■第八五夜:王の入城(キャスリング)
※
「夢の……ようです」
アシュレの腕のなかでアテルイが言った。
山陰にへばりつくようにして建てられた陣屋に、冴え冴えとした月影が差している。
死力を尽くすイズマやアスカたちの戦いの場面から、時間は数時間を遡ることになる。
アシュレへの思慕の想いを告げたアテルイは、ヴィトラ憑依事件やシオンとの大激突などのイベント群を経て、文字通りアシュレの腕のなかに丸く収まってしまった。
「……それで……順番がめちゃくちゃなんですけど……ボクのどこがよかったんですか?」
左手を腕枕にしたままアシュレが訊いた。
関係としての順序はあべこべだったことが、アシュレをして、よけいにそこに執着させたのかもしれない。
どうして、自分を好いてもらえたのか。
そこを知らないままでは、なんというか、どうしても区切りがつけられない質なのだ。
望まれ、関係したからには、相手のことをキチンと知りたいと思うのだ。
そんな率直な問いかけに、暖炉の炎とよろい戸の隙間から漏れ落ちる月の蒼い光のなかでも、ハッとなったアテルイが頬を紅潮させ、両手で顔を覆うのがわかった。
「そ、それは」
「いや……それを訊いておかないと……正直、ボクはどうしてアテルイさんみたいなヒトが、ボクに想いを寄せてくれたのかが、ぜんぜんわからなくて」
「や、やはり、ご、ごめいわくでしたかッ」
「いや、逆で。そのう、ええと、女性側から見たら、きっとボクの行いは不誠実そのものに見えると思うんです。なんていうか……不実な男に。実際アテルイさんだって、初対面で言いましたよね、女の敵だって、ボクのこと」
「そ、そんなご無礼をッ! あ、あの、あの、どうかその分も含めて、キツいお仕置きをしてください。し、躾けていただきたく!」
「わー! いや、そ、そうじゃない、そうじゃないんです! あと、その、お願いですから、敬語というか崇め奉るような言葉使いやめてください! あ、あ、アブナイ気分になるから!」
普通に、普通の、夫婦の会話と関係を、ですね。
アシュレはアテルイを抱き寄せて言う。
「夫婦! めおと! そんなっ、そんなっ。わたしはアシュレさまの下僕です! すべてを捧げ尽くすと誓いました!」
「あー、えーと、これわ、どうしたらいいんだ。……わかった。アテルイ、命令だ。敬語も崇め奉るのも禁止だ。わかったね?」
「んぴ」
暴走の兆しを見せたアテルイに先手を打ってアシュレは釘を刺した。
だんだんアテルイの扱い方がわかってきた。
極端な階層社会で、奴隷としての教育を受けてきたアテルイなのだ。
アシュレを絶対的な存在と見なしているウチは、この行動方針は改まらないだろう。
実際、ここに至るまでの紆余曲折には凄まじいものがあった。
愛馬:ヴィトライオンがアテルイの霊媒としての《ちから》を借りて憑依し、アシュレへの愛を伝えるという大騒動のあと、午後の数刻は夜間戦闘に備えるための食事会となった。
土蜘蛛の凶手であるエレが廃鉱山の内部と周辺に疑似生物の斥候を無数に放ち、安全確保と警戒ラインの構築を進めるかたわら、全員分の食事を担当するアテルイは、まさに獅子奮迅の働きぶりであった。
いくぶんかはシオンの異能によって生鮮が持ち運べるとはいえ、軍事行動用の乾物がどうしても主体を占める食料を、いったいどのように駆使すればここまでの料理へと昇華できるのか。
宴席と言っていいほどの食卓に着いたシオンが瞳が驚愕に見開かれたのも無理はない。
「だれが……饗宴を繰り広げろと言った」
あまりの出来栄えに、すこしは今後のことを考えろと文句を言いかけたシオンだったが、味見のつもりでひと口頬張った瞬間に両手をついて落涙した。
「う、うますぎる」
そのシオンの様子を確認したアテルイが力こぶしをつくって見せ、ふんす、と鼻息を吐くくらいには力作だったのである。
「アラムの女衆は……みな、これほどの腕前なのか」
「だれにでもできるわけではありません。そして、アシュレさまへの献身において、わたしは、シオン殿下には決して負けません。素材が揃っていれば、もっともっと美味しいお料理を毎日、毎食、振る舞ってご覧にいれます。夜魔である殿下は、そこの込められた真心を味として感じ取ることができるとのこと。で、あれば、わたしの想いがいかほどか、おわかりですね?」
「むぐっ」
シオンの不用意な問いかけを、アテルイは真向から受け止め、堂々と切り返した。
かつてトラントリムで過ごした二ヶ月ほどの間に、アシュレはシオンの料理に関する腕前については思い知らされている。
初期状態ではダメな方向の超技によって厨房が爆破されるのではないかという危惧すら抱くものであったが、きちんと理屈を説明し、実際に手取り足取り教えた結果、現在ではダイナミックな山の男料理、程度には進化している。
ただし、作りながら味を調整していくため、一品の分量が当初の予定の五倍くらいにはなってしまうという欠点があった。
調理スキルが破綻している、というのがたぶんいちばん正しい表現だ。
アシュレは現場に居合わせたことはないが、たしか幾度かともに料理をこしらえていたイリスからは「シオンが一緒にいると素材に触れることもできなかった」というコメントが寄せられてたほんとうの理由を、アシュレはあのとき、本当の意味で理解したのだ。
それでもなんとか味のほうだけは、食事と呼べるレベルに到達はしたから、アシュレとしては頑張って平らげるのも男の甲斐性だとも、思う。
いっぽうでアテルイの調理スキル、いや、家事スキル全般は神業に近かった。
うまかった。
やめられないとまらない、とはまさにこのことである。
ひと口でも口中に入れたが最後、だれしもが皿を空にするまで、席を立とうとは決してしなかった。
シオンとアテルイ、そしてアシュレとの修羅場を不運にも目撃した半夜魔の少女:スノウが食卓にはしぶしぶというカタチで同席してもいた。
またそのような事情から、アシュレに対しては「不潔」という認識が言葉にされないだけで軽蔑のまなざしによってそれが表明されてはいたのだが……その彼女ですら、猛烈な勢いで食べ始めるくらいには、アテルイの料理たちには破壊力があったのである。
そして、食事の途中でスノウは眠ってしまった。
無理もない。
払暁の戦いからこっち、緊張と変化の連続であったのだから。
戦の気配は、たとえ戦場に立たずとも人間を無闇に昂ぶらせ、疲弊させる。
スノウの場合はシオンと夜魔の騎士たちの戦いを、間近で体験したのである。
加えて精神的ダメージ──アシュレが差し出したユガディールの手記とそこに記されていたトラントリムという国の巨大な欺瞞──が少女の心を痛めつけていた。
それをアテルイの手料理に含有されていた《夢》が癒したのである。
ことり、と小さな音がしたかと思う間もなく、スノウは絨毯に頬を埋めて寝息を立て始めていた。
「わたしが引き受けよう」
そんなスノウを引き取ると言い出したのは、驚いたことにエレだった。
いや、もともと姉気質の姫巫女なのである。
妹分の世話を焼くのは、間違いなくエレ自身の偽りない本性なのだ。
だれからともなく承諾の首肯があって、エレは場を辞した。
それから、茶が振る舞われた。
西側世界では珍しい発酵茶は澄んだ琥珀色で香り高かった。
これだけは出所も点てたのも、シオンである。
なんでも秘蔵のコレクションらしい。
だから、他の生鮮を影の包庫に入れるのを拒んでいたわけだ。
料理の腕前とは逆に、シオンのそれは優雅な手前だった。
もしかしたら、対抗心を煽られたのかもしれない。
アテルイが目を瞠り、シオンと茶道具の間で視線をいったりきたりさせたくらいだ。
そして、見回りがある、と言い残しシオンも席を辞した。
その後ろ姿に、アテルイが深々と礼をするのがなぜなのか、アシュレにはよくわからなかった、のだ。
そのときは、まだ。
「あ、あの、旦那さま……あの、その」
「はい?」
「じ、じつわ、ですね。わ、わたし、まだ、その、大量に嚥下した土蜘蛛の薬が……抜けきってないというか、ちょっと戸惑うくらい効いてしまっておりまして……むしろ、本格的になるのは……ま、まさかいまからなのでは、と思うくらい……あの、その、ぜんぜん、ダメになってしまっていて」
「は?」
えっ、はっ?
シオンの後ろ姿を見送ったアシュレは、飲んでいた茶にむせ、アテルイに向き直った。
そこには、ようやく我慢せずに済むという安堵からか、瞳をうるませきり、あきらかに追い詰められている様子のアテルイがいたのである。
「助けて……くださいませんか?」
「はいっ?」
むろん「助けて」の意味が解毒しろ、というものでないのだけはわかったアシュレである。
というか、言葉と同時に首筋に噛みつかんばかりに飛びつかれてわからない男は、モッツァレッラの角で頭をぶつけて死ぬべきである。
そして、気がつけば、一糸まとわぬ姿のアテルイが腕のなかにいた、という次第である。
それは夫となろうという男としては、筋道を立てたくもなる。
だから、アシュレは訊いたのだ。
自分のどこがスキなのか、と。
つまり、どこに惚れたのか、をだ。
「最初は……軟弱なくせに女たらしのいけすかない優男だと思った」
アシュレの命令により、普段の言葉づかいに戻ったアテルイが言った。
ギクリギクリ、とアシュレは胸が不整脈を打つのを感じた。
図星過ぎたのだ。
だが、アテルイは続けた。
「印象が変わったのは……トラントリムからアスカ殿下とともにオマエが脱出してきたあとだ。強大なオーバーロードの手中からシオン殿下を……愛する女性を一騎打ちを挑んで奪い返してきただろう。ふうん、と。口先だけではないのかな、と」
ふぃー、とアシュレは汗を拭う。
よかった、やっぱりちゃんと戦っているのを天は見ているものだ、と。
アテルイはさらに言う。
「決定的だったのは……あ、あの浴場でのことだ。お、オマエはわたしのことを、素敵だと言ってくれた。いや、それだけじゃない。あんな風に怒ってくれた男はお前だけだ。もっと自分を大事にしなくちゃだめだ、と。あろうことかアスカ殿下に直談判するとまで言ってくれた。オマエはしらないかも知れないが、それは我々オズマドラ帝国にあっては斬首の罪に問われるほどのことなのだ。それなのに、わたしのような端女のためにだな……こ、こんなのズルイぞ……わ、わたしだって、アシュレがどうしてお嫁さんにしてくれたのか……しりたい」
たぶん、ユーニスともイリスとだってこんな話をしたことはない。
アシュレは、なぜ自分を認めてくれたのか、というアテルイの言葉に困窮した。
なぜなら、
「いや、あの、その、アテルイさん、ホントに気がついてないんですか?」
「な、なにに。どこに。どのように?!」
「いや……あなたみたいなヒトに求婚されて、断れる男というのは……かなり難しいと思うんですが」
「そ、それはわたしが強引だという話か?」
「そうじゃなくって! 魅力的なんだ、ってことをボクは、ですね!」
いつの間にか声が大きくなっていて、ほとんど叫ばんばかりにアシュレは言った。
アテルイは硬直し、また両手で顔を覆う。
丸まる。
ダンゴムシのポーズ。
「そ、そんな、わけないっ」
「お、夫であるボクを信じないんですか?!」
「あ、憐れみだろう。わたしみたいな滑稽な女を、オマエみたいな男が相手にするわけがないッ!! そうだ、憐れんでいるのだろう!」
アテルイの態度に、カチンと来たのは、たぶん、自分が愛したものを貶されたからだろう。
たとえ、それが本人の口から出たものであっても、いや、そうであればこそ、怒る人間は怒るのである。
そして、アシュレこそその典型であった。
「許せない」
「あっ」
言うが早いか、アシュレは恥じて顔を覆うアテルイの両手を力ずくでこじ開けると、唇を奪った。
「あなたがどんなに想われているかを、思い知らせます」
「ま、まってください、だ、旦那さま、ちょっとまって、心の準備が」
「問答無用、です」
「そうだアシュレ、ヤッてしまえ! 思い知らせてやれっ!!」
さらに暗がりから、そんな焚きつけの言葉とともにシオンが降ってくるにつけ、場のカオスは最高潮に達した。
「シ、シオン殿下ッ?! どこから?! そして、い、いったいいつからッ?!」
「ついさきほどよッ!! おい、アシュレッ!! この女の性根は見ていてイライラする! ヤッてしまえ! あと焼印でもなんでもして、尊厳からなにから奪ってしまえ! お前の愛欲で飼い殺しにしてやるがいい!! 壊れるくらい愛されてなお、そんな不遜な口がきけるかどうか、試してみるがいい!! しあわせで壊してやれ!」
「わかった」
「わああ、わあああああああ、わかるなぁあ、わかっちゃダメ、ダメです、旦那さま!」
けれども、アシュレはその言葉を完全に無視した。
どんなに愛されているのか、この女に徹底的に教えてやれ、とシオンは言うのだ。
さすがだ、とアシュレは思う。
だから、そのようにした。
そのうち、シオンも参戦してきた。
たぶん、それはカオスで、道徳からは道を踏み外していたはずだ。
でも、だれがそれを指弾するのか。
どうしようもない時代に戦場のどん詰まりで手に入れた、正常ではないかもしれないがかけがえのない愛のカタチを、だれが嘲笑ったり、糾弾しようというのか。
そんなものをぜんぶ打ち破って、ボクはこのヒトをしあわせにしたい、とアシュレは思ってしまった。
そして、そんな思いを消し飛ばすように──秘術が効果を発揮する。
そう、時はすでに夜半。
まったく同じ刻、遠く離れたギルギシュテンの地で巻き起こっていた死闘。
その結果が、アシュレとアテルイを引き剥がす。
トラントリム攻略戦開始直前、イズマがアスカとアテルイの双方に仕掛けた緊急時のための秘策。
決定的な場面で──互いの位置を入れ替える。
王の入城の秘技が発動したのだ。




