■たれそかれ6:鎖の味
※
目覚めれば、両手両脚に鎖を打たれていた。
いや、それどころか、まるで家畜のように太い輪と鎖が自らの首にはめられていることに、ユーニスは気がついた。
吸い込んだガスの効果だろう。視界がうまく定まらない。
ようやく事態を把握すれば、周囲は杭のようにいくつも岩が突き出している。
奇妙な場所だった。
異質な明るさと、匂いがあった。
白々しい明りは奇妙なことに天井からではなく、床面に生えた鉱石のごときものから発されている。
不潔な匂いというよりも、なにか薬剤を思わせる臭気が場を満たしていた。
重い頭とまぶたをなんとか起こしてユーニスは周囲を見渡す。
周囲の石柱に鎖と首輪が結わえ付けられていた。
屠殺を待つ家畜を縛りつけておく道具。
そういう印象をユーニスは抱く。
その感覚はほとんど正しい。
ただひとつ、殺すためではない、という条件を除けば。
そうして、その一柱にレダが縛りつけられているのをユーニスは見出した。
無事だった。
着衣に乱れは、見られず、ただ、むちゃくちゃに暴れたのだろう、手首と足首にあざが見えた。
泣き腫らした目元。
頬には涙の跡がある。
染みひとつない肌だったのに傷だらけにして、とユーニスは、ここ数日でふたたび確かめて、あらためて実感した、輝くような幼なじみの裸身を思い浮かべて、苦笑いする。
結わえつけられた枷は、ご丁寧なことに黄金だった。
獲物を傷つけないよう念入りに面が取られ磨かれている。
コレクションを傷つけないようにという配慮。
そうでなければ、レダの手首や足首は、いまや擦り傷だらけだっただろう。
優しさとは明らかにちがう場所から来る、執拗なまでの念の入りように鳥肌が立った。
「レダ」
ユーニスは小声で呼びかけた。
三度目で反応がある。
うん、と小さく唸ったあと、レダは目を覚ました。
「ユーニス」
「無事だった?」
つとめて明るくユーニスは訊いた。
あれからどれほどの時が流れたのかわからないが、大丈夫、まだ、生きている。
「わたしは。……でも」
口ごもるレダに、ユーニスは事情を察した。
アイツが──ジェリダルの魔物が、どのような精神的苦痛をレダに与えたのか、に思いいたって。
自分が昏倒している間に、レダがどのような光景を見せつけられてきたのかに考えが及んで。
そうでなければ、あれほど冷静沈着なレダが、自分の肉体にアザが残るほど、暴れるはずがないではないか。
「ごめんね」
「わたしこそ。なにもできなかった」
そう言ってレダは唇を噛んだ。
わたしに《スピンドル》の《ちから》さえあれば──そういう心の動きが伝わってくる。
痛ましいものをみるようなレダの視線で、ユーニスは現実を把握した。
ほとんど裸だった。
身に着けていた武装はおろか、着衣は、一枚をのぞいて、すべてが剥ぎ取られていた。
もしかしたら、意識のないユーニスが着衣をむしり取られるさまを、レダは眼前で見せつけられたのかもしれなかった。
いや、きっとそうだろう。
「ダイジョブだよ、たかが服くらい、ぜんぜんダイジョブ」
気丈に笑って、ユーニスは言った。
レダの心痛をすこしでも和らげようと思って。
「ダイジョブ?」
しかし、頭上から降ってきた嗤いを含む不快な声が、そこに水を差した。
ユーニスは弾かれたように頭上を見上げる。
いた。魔物が。嗤って。
貴族のような衣服を纏っていた。
それでありながら四脚の魔物でもあり、先端に矢のような棘を備えた長い尾を備える。
頭頂には冠さえ頂いていた。
なにより恐ろしいことは、その顔は震えが来るほどの美貌であるということだった。
ユーニスは意識を失う前、たしかに、この相貌(そうぼう)を見ていた。
「マン……ティコラ」
古い伝承に語られた魔獣の名がユーニスの唇からこぼれ落ちた。
それは魔獣というカテゴリーに分類される邪悪な種族である。
高い知性を持ち、人語を解するが、その性は極めて邪悪。
古い遺跡の奥、迷宮と化したその底に潜みおぞましい実験に耽るという。
伝承に語られたままの姿で、ジェリダルの魔物=その正体たるマンティコラがこんどは堂々と、ユーニスとレダ、その眼前に現れたのだ。
「コイツが──ジェリダルの魔物」
「チガウ。ビ、エ、ル。ビエル」
震えのくるような美貌からは、ちぐはぐな、しわがれた老婆の声がした。
ちっちっち、とユーニスの間違いを正すように、人さし指を振り立てて。
名前=ビエル。
ユーニスはその意味を理解した。
そして、ユーニスが理解したことを魔物=ビエルもまた察したのだろう、にたり、と嗤った。
その嗤いが、ユーニスとレダを凍りつかせた。
なにしろ、笑みを浮かべたのは、美貌の口元ではない。
そのアゴに当たる部分が裂け、笑みのカタチを取ったのだ。
いうなれば、ビエルの美貌とはヒトを擬態して作られた仮面に過ぎないのだ。
もしかしたらそれは犠牲者たちのだれか、そのデスマスクかもしれない。
それも模造、複製ではなく──剥ぎ取られた実物そのもの──いや、きっとそうなのだろう。
「安心シロ。ビエル、素材、傷ツケナイ」
腹話術のようにかすかに顎下の本当の口が動き、ビエルが喋った。
吐息からは甘ったるい匂いがする。
「オマエタチ、最高ノ素材。ビエル、最高ノ職人。安心、シロ」
なにをどう安心しろというのか。
恐怖と混乱に爆発しそうになる心臓を無理矢理押さえつけ、ユーニスは化け物の姿を睨みつけた。
コイツの言っていることは、まったく理解できないが、たったひとつだけ断言できることがある。
それは、このバケモノの性が、とびきりの邪悪だ、ということだ。
人類には想像もつかないほどの。
そして、その邪悪が、これから自分とレダに振うであろう所業を想像して、ユーニスはまた震えた。
だからこそ──生き延びるためには、無事に生還するためには、時間を稼がなくてはならない。
そのとき、また、アシュレの走査を強く感じた。
全身に走るアシュレの感触は、彼がいま必死になって自分たちを追ってきてくれている証拠だ。
一刻もかからず、ここを探し出してくれるはずだ。
そして、この魔物と戦ってくれる。
そのとき、ユーニスにできることと言えば──正確で的確な情報を渡すことだけだ。
手枷・足枷をされたユーニスにできる援護といえば、それくらしかない。
だから、観察しなければならない。
恐ろしくとも知らなければならない。
魔獣──マンティコラ:ビエルの性について。
もっと広く、深く、正確に、だ。
この世界:ワールズエンデにおいて、魔獣とは魔の十一氏族に数えられる人類の敵である。恐るべき異形・異能のものたちがひしめく魔の氏族においても、魔獣はひときわ特異な存在であった。
マンティコラ、キメラ、スキュラなど伝承上、魔獣にカテゴライズされる存在は数多いが、実際にはそれらはすべてが「個体」でしかなく、正確な意味での種族ではない。
つまり、個々個々が独立した生物なのだ。
分類学上、外見的特徴から、ある程度のカテゴリにはまとめられるが、種として引き継がれた特徴はなにもない。
親もなく、子もない。
いかにして、生殖するのか、そして種を存続させるのか、そのいっさいが不明なのである。
現在もっとも有力な学説では、かつて、旧世界で行われた身の毛もよだつような実験──多数の種を混ぜ合わせ、捏ね合わせ、継ぎ接ぎして超常的存在を作り上げようとした──によって生み出された怪物たちなのだという。
それはあながち間違いではないように、ユーニスには思えた。
仰ぎ見るビエルには倒錯的な美が、たしかにあった。
背徳的で淫靡、そして邪悪だが、目を惹きつける引力のごときものが確かにあった。
例えるなら、極まった“悪”が人間を魅了してやまないように。
盗みや、殺しや、姦淫といった悪徳がこの世界から駆逐できないように。
“悪”のカリスマ、とでも言うべきなにか。
それを、ビエルは備えていた。
そして、ユーニスのそんな心中を見透かしたように、優美な動きでビエルは宙を舞い、降りたつ。
そのときめくれ上がった衣服の間から、ユーニスは女性の証をたしかに見た。
ただし、男性のそれも。
あのデスマスクと同様、それらになにか意味があるのか、それは不明だったが。
音もなくユーニスの眼前に舞い降りると、ビエルは顔を近づけてくる。
触れそうなほど。
ユーニスは思わず顔を背けようとしたが、できなかった。
ビエルの前肢がそのおとがいを捕らえて、それを許さなかったからだ。
「オマエ、イイ、人形ナル。美シク、完全ナ人形ナル」
その言葉に、ユーニスは総毛立った。
人形!
そのひとことで、ユーニスは娘たちの変死体、継ぎ接ぎされた肉体の意味を理解した。
このビエルは、かどわかした娘や子供たちの肉体のなかで、ひときわ美しい部分を選り抜き、切り取り、縫合し、自分好みの人形を作り上げるという狂った性癖を持っているのだ。
そう、まるでパッチワークのように。
熟練の職人が精巧な球体関節人形を生み出すように。
ただし、その素材は人間の生身の肉体で持って。
途端に、ユーニスは吐いていた。
おお、とビエルが声を上げる。
おお、下処理せねば、と。
「イマカラ、オマエタチ、キレイニスル」
淡々とビエルは告げ、いずこからか、あきらかに拷問器具としか思えないような器具を取り出した。
よくよく目を凝らしてみれば、この奇妙な場所の天井には無数の、それらおぞましい器具が吊り下げられていたのである。
つまり、ここは、この異常な空間はビエルの工房というわけだ。ここで、ビエルはかどわかした娘たちを継ぎ接ぎにしていたのだ。
「ふざ、けるな」
「フザケル?」
嘔吐きながら身を絞るようにして吐き出したユーニスの言葉に、ビエルが反応した。
「ソウカ、オマエ、寝テイタ。ハラワタ、キレイニスル前ニ、心ト言葉、キレイニ、スル」
いいことに気がついた。
そういう様子でビエルが頷く。
それから、ユーニスから離れる。
レダに向かう。
一度だけ、振り返ると、ニタリ、とまた嗤う。
※
すっかり日の暮れた草原を、アシュレは愛馬:ヴィトライオンに跨がり駆けている。
手を伸ばせば、触れられるのではないのか、というほど月の大きい晩
たった一騎で。
枢機卿とその護衛の女従者がジェリダルの魔物を狩りだすべく森に足を踏み入れたまま、未帰還となった。
そのニュースは枢機卿邸を震撼させた。
明日の朝には、村々にその報が届き、大きな騒ぎとなるだろう。
いや、もしかしたら、夜を徹しての山狩りが行われるかもしれない。
だが、アシュレはそのニュースの到着よりずっと早く行動を起こしていた。
隊伍を組んでいる余裕などなかった。
物品探知の異能が、ユーニスとレダ、ふたりの位置と陥った窮地についてハッキリと告げていたからである。
皮鎧に槍、愛用の騎兵用グラディウスを手挟むと鞍に飛び乗り、その瞳にだけ投射される探しもの──ユーニスとレダの跡を追い続けた。
そして、辿り着いたのは、古い塚。
つまり古代の王か、豪族の墓である。
ただ、ここはこれまで幾度も魔物の捜索対象となってきた。
それなのに、なぜ、とアシュレ訝ったが、謎はすぐに解けた。
認識拒否の異能。
それが様々な場所に練りつけられていた。
これではどのような《スピンドル能力者》であっても、物品探知のような、直接的な探索系異能の助けなくしては、見出すことは不可能だっただろう。
頽れた塚の外れ、倒れ、折り重なる石柱の影に、地下への階段を見出したとき、アシュレは震えた。ここだ、と。
魔物の住み処だ、と。
油断なく手槍を構えると、アシュレは足を踏み入れた。




