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■第八九夜:《意志》を通すとき

         ※

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ」


 アシュレの喉から獣じみた慟哭どうこくが迸り出た。

 己の腕をすり抜けていくアテルイの粒子を必死に掻き抱く。

 だが、捉まえられない。

 どうしたら——どうしたらいいんだ!

 パニックになっていた。

 敵の倒し方ならばわかる。

 社交界における作法やダンスだって不得意ではない。

 人外魔境である《閉鎖回廊》をすでに三度生きのびてきた。

 きっとしかるべき場所と規定に照らし合わせれば、勇者と呼ばれるほどの働きをしたのだろう。

 けれども、わからなかった。

 引き止めることさえできなかった。

 己の眼前で失われていく愛しいひとを。

 悲しげに、しかし、ほんとうに愛しげに微笑んで、ほとんど光になりかけた指先で、アシュレの頬を撫でて、言った。

 わすれないで、と。

 

 アシュレは足掻いた。

 行かせて良いわけがなかった。

 これは自分の知らないなんらかの作戦行動なのだ。

 それはわかっていた。

 けれども、そうであるなら——ホントに勝利がまっているのだとしたなら——アテルイが泣く必要も、こんな笑いかたをする必要も、なにより「わすれないで」などと願う必要すらないはずだった。


 アシュレはとっさに《スピンドル》を励起し、両腕に通した。


 眼前で起きている現象は異能に他ならず、であれば、それに対抗しうる策はたったひとつ、《スピンドル》以外になかったからだ。

 消えゆく光に追いすがる。

 そのとき宙を掻いていた指先が、なにかに触れた気がした。

 いや、それは錯覚ではない。

 ヒトだ、これはヒトのぬくもりだ。

 アシュレはその温度を逃すまいと、狂おしくまさぐり、かき集めるようにして己の胸へと導こうとした。

 それが功を奏したのか?

 ぬくもりは実態を得、重さを得て、アシュレの腕のなかで結実しはじめた。

 

「アテルイ! アテルイさん!」


 アシュレは必死に呼びかける。

 愛した女の名を叫んだ。

 シオンも加わり、その肉体を確保する。

 

 だが、徐々に光の粒子が消え去り、その正体が明らかになったとき、ふたりは言葉を失う。

 

 そこに現れたのは、ほかのだれでもない。

 羊水のごとき液体にぐっしょりと濡れていても、見間違うはずがない。

 

 それはオズマドラ帝国第一皇子にして、真騎士の血を受け継ぐ戦乙女——アスカリヤ・イムラベートルにほかならなかったのだ。

 

         ※

         

「アスカッ?! なんで、どうしてッ?!」


 アシュレの喉から迸り出た言葉こそ、驚愕きょうがくであった。

 だが、光の粒子が消え去った途端、全身にかかった体重を受け止めたときには、これが抜き差しならぬ状態なのだとアシュレにはわかった。

 アスカには意識がなかった。

 全身を濡らす羊水じみた液体はなんらかの触媒だろうか?

 口中からそれが垂れる。

 アシュレはアスカを横たえると、呼吸の有無を確かめた。

 ない。

 迅速に人工呼吸と移った。

 あの廃神の漂流寺院からこっち、これで二回目だ。

 首の後ろに手を入れ気道を確保してから、規則正しく息を送り込む。

 心臓マッサージも。

 シオンはすぐにもエレたちを呼びに走った。

 夜魔であるシオンにとっては蘇生処置はまったく未知の知識である。

 不死者にはそんなものが必要ないからだ。

 だが、シオンは聡明だった。

 かたわらで固唾をのんでいる場合ではないことなど承知の上。

 薬剤学に通じたエレの存在が手助けになると、わかっていた。


 その間に、アシュレは幾度か手順を繰り返す。


 アスカの小振りだがカタチのよい乳房が掌に触れる。

 どういうわけか、衣類の類いは下着も含め、取り去られている。

 残っているのは、《フォーカス》である陣羽織タバードと両脚を構成する告死の鋏:アズライール、そして宝剣であるジャンビーヤだけ。

 長い黒髪を留めていた髪留めも失われていた。


 それは、アシュレの母:ソフィアのものだ。


 アシュレがエクストラム法王庁を発つとき、お守りとして託されたものを、やはりあの漂流寺院での晩、アスカが気に入ってなかば私物化してしまったものだった。

 再会したあと、じつは一度、返してもらえないか訊いたことがある。

 泣き出す直前の女のコの顔をされてしまった。

 もちろん、無理強いは出来ず諦めたアシュレである。

 それがうそ泣きだとわかっても、ムリだった。


 そんなエピソードが脳裏を過り、アシュレはますます懸命に救助作業に没頭した。


 接触を繰り返した唇から羊水が入ってきて、塩辛さを感じた。

 幾度目のセットだっただろうか。

 ごぼり、とアスカが肺に溜まっていたそれを大量に吐き出した。

 息を——吸う。

 呼吸が正常に戻っていく。

 よかった、とアシュレは額の汗を拭った。

 しかし、それだけだった。

 意識は戻らない。

 どういうことだ。

 アシュレは蒼白になり、アスカを揺り動かそうとした。

 覚醒を促そうと。

 しかし、それを止める手があった。

 振り向けばエレがいた。

 裸身にシーツをまとっただけのシオンを引き連れている。

 

「まて、わたしが触診する」


 有無を言わせぬ専門家の口調で告げられれば、アシュレは躊躇ちゅうちょなく場を譲った。

 こういう一分一秒を争うような場面では、適任者がだれなのか素早く判断しいなければならない。

 アシュレに場を譲られたエレは《スピンドル》を励起させ、アスカの裸身にかざした。

 慎重に頭部から胸部、腹部へと掌を移動させていく。

 瞳を閉じたまま、しかし、そこから伝わる微細な感覚に意識を集中させて。

 一分と掛からなかったはずだ。

 むう、と一声唸り、アシュレを招いた。

 隣りにこい、という意味だ。

 

「《スピンドル》の律動が極端に弱まっている——強力な精神攻撃によって体内の導線がめちゃくちゃにされてしまっている」

「《スピンドル導線》が?」


 《スピンドル能力者》たちが振るう《意志のちから》:《スピンドル》は、その体内を走る《スピンドル導線》によって肉体の各部に伝達される。

 それは肉体的なものであり、同時に精神的なものだと理解されている。

 つまるところ、肉体自体が健全で、五体満足の状態であっても、精神的な部分でその結線がうまくいっていなかったり、導線が不十分だったりすると、その部位にうまく《スピンドル》は通らない。

 肉体を《意志》のままに完璧に操ることと《スピンドル能力》をうまく扱うことは、非常に近しい場所にある理論体系だった。

 つまり、卓越した《スピンドル能力者》は、たとえ足の小指の先や、首の裏側であっても、利き手の人さし指のごとくに自然に《スピンドル》を導けるという理屈だ。

 その導線が乱されている、とエレはアシュレに告げたのである。

 

「そんな……どうやって?!」

「わたしにも方法はわからない。強烈な《スピンドル暴走》、つまり、《スピンアウト》の副作用でこんな症状が起こることもあるが……これは意図的な攻撃だ」


 告死の鋏:アズライールもおかしい、とエレが分析を告げた。

 

「どうしたら、いいんだ」

「この混乱は一時的なものだ。ふつうは攻撃を受けた《スピンドル能力者》本人が導線を整理する——《スピンドル》を通して——ことで解決するのだが……。いま、アスカ殿下には意識がない」

「じゃあ」

「だから、オマエが通せ」

「え?」

 

 エレからの名指しに、アシュレは戸惑う。

 あたりまえだ。

 そんな特別な処置を施したことなど、一度もない。

 どうやればいい?

 

「なんで、ボクが」

「アスカ殿下の状態は重症だ。親和性の高い《スピンドル能力者》が、肉体の深部から伝導させる処置でなければ、効果が望めない。もちろん、得手はわたしだが……わたしではそこまで深くに到達できない。文字通り、身も心も、アスカ殿下に肉迫できる者だけがその資格を持つ。都合の良いことに、オマエたちはすでに愛しあう男女の仲だろう?」


 オマエ以外にだれがいる?

 無言で訊かれた。

 アシュレはエレの言葉の意味を理解して、目を瞠った。

 

「どうする? 迷っているなら、道具を使うしかないが」

「ボクが、ボクがやります」


 エレの問いかけに、アシュレは即答した。

 恥じたり、躊躇ちゅうちょしている場合などではないことは、アスカの容体を一目見ればわかることだった。

 だから、アシュレは行う。

 

 体温を失い、冷たくなりかけたアスカの裸身を抱き寄せた。





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