■第九二夜:残酷を生きる者
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トラントリムの深き森を、山野を、あるいは湖面を、蹄は疾風となって駆ける——駆ける。
愛馬:ヴィトライオンは驚くべき速力を示した。
それはたしかに最速の機動力を我が物とする疾風迅雷の加護のおかげではあったであろう。
だが、今宵の名馬の走りは、神がかっていた。
それはこの強行軍の先に待ち受けるものが、主人からの愛を受け入れることを可能にしてくれた存在:アテルイを救出するための戦いなのだということを、ヴィトライオンが理解していたからにほかならない。
強烈な《意志》の光を瞳に宿らせ、馬体は雲上を走るかのようにして駆けるのだ。
その両脇にふたりの美姫が従う。
ひとりは土蜘蛛の凶手にして姫巫女:エレヒメラ。
もうひとりはアラムの大国オズマドラの第一皇子:アスカリヤ。
疾風迅雷を帯び、その脚で。
ふたりがふたりとも息を呑むような美貌であるだけでなく卓抜した戦闘能力者であり、さらに強力な《スピンドル能力者》。
そして、そのふたりを率いる馬上の男は、左手に青きバラの化身を抱えている。
見たものの背筋に震えを走らせる超常の美には、世界でもっとも鋭きトゲがある。
化身の名はシオンザフィル。
夜魔の大公:スカルベリの息女にして、ただひとりの聖剣:ローズ・アブソリュートの使い手。
その美姫が潤んだ瞳で見つめる男こそは、いまやこのゾディアック大陸、いやワールズエンデという世界に隠されつづけてきた秘密と対峙することを決めた叛逆者であった。
名をアシュレダウという。
人々が無意識の帳の向こうに押し込めた運命を操作するからくりと、それによってこの世に再臨した聖母を討つと宣言した男だった。
月明かりを圧して、清浄すぎる光が照らし出す世界を黒衣の男は駆け抜けていく。
愛するものを救うため。
そして、愛するものとの対決のため。
アスカと契り、事実を告げられたアシュレのなかからは、ためらいという概念が消滅した。
陥落した軍事拠点である塩鉱山跡を奪還すべく差し向けられたトラントリム国防軍は、下級夜魔とインクルード・ビースト、さらにそれを使役する猛獣使い(ビーストテイマー)を擁する孤立主義者たち、さらには白魔騎士団、つまり夜魔の騎士たちの混成部隊であった。
その数、約一〇〇〇。
かつてのトラントリムにとっては揃えることを夢想することさえできなかったであろう戦力を、彼らは差し向けてきた。
それも人外のものどもで構成された軍団である。
これはトラントリム国民の多くが、夜魔としての生を受けることを切望した結果だと言うこともできた。
結果として、相当数の住民が夜魔に転じ、さらには兵卒として従軍することを選んだのである。
長きに渡り、夜魔との共存共栄、融和を推し進めてきた国家ならではの選択肢ではあったかもしれないが——それはすさまじい数の犠牲を生み出すことになる。
アシュレは侵攻進路上に存在する敵対勢力の一切を焼き払った。
シオンの使い魔であるコウモリのヒラリから送られてくる敵対者たちの位置情報はほとんどタイムラグも齟齬もなくアシュレに伝達された。
それは言語化されたものではない。
いまアシュレはシオン意識そのものを覗いていると言ってよい。
シオンの肉体に埋設された魔具:〈ジャグリ・ジャグラ〉がそれを可能にした。
もちろん、ただの使い手と犠牲者ではとてもこれほどの離れ技はムリだっただろう。
だが、彼ら彼女らは、例外中の例外だった。
望んでいた。
夜魔の姫:シオンは、心から。
うわべだけの感情ではそれはない。
深層心理の奥底から。
深奥へと立ち入られることを。
胸の奥、頭蓋の奥へ。
ためらいも、とまどいも、恥じらいをも超越して。
それをいったいどういうレベルの信頼と言ったらいいのか?
そして、見てください、と差し出されたはだかの心をしっかりと受け取り、受け止めるだけの徳が男にもあった。
おぞましき人体改造の魔具であるはずの〈ジャグリ・ジャグラ〉は、このとき互いの心を伝達するための掛け橋となった。
強力な完全記憶と、それを《夢》として読み取ることができる夜魔の血筋もこの試みを助けはしただろう。
しかし、真にアシュレとシオンを結びつけたものは《スピンドル》の律動と、互いを信じる心だった。
こうして得た座標に、アシュレは一瞬のためらいもなく先制攻撃を叩き込んだ。
竜槍:シヴニールによる徹底的で容赦ない掃討、掃射。
立て続けに叩きつけられる超高密度超高熱の加速粒子の束が、冷えた大地を一瞬で沸騰させ、直後、大爆発させた。
夜魔の軍団は夜間であってもその行動を妨げられることはない。
いや、むしろ夜間こそが彼らの本性であり、時間であるはずだった。
だが、そんなアドバンテージなど、アシュレは光条の雨とともに吹き飛ばしたのである。
冷たい激情とでもそれを言おうか。
研ぎ澄まされた感覚と思考のなかで、アシュレは頭蓋の奥に身を切るように冷たい泉が懇々と湧き出るのを感じていた。
だのに、肉は熱く、腹の底からは尽きぬ怒りが轟々と火焔を吹き上げるのだ。
ぶるりっ、とその感情の流入を受けて、シオンは身体を震わせた。
残酷と甘美という、抗いようのない官能に。
己の愛したものを傷つけられたとき、いったいいかなる報復・復讐を行うかにヒトの本性は現れる。
争うのはいけないことだ。
そんなことは子供だって知っている。
だが、争いは、そして、暴力は——消し去ることはできない。
そして、過酷に生きると決意したものは、そこから無縁でいることはできない。
それが物理的なものであるか、精神的な、思想や宗教や哲学の問題であるかは問わない。
しかし、だとしても。
けれども、その無慈悲なる暴力の前に立ち向かう者だけが、王を名乗ることができるのだ。
広大な領土を所有しているか。
偉大なる先祖からからそれを継承したか。
そういう話では、ない。
王たる、とは己自身を己で規定し、そのように生きる者だと、シオンは思う。
そして、王たるものは己の愛するものを損なう存在を、許さない。
どれほど非難を受けることになろうとも。
いかなる犠牲を払うことになろうとも。
決して。
だから——いままさにアシュレから流れ込む超高熱で極低温の心が、快絶なのだ。
もし、今日、損なわれたのがシオンだとしたら。
きっとこの男は同じく、いや、あるいはもっと激しく復讐したであろう。
復讐する。
あるいは報復する。
それを口にするものはあまりに多い。
しかし、実際にそれを成すもの、さらには、成し遂げるものはあまりにすくない。
陰口や密告が関の山。
それをこのように、汚名を非難も覚悟の上で、実際に成す男は——いない。
アシュレの胸中と頭蓋の奥を駆け巡る思考の温度差に、シオンは朦朧として、泣いてしまう。
吹き飛ぶように過ぎてゆく景色と、天を覆うオーロラめいた聖光が、現実感を奪い去る。
そして、馬上に横座りになったシオンと抱きあう半夜魔の少女:スノウも、近似の体験をしていた。
それはアスカとの契りが発動させた戦乙女の恩寵により心身的にも精神的にも高められた、完成形に近づいたアシュレの血肉の薫りと、熱を体験してしまったからだ。
神懸かり的なワインの陶酔に、それは酷似している。
はー、はー、と己の吐く息の熱さに、紅潮が止まらない。
アシュレの体温が蕩けるように心地よく、しがみつく手を離すどころか、胸に顔を埋めてしまう。
自身がぬかるんでしまっていうことを認めざるを得ない。
なにより、アシュレ自身にはそんな邪な想いなど微塵もなく。
ただただ、愛するものを奪還するためだけに戦う男の顔だけがあって。
スノウのことを保護対象とだけは思ってくれているらしいことは、いかに自分が庇われているかということで、切実にわかり。
ぎゅうぎゅう、と胸が締めつけられて涙がこぼれて止まらないのはなぜなのか。
放たれる光条と着弾の爆音のなかで、スノウは震える。
自らがもう完全に魅了されてしまっていることに気づけぬまま。




