■第八三夜:偽神の臓腑
それを豪胆という言葉で表すのは、きっと強弁が過ぎるというものだろう。
天をつんざいて数十メテルもの高さに吹き上がる地獄の猛火。
その火柱を消し飛ばした一瞬の空隙を掻い潜り、男は戦場に躍り込んできたのだ。
背後から一撃を受けた最初の夜魔の騎士たちのうちふたりは、きっと自分になにが起きたのか、把握すらできなかったはずだ。
クロスボウが、両手に構えていたはずの刃が、肉体とともに跡形もなく消滅し、遅れて落ちた生首をも返すひと薙ぎが消し飛ばした。
刃を思わせる颶風が吹き荒れ、それが過ぎ去った瞬間には、そこにいたはずの夜魔の騎士ふたりの姿は、もうどこにもなかった。
軍神の一撃という表現でも、きっとその超攻撃能力には釣り合わない。
巨大なエネルギーを発生を伴うわけではなく、ただ、そこに存在するあらゆる理ごと瞬時に消滅させる《ちから》。
浄滅の焔爪:アーマーンの威力をもっとも的確に言葉にするとしたなら——冷酷非情——それ以外の表現を思いつけない。
たぶん、異変を察知し振り向いた夜魔の騎士たちは一瞬、目の前の現実が理解できなかったはずだ。
それはそうだろう。
人類など比べるべくもない個体ポテンシャル——筋力や俊敏性で勝り、超感覚的な知覚能力、さらには高速治癒を含む不死性までをも備える彼らである。
たとえ奇襲を受け、背後から刃を浴びようとも、その不利を補って余りある種族特性を持つがゆえに、彼らの戦闘スタイルは甲冑を必要としない。
むしろ、甲冑や盾に頼るのは憶病者の印だ——そのような戦いに対する美学にすら、彼らは辿りついている。
だから、夜魔たちの侵攻は速やかで密やかに行われる。
鳴り響く甲冑と軍靴の轟きのかわりに、衣擦れと優雅な香水の薫りとともに、彼らは、来る。
そんな彼らであればこそ、振り向いたとき眼前に展開していた現実を認められなかった。
なかった。
なにも。
そこにいままでいたはずの同志どころか、遺留品の一切さえ、影も、足跡も。
すべてが最初から無だったように世界から拭い去られていた。
ただひとつ、違っていたのは——帆布でこしらえたのだろう粗末な衣をまとった男が、巨大な器物と化した両腕を地面につき、膝立ちになる騎士の姿勢でたたずむ姿だけだった。
男は背後にふたたび吹き上がる地獄の炎を、そして、天より降り注ぐ救済の光を受け、ゆっくりと立ち上がった。
もはや無用とばかりに、ぼろぼろになった帆布をかなぐり捨てる。
まとった衣類越しにさえ、その岩棚のような肉体が見て取れた。
引き締まり、そして必要な部分にはキチンと脂肪のついた肉体は、彼が歴戦の勇士であることを示している。
戦場で恐ろしいのはなにも敵の刃だけとは限らない。
むしろ敵対的な環境、不衛生な状況であったり、暑さ寒さ、そして飢えのほうがときとして多くの人命を奪う。
そのとき、あまりにストイックに鍛えられすぎた肉体は環境に適応できない。
戦場を生きる戦士と闘技場の剣闘士、その違いはそこにある。
鍛えられた肉体の上に適度な備蓄を残していることが、戦士に求められる肉体的資質だ。
そして、眼前の男はまさに、その理想を体現していた。
憔悴に頰はこけ、泥土に汚されていてもなお内側から輝く機能美が、すべてを圧倒していた。
質実剛健にして、常在戦場。
ノーマン・バージェスト・ハーヴェイ。
カテル病院騎士団が誇る最強の騎士。
状況を把握した夜魔の騎士たちが飛びかかかるが——それはあまりに無謀すぎた。
無策に仕掛けてよい相手ではノーマンはなかったのだ。
すくなくとも、どうやって同志二名が消し去られたのか。
そのことだけは、分析してから行動を起こすべきだった。
なんの手も講じないまま、この男に白兵戦を挑むこと。
それはこう呼ばれる行いだ。
犬死に、と。
GaaHaaaaaaaaaaaaaaaaaaa——ッ!! 獅子の咆哮のごとき轟音が世界を拭い、そして、次の瞬間、戦場は平らかになった。
「おや、ノーマンの旦那……こんなところまで……ピクニック?」
二体の夜魔を仕留め終えたノーマンが振り向けば、能天気な声がした。
やれやれだ、とノーマンは苦笑する。
そこに戦友の姿——イズマを認めて。
※
轟炎を切り裂き死地に躍り込んだノーマンが、イズマとの奇跡的な再会を果たしていたころ、アスカは屍騎士:ラッテガルトとともに空中戦を繰り広げていた。
咆哮をあげた偽神:〈ログ・ソリタリ〉は全身から光る触腕を生み出し、アスカたちに迫ってくる。
無差別な《救済》を行うために。
ドンッドンッドンッ、という連続的な発射音とともに星条の翼刃が打ち出され、その輝ける翼が巨大な偽神:〈ログ・ソリタリ〉に着弾する。
しかし、一瞬その衝撃に動きをとめるものの、〈ログ・ソリタリ〉は攻撃を意に介した様子もなくアスカたちに追いすがってくる。
光る触腕がまるでイソギンチャクの触手のように伸び上がり、牢獄のごとくふたりを搦め捕ろうとしてくる。
ラッテガルトの超人的な空中軌道でなんとか躱してはいても、そのたびに肉体のどこかに接触を受け、ダメージが蓄積されていく。
すでに死人であるラッテガルトであるからこれほど持っているのであって、そうでなければとっくの昔に、負傷による痛みと出血で墜落しているような状況だ。
眼下では偽神の同調圧力から解放されたティムールとナジフ老が、速やかに戦線から離脱していくのが確認できたのは僥倖だった。
「ダメだ……このままでは」
アスカは戦況を分析し、結論を出した。
あの偽神:〈ログ・ソリタリ〉の足を止めるには、少なくとも二方向からの同時攻撃、それもアスカのもつ告死の鋏:アズライールの絶技に匹敵するほどの威力を持つ異能による多重攻撃が必須であると。
それは前回、アシュレとともにもう片方——トラントリム首都の地下に眠る側の〈ログ・ソリタリ〉との交戦経験に基づくデータに論拠がある。
そして、その可能性があるとすれば、現有戦力のなかで唯一、ラッテガルトの持つ《フォーカス》:スヴェンニールの最高位技:星墜の光槍をもって他ない。
しかし、いまこうしてアスカがラッテガルトの腕に護られている状態では、強力な突撃系技である星墜の光槍の使用は不可能だ。
己自身を砲弾と化す突撃系の技は、使用者とその乗騎はともかくも、それ以外のすべてを危険にさらす。
身体を密着している間、使用者を護る《フォーカス》の恩寵によってエネルギー流などからは護られるかもしれないが、着弾時の衝撃まではそうではない。
先だっての降下作戦でアスカがふたりの部下を両脇に抱えて突撃できたのは、着弾前提の攻撃のためではなく、相手の包囲を突破するためだったからだ。
着地する前に解放されたティムールとナジフ老のそれぞれが受け身を取れる状況にあり、そのための異能の加護を受けていたからだ。
さらにもうひとつ、アスカにはわかっていることがあった。
それはいま、ラッテガルトが〈ログ・ソリタリ〉の攻撃を躱しきれない理由について、だ。
わたしだ。
わたしの存在だ。
アスカの結論は正しい。
余分な荷物を積んでいるがゆえに、ラッテガルトは本来彼女が持つ空中機動性、運動性能を充分に発揮しきれないのだ。
「くそっ、どうすれば——どうすればいい」
キリッと歯を鳴らすアスカを、ラッテガルトの赤い瞳が見た。
それから言った。
「翔べ——若き御子よ。オマエのなかの血に問え。天空は、オマエのものだ」
アスカはハッとなってラッテガルトを振り返った。
そこにあったのは相変わらずの無表情な鉄面皮であった。
だが、アスカにはわかった。
さきほどの言葉に込められていた、想いが。
巣立ちのときがきたのだ、とラッテガルトは言っているのだ。
ほんとうのオマエになるときがきたのだ、と言っているのだ。
ざわりっ、と腰骨のあたりから脳天にかけて、言い表すことのできない感覚が衝撃のように走るのをアスカは感じた。
初めての感触。
だが、頭ではなく肉体がわかっていた。
覚醒だ、と。
これは覚醒の瞬間なのだ、と。
アシュレダウに戦乙女の恩寵を垂れたあの日から、アスカは変わりつつある己を自覚していた。
あの日、アシュレを受け入れた瞬間に入ったスイッチ。
変化の。
変貌の。
覚醒の。
それがいま、完了を告げたのだと。
「白き翔翼——」
誰にも習っていないのに、アスカの桜色の唇から異能の名が漏れた。
同時に、トルクを上げた《スピンドル》が渦を巻き——純白の真っ白い翼が告死の鋏:アズライールより吹き出す。
ああ、とアスカは理解する。
不覚にも涙する。
自分が、だれから生まれたのか。
そのことをハッキリと自覚しなおして。
そして、舞う。
空を。
翔ぶ。
宙を。
夜を切り裂いて。
押しつけられる《救済》を貫いて。
偽神:〈ログ・ソリタリ〉の触腕との対消滅を起こしながらラッテガルトの周囲に帰ってきた星条の翼刃たちが、初陣の空に飛び立ったアスカのエスコートを引き受けてくれた。
恐怖は感じない。
アスカは思う、たぶん、それはここがわたしにとっての故郷だからだ、と。
獰猛な昂ぶりだけがあって、苦笑する。
喜んでいるのがわかったのだ。
全身の細胞が、神経が、心が。
彼女のなかで眠っていた、真騎士の乙女としての——戦乙女の心臓の目覚めに。
歌が、自然に口をつく。
さあゆこう、姉妹たちよ、ともに天空を生きる者どもよ。
戦いのときは、来れり。
大地、海原を、天空を朱に染めん。
それまで重荷だったアスカが分離したことで、ラッテガルトは本来の機動性を取り戻す。
ふたりは〈ログ・ソリタリ〉の追撃を振り切り、一気に高度を稼いだ。
追いすがる触腕を、エスコート役の星条の翼刃たちが切り裂き、ふたりの戦乙女を護る。
そして、ついに追撃が及ばなくなった高度で、ふたりは視線を交わした。
遠くに夜明けが見えた。
血の色をした夜明けだ。
いや、そうではない。
あれは断じて夜明けなどではなかった。
背筋の寒くなるような光景がそこにはあった。
巨大な遺跡——太古の、失われた文明の。
真っ白な遺骸のような骨の白の都市、その廃虚群。
それは不可知領域がこれまで覆い隠してきたこの世界の真の姿にほかならない。
人々の認知に働きかけ、ないものかのように振舞ってきたこの世界の臓腑が、そこにはあった。
血のように見える光は、その中心から発せられている。
どくりどくり、とそれが脈打つたびに、アスカの胸は不整脈のように跳ねる。
そう——わたしは、わたしたちは、いまからあすこへいくのだ。
アスカは確信して、震える。
それは心が、というよりもこのゾディアック大陸に暮らすすべての人型生命体たちの肉体に潜む“接続子”が起こした生理的反応だった。
「だが、そのまえに、オマエを討つ」
迷いを断ち切るように宣言し、アスカは偽神を見下ろした。
そして、ふたりの戦乙女たちは同時攻撃を仕掛ける。
それぞれが持つ、最大奥義で。
だが、それこそ、偽神:〈ログ・ソリタリ〉の思惑そのものだとは知らずに——。
「おおおおおおおおおおおおおおおッ!! ——告死の聖翼ッ!!」
アスカは持てる《スピンドルエネルギー》のすべてを告死の鋏:アズライールにつぎ込み、立ちふさがる《救済》の代行者:〈ログ・ソリタリ〉へと突撃した。
主の《意志》に反応した告死の鋏:アズライールは展開し、大きくその姿を変える。
その武器の特性上、多くの突撃系技を持つアズライールだが、この極大攻撃においては持てる潜在能力のすべてを開放する必要があった。
アスカはこれまでこの技を一度しか用いたことがない。
それは初めてこの神器と関係を持ったときのこと。
そう、あの廃神の漂流寺院でのことだ。
あの夜、アスカは廃神:フラーマの胎内からこの武具を持ち帰るため、この技を用いて巨大なエネルギー塊の中心を突破した。
廃れたりとはいえ神として語られた存在の象徴的異能であるフラーマの坩堝。
その中心を打ち破るだけの威力を持った超攻撃能力に、いま、ラッテガルトの超技が加わる。
星墜の光槍。
先ほどは、アスカを救出するための増速手段として用いられたそれを、今度は正しく攻撃として叩き込む。
アシュレの竜槍:シヴニールによる屠龍十字衝に匹敵するその破壊力と、アスカの絶技による二方面からの極大同時攻撃。
以前の対決で、アスカとアシュレは同様の手法を用い、〈ログ・ソリタリ〉の超防御能力を打ち破っていた。
いや、あのときアシュレが用いたのは射程では圧倒的に勝っていても、技の格としては一段劣る神鳴の一閃であった。
そして、その攻撃はたしかに偽神の防御能力を上回り、ダメージを与えたが、決定打には至らなかった。
ならば、今度は——今度こそは、仕留めきれる。
そういう勝算がアスカにはあった。
消し飛ぶような景色と時間のなかで、そんなことをアスカは考えた。
そして、着弾の刻。
がばり、と〈ログ・ソリタリ〉がアスカの狙った頭部を変形させ、門としての機能を起動させたのだ。
その内部で見た光景をアスカは忘れない。
いくつもの薄いクリスタルのごとき板に記録された厚みのないヒトガタ、そして魔物や夢幻の生物たち。
それが幾層も幾層も、まるで書物のように〈ログ・ソリタリ〉の内部には収められていたのである。
そして——アスカは囚われてしまう。
その夢幻のさなか、〈ログ・ソリタリ〉のはらわたに。




