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■第八四夜:聖母の微笑

  

 ヴッ、と認識が歪み、世界が切り替わる感触がした。

 

 気がつけばアスカは、白亜の聖堂に座していた。

 正確には、両脇に足を曲げぺたんと座り込んだ幼児のような格好で、奇妙に温かみさえ感じる床上に、いた。

 身にまとうのは、陣羽織タバードと王家の宝剣、そして、両足の装具──告死の鋏:アズライールのみ。

 

「な、」


 アスカはあまりの出来事にあわてて前をかき合わせる。

 薄暗い聖堂には天窓から、幾重にも光が降りている。

 どこか遠くに、ひばりのさえずりを聴いた気がした。

 

 ここは慣れ親しんだアラムの寺院ではない。

 この意匠は、イクス教圏、それもエクストラム法王庁:グレーテル派のものだ。

 たぶん。

 

 たぶん、とアスカが断定しきれなかったのは、眼前に広がる光景が、あまりに異質だったからだ。

 

 騎士たちが、いた。

 膝をついた状態で優にアスカの身長ほどもあるということは、その体格差を考慮したとしても、立ち上がれば三メテルを超える体躯。

 さらに、人間ではありえないフォルムから、それらが超常のものであることは明白だった。

 

 純白であった。

 塔のように高い異形のヘルム。

 菱形のパーツを繋ぎ合わせて作られた独特の下鎧が関節部にのぞき、その上を金属ではありえない光沢の装甲が覆う。

 前腕は長く平たく、もしかすると、この部分も武器として使用されるのかもしれない。

 さらに、彼らがささげ持つ儀仗用の武具はすべて複雑な鍵のカタチをしていた。

 

 交差される鍵は、じつはエクストラム法王庁の紋章の姿でもある。

 天上のくにに至る門を開けるための鍵。

 そして、地獄の門を閉じるための鍵。

 そのふたつの交差で、法王庁の紋章は出来ている。

 頭上に聖なる円十字を頂けば、まさに聖堂にひるがえる聖旗そのものだ。

 

 だが、それら片膝をつき礼の姿を取る騎士たちの姿は、礼拝のためのものではなかった。

 どちらかと言えば閲兵式えっぺいしきのようだ、とアスカには感じられた。

 圧倒的な戦力と性能を確認するための。

 それも──人類・・ではありえないを想定した大戦争を想定した。

 

 それがざっと数十騎。

 片膝をついて座し、鍵のカタチの武装を交差させて、儀仗兵の礼を取っていた。

 微動だにも、しわぶきひとつも立てずに。

 

 ル、ル、ル。

 アスカの耳が歌をとらえたのはそのときだ。

 

 歌っていた。

 だれかが、しずかに。

 しかし、たしかに。

 

 人気ひとけの絶えた聖堂で、それ(・・)は歌って、いや、うたっていた。

 

 ル、ル、ル。

 子守歌だ。

 アスカにはわかる。

 

 愛し子に聴かせるための、それは歌だ。

 

 そして、歌の主は座していた。

 天上のくにの物語を地上に降ろすための光背を背負って。

 恐るべき戦闘能力を秘めた異形の騎士たちが掲げた剣の峰の向こうに。

 恐れなど微塵も感じた様子もなく、しずかに、微笑んで。

 

 アスカは彼女を知っていた。

 相まみえたのはたった一度だった。

 だが、それでも戦友だった。

 

 あの廃神:フラーマとの戦い。

 霧に閉ざされた漂流寺院で、命を賭けてともに戦った。

 あのときアスカは彼女を白百合の化身のようだ、と思った。

 女性としての美を体現するたおやかさと清らかさ。

 そして、なにより真摯にアシュレを思う心が痛いほど伝わった。

 

 ああ、こういう娘にアシュレダウという男は好かれているのだな、と自覚した瞬間、アスカは同時に己のなかの恋慕にも気づいたのだ。

 

 イリスベルダ。

 それが娘の名だ。

 

 だが、アスカの知る彼女と、その様相はすこし違っていた。

 

 色素を失っていても、逆にそれが神々しさを感じさせた美しい頭髪は、そこにはなく、春先の草原を思わせるような短髪に置き換えられていた。

 ふくらんだ腹部を愛おしそうに撫で、歌声を聴かせる姿は──幼い命を授かり母親となった娘のしあわせ、その理想そのものだ。

 抜けるような白い肌を護るのは、白地に青でイクスの聖印が染め抜かれた御旗だけ。

 それなのに彼女に恐れの色などない。

 むしろ、生まれ出でる息子に、この世界のすばらしさを説く喜びに満ちている。

 

 ああ、これが常人であったなら、そしてここが、現世であったなら、アスカであっても思わず言祝ぎ、微笑んでいたであろう。

 

 しかし、アスカを戦慄させたのは、その陰りのない微笑そのものだった。

 

 号令を待つ尖兵のごとき異形の騎士たちが、おのれの剣を掲げ、主の号令をいまやおそしと待ち受ける聖堂に、ただひとりたたずみ、まるで外界での死闘など我関せずとでもいうように聖なる微笑みを浮かべるこの娘が、まともであろうはずがなかった。

 

「オマエは……だれだ」


 どういう理屈でか消滅してしまった衣類に困惑しながらも、かろうじて残された陣羽織タバードで裸身を隠しつつアスカは立ち上がり、騎士たちの掲げる剣の下をくぐり抜けながら、訊いた。

 だが、娘は応じない。

 夢見るような様子で、下腹を撫で、謳うだけ。

 

「オマエは、だれか、と問うている!」


 カツン、カツーン、と告死の鋏:アズライールの立てる硬質な足音が、不思議な素材の床で鳴り、聖堂に反響した。

 

 さきほどの誰何すいかとは比べ物にならない鋭さを込め、アスカは問い質した。

 それでやっと娘は、アスカに気がついた。

 下腹に向けていた視線と意識を持ち上げ、アスカを認めて──人さし指を桜色の唇に押し当てると──しぃ、っといたずらっ子をたしなめるような仕草をしてから、微笑んだ。

 

「おしずかに。おまちしておりました。アスカリヤ殿下」と。

 

 ほう、とその笑みに正対できたのは、きっとアスカが優れた《スピンドル能力者》であり、本物の英雄だったからだろう。

 そうでなければ、心を蕩かすその微笑みに含有される同調圧力に、あっという間に屈していたはずだ。

 

「わたしの質問は、オマエはだれか、というものだ。答えていないぞ、イリスベルダ。残念ながら聖人に知り合いはいない」

「まあ、なんてお口の悪い。でも、そこが貴女の魅力でしたね、アスカリヤ殿下。それにもうご存知ではありませんか──わたくしの名を」

「頭の中身にまで乳房を詰めたのか、イリスベルダ? わたしが問うているのはそんなことではない。オマエはほんとうに、あのイリスベルダなのか、と問うているんだ」

「質問の意味を計りかねますが……はい、そうです、わたくしは天にまします我らが聖イクスとその救いを信じる人々のしもべ──イリスベルダ・ラクメゾン、です」


 迷いなど微塵も感じられぬ即答とその内容、そして揺らがぬ瞳にアスカは確信した。

 コイツはもう、わたしの知っているイリスではない、と。

 これは、偽神:〈ログ・ソリタリ〉による精神的攻撃の一部。

 つまり、ここはあのインパクトの瞬間、取り込まれたの体内。

 

 そう、アスカの推察は限りなく正解に近い。

 

 ただひとつ、眼前にいて微笑むイリスこそが、現在における最新鋭・・・の、完成にもっとも近い“再誕の聖母”だという事実を除いては。

 

 だから彼女を──違う、と判断できたのはアスカがアシュレという男をよく知っていたからだろう。

 

 これは、違う。

 全身が総毛立つのと、答えが言葉よりも早い確信となって全身を駆け巡るのは同時だった。

 

「オマエは……だれだ」


 三度くりかえされたアスカの問いかけは、質問のためではなく、ハッキリと相手をと認めたぞ、という宣言を意味していた。

 肉体が臨戦態勢へと移行する。

 アスカは湾曲刀ジャンビーヤを引き抜いた。

 ジャリン、と鋼鉄の擦れる音が聖堂に響き渡る。

 

 それなのに聖母然とした微笑みのまま、イリスは言うのだ。

 

「なぜ? どうして、そんなにおびえていらっしゃるの? わたくしは、貴女をお待ちもうしあげていたのです。さあ、どうぞ、こちらにいらしてください。おはなしをしましょう」


 応じてはならない。

 アスカは思うが、気がつくと誘われるがまま踏み出しかけている自分がいて、驚愕きょうがくした。

 なんという《ちから》だろうか。

 冷や汗が脇の下から噴き出し、背筋が一瞬で冷えた。

 

 技を行使された、という自覚さえできなかった。

 

 異能を行使しあう《スピンドル能力者》同士の戦闘にあって、たしかに広範囲を一挙に殲滅せんめつできる超技の数々は、その際にともなう様々な物理現象もあり、どうしても目を引く。

 

 だが、本当に恐ろしい技、恐ろしい使い手というものは、相手に技を行使したことさえ悟られないものだ。

 

 たったいまイリスが投げ掛けた言葉には、なんの《ちから》もないように感じられた。

 しかし、現実はどうだ。

 アスカはまるで蝶が花の香りに抗うことができぬように、聖母のごとく微笑みを広げるイリスのもとへ誘導されかけた。

 《スピンドル》の唸りさえ聞こえない。

 ただ彼女の側からは、むせ返るような白百合の匂いが漂い来るのだ。

 

「ちがう、オマエ、オマエは──イリスベルダでは、ないッ!! どこだ、どこへ彼女をした・・ッ!!」

 

 再会以来、アシュレはあまりイリスについて語りたがらない。

 だが、ときおり思い詰めたような表情で遠く見えるはずのないファルーシュ海の方角を見つめていることを、アスカは知っている。

 そのんなとき、アシュレの胸中を占めるものの正体が、イリスへの想いであるのだろうとアスカは思うのだ。

 夕陽に照らし出されたテラスで、息が白くなり始めているにも関わらず手すりに両手をつき、遠くを睨むその姿に、アスカは声をかけられずにいた。

 一度や二度、ではない。


 だから、そんなアシュレがぽつりぽつりと語るイリスという娘を、知らず知らずのうちに大事に想うようになっていたのだ。

 その生い立ちや、彼女が彼女としてどのように存在をなしたのか。

 アシュレの口から語られるそれを聞くたび、アスカは既視感を募らせてきた。


 それは自身の半生と、である。


 アスカは真騎士とヒトの英雄との間に生まれ、オズマドラの皇子として性を隠しながら生きてきた。

 生まれ落ちた場所は違っても、イリスという存在を成す尼僧:アルマステラ、そしてアシュレの幼なじみであり従者であったユニスフラウという娘が味わったこの世の仕組みが生み出した理不尽に、深い共感を覚えたのだ。

 なにより、あの漂流寺院で全身に重傷を負ったアシュレを懸命に治療する姿を、アスカは忘れてなどいない。

 不条理な《ちから》の暴虐に耐え、吹き荒れる暴力の嵐のなかで、アシュレへの恋慕だけを寄辺にして咲いた白百合。

 その化身とも言うべき彼女の姿が、ずっと脳裏に焼きついていた。

 

 だから、チガウ、と断言できた。

 運命に必死に抗おうとする健気なイリスと、眼前の、すべてを悟り完成したといわんばかりにゆるしを与えるがごとく微笑む女が同じであるはずがなかった。

 

 なにより、アスカは嗅いだのだ。

 つい先ほどまで正対していた偽神:〈ログ・ソリタリ〉とそっくりの──《救済》の匂いを。

 彼女から。

 

 そんなアスカからの指弾に、イリスは初めて困ったような顔をした。

 ききわけのない愛し子が、眼前でぐずっているのを見るような。

 

 それから答えた。

 はい、と。

 

「はい、アスカリヤ殿下。たしかに、たしかにわたくしは、変わりました。……変えられてしまった、と言うべきか……いいえ、ちがいます。正しくは、わたしの《意志》で変わったのです。これが、これこそが、わたくしのほんとうの望み、だったから」


 言いながら、イリスは困惑を振り切り、またあの笑みを取り戻していった。

 だが、アスカにはそれは彼女がどんどんと、人間性を捨て去っていく過程を見せつけられていくようだった。

 

「なぜだ、なぜ」

「それは世界に、《皆》に、《救済》をもたらすためです。この世界からあらゆる悩みを、迷いを、消し去るため、です。それが、わたくしのほんとうの望みだからなのです」


 狂的なほど清らかに笑み、イリスは言った。

 

「それよりも、今日、貴女をお招きしたのはほかでもありません。アスカリヤ殿下──どうか、わたくしたちとともに歩んでください。わたくしとこのとともに歩んでください。貴女がひつようなのです」

 

 愛おしげに下腹を撫で、イリスが続ける。

 腹部から光が透け、そこに宿るモノの正体が、シルエットとなって見えた。

 ごくり、とアスカは唾を飲み込む。

 気がつけば、すでに数歩、イリスの側へと歩み寄ってしまっていた。

 

「わたしは──絶対に、オマエたちの側には、いかない!」

「なぜですか、アスカリヤ殿下。おねがいです。わたくしたちを、そして、アシュレを助けてください。あのヒトを救ってください。さもないと、《皆》が救われた世界の後で、貴女やあのヒトだけが苦しむことになってしまう。おねがいします」


 おねがい、アシュレを、たすけてください。

 その懇願をアスカは最後まで聴かなかった。

 

 引き抜いた刃を振りかぶり、一気に間合いを詰める。

 いま、己に持てる限りの《スピンドル》を注ぎ込み、最大出力を叩き込む。

 

 ハッキリと理解したのだ。

 これは、コイツは敵だ。

 それも、その中枢。

 

 その一柱だ、と。





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