルーム・タイド》に飲み込まれる、とは。
もっと決定的な消滅を意味するのではないか?
つまり、自分だけではなく、他者の心からも消え去るのではないか?
だれだか昔の哲学者が書き残した言葉がある。
真の死とは、肉体的なそれを言っているのではない。
だれかの記憶から、つまり、心からも忘れ去られたとき、それは真なるものとなるのだ、と。
いま己を蝕む現象が《スピンドル》によって一時的だが進行を止めることの意味が、その推測の正しさを裏付けていた。
嫌だ、と切実にトラーオは思った。
セラフィナの心からも消え去る。
それだけは絶対に嫌だ。
「おおおおおおおおおおおおおおッ!!」
気がつけば《スピンドル》を持てる最大の力で励起させていた。
「そうだッ! トラーオ、諦めてはならんッ!!」
バートンが励ます。
だが、その様子を外観から見守るバートンには、《スピンドル能力者》としてのトラーオがまだまだ未熟であることが残酷にも、ハッキリと見えていた。
常人であるバートンに《スピンドル》の輝きは見えない。
だが、流れ出る《夢》と《スピンドル》が触れて起こす輝き、飛び散る火花は明らかに視認できた。
足らなかった。
《ちから》が、まったく。
ノーマンが食い止めた最初の流出に比べれば、微々たるもののそれでさえ、トラーオでは歯が立たない。
心身が万全ではないことも、おおいに関係がある。
そして、《スピンドル》の代償は今度は他者であるノーマンではなく、衰弱しているトラーオ自身が支払わなければならないのだ。
冷静に分析すれば、状況はすでに絶望的だった。
もう、このまま《夢》に呑まれてしまう前に、ひと思いにとどめをさしてやるのがヒトの道というものではないのか──。
バートンをして、そう思わせるほどには、事態はすでに抜き差しならぬ状況にまで進行していたのである。
だから、ふたりは気がつかなかった。
トラーオが身を横たえた河辺の岩場。
そのすぐ側の水面がにわかに沸き立ったことに。
そして、そのなかから、ゆっくりと海を割る聖者の奇跡のように現われた者があったことを。
僧服に身を包みながら巨大な水瓶を抱えた彼女の首と両手足には黄金の戒めがある。
赤みがかった豪奢な金髪はそのままに、同じ色の瞳がふたりを見つめる。
だから、その存在にトラーオとバートンが気がつくのは、彼女が声をかけてからだ。
「助けが──ほしいの?」
“聖泉の使徒”:ジゼルテレジア・オーベルニュが空を覆う光のベールを背負い、そこには立っていた。




