■第七七夜:聖なる御旗となりて
そして、ユガはイリスを背にトラントリムを駆けた。
驚くべき光景がそこにはあった。
夜魔がいて、人々がいた。
肉体の一部を異形に侵された者たちも、そのなかに混じり、迫り来る軍勢への防衛線を築きつつあった。
そして、資材を引く牛馬に混じる奇怪な獣たち……。
「インクルード・ビースト。そして、かつては孤立主義者と徒名された人々だ」
事情のわからぬイリスに、ユガディールは問わず語りに話した。
「我々は長い年月をかけて、夜魔と人類の融和を実現してきた。だが——アシュレダウには、その理想が伝わらなかった。夜魔の姫にも、だ」
びくりっ、と朦朧とした意識のなかユガの言葉をなかばお伽話のように聞いていたイリスが、身を強ばらせた。
アシュレダウ、そして、夜魔の姫——シオンの名を聞いて。
「そうだ。次世代の聖母となるべき女:イリスベルダ。貴女の想い人たるアシュレダウと、彼の想い人たるシオンザフィルは、いっときだが、わたしのもとに身を置いていた」
「なん——」
ですって、という言葉を、最後までイリスは言えなかった。
ユガディールが、体験したその一部始終を、包み隠すことなくイリスに送り込んだからだ。
ああああああ、と灼けつくような記憶の熱さ、想いの熱量とサイズにイリスは鳴かされてしまう。
それは感情という名の膨大なエネルギーだった。
アシュレダウという男に向けられた偽りなき友情と、弟を思うような心、そして、同志として世界のカタチをともに変えようと願ったこと。
シオンという女性に向けられた複雑すぎる恋慕と、独占欲と支配欲、そのすべてを奪い去りたいと願ってしまったこと。
そして、この國——トラントリムに注いだ情熱と理想。
夜魔とヒトとの融和を本気で願い、戦い、その果てに裏切られ続け——それでも、諦めきれず、ついに理想の走狗と成り果てた孤独。
いつしか、この地に残された傷跡としての異形の種を仮想敵として利用し、演出して、それによって己の理想を果たそうとした。
「わたしのすべてを知って、彼らは——アシュレダウとシオンザフィルは我が元を去った」
恬淡と告げるユガに、それはあなたの理想が欺瞞によって裏支えされていたものだから——とは、イリスは指弾できなかった。
むしろ、イリスの胸中を占めたのは、ユガディールへの共感だった。
イリスを構成するふたつの存在:アルマステラとユーニスは、その意味で互いに、為政者と民衆の関係を裏表から身をもって体験してきたのだ。
そのすべてを、イリスは受け継いでいた。
だから、アルマステラは知っていた。
為政者の特権を羨み、それを権利と称して蜂起し、王宮に簒奪に現れた民衆たちの本性を。
国体の維持運営に関わる重大な問題は、無知を理由にたらいまわし、ただただ目先の利益のためにだけ為政者を“悪”と決めつけ、指弾し、その結果として国家を滅ぼした人々を。
国を預かる、とは無力であることは許されないのだということを知らず、ただただ、自分たちの総意には間違いなどないと信じる無知蒙昧の輩ども。
だから、ユニスフラウは知っていた。
支配者たち、つまり貴族たちの決めたことだからという理由で、この世の仕組みについての考えを放棄してきた民衆たちのことを。
国の未来は貴族たちが考えるべきで自分たちの仕事ではない、とばかりに彼らの治世をあしざまに言い立てながらも、自らその檻からは出ようともしない卑怯者たちの姿を。
そして、作られた階級世界のなかでの利潤を追求し、より弱いものからの搾取を拡大・加速させていく連中を。
だから、欺瞞が“悪”だというのなら——イリスには、その仕組みがわかってしまうのだ。
おまえたちが望んで作り上げた世界こそ、欺瞞ではないか、と。
あるいは、その仕組みをして、こう弁護する者があるかもしれない。
その欺瞞は真に無慈悲である世界から、人類社会を護るための苦肉の策、必要悪なのだ、と。
だが、イリスにはそんなごまかしは通用しない。
その裏に透けて見える暗い欲望が、はっきりと聞こえる。
ただただ、責任をだれかになすりつけたいだけなんだ、と。
ちがう、と反論できるものがあるなら、わたしの前に出てくるがいい。
その仕組みに人生を踏みにじられたふたりの融合体としての、わたしの眼前に。
では、と意識を戻す。
では——だとしたら誰がユガディールの理想を“悪”と断じれるのか。
夜魔とヒトとの融和を願ったのは、ユガディールだけではない。
彼の掲げる理想に《夢》を見たすべての人々が、彼に加担したのだ。
ユガの不幸は、一歩踏み出すだけで、その理想を実現可能な装置に辿りついてしまったことだった。
ううん、とイリスは首を振る。
不幸なんかじゃ、ない、と。
同じく、社会構造に踏みにじられ続けた者として、理想を掲げ重責を負うと決めた者たちの守護者となる、と覚悟し決断した結果としてのイリスにとって、それが不幸であるはずがなかった。
理解に至ったとたん、脳裏で声が響いた。
「人の世の苦役のほとんどは、悩みからくるのです。どこに行けばいいか、どうすればいいのか、なにを信じたらいいのか。わからぬから、苦しむのです。――来るべき世では民は、すでにして救われている。苦しみの根源である悩みから」
ああ、それは忘れ去られたはずの記憶——いいや、ずっとずっとイリスのなかで微睡みながら覚醒の日を待ち続けてきた本体だった。
そうだ。
そうだった。
皆、だからこそ、その悩みの根源たるものを、重荷を、責任を、《意志》を投げ捨てようとするんだ。
だから、わたしは。
その重責を背負う者を、勝利者として世界に立ち向かう者たちを救うと決めた。
彼らの後ろ盾となり、正当性を示す証となると決めた。
ああ、とさらなる理解にイリスは辿りつく。
だからか。
だから、わたしはこのヒトに、ユガディールにあったのか、と。
でも、だとしても——。
「おねがいです、ユガ、ユガディール、これ以上、わたしに注がないでください。理想を、《ねがい》を、あなたの想いを——」
イリスの表層を走る個人としての人格が最後の抵抗を示した。
いま自身のなかで起こりつつある理解を受け入れるということは、必然、ユガディールの理想と袂を分かった男、つまり、アシュレダウと敵対するということに他ならないからだ。
震える手で鞍を握りしめ、首を振って、必死にイリスは哀願する。
だが、ユガとの接続は止まない。
いや、もっとずっと深くなる。
これ以上、受け入れてはいけないと思った場所から、いったいもう何度、どれほど奥にまで彼の侵入を許してしまったのか。
全身を駆け抜ける感覚の視覚的表現として、そのたびに走る鳥肌が、嫌悪感によるものだとは、もうウソであっても言えない。
しあわせを感じるということが、こんなにも恐ろしいことなのだ、ということをイリスはこれまで知らなかった。
いや、それは正確ではない。
イリスベルダという娘にとって、しあわせは常に罪の意識と隣り合わせだった。
あの融合の夜以降、イリスはアシュレの歩むべき人生を狂わせたことへの罪の意識に、ずっと悩まされてきた。
だから、ほんとうに心の底からしあわせを感じられるのは、その償いとして、アシュレに求められて酷使されている最中だけだった。
けれども、いま、感じている感覚は、それを遥かに上回るものであった。
イリスという表層人格からすれば、それはアシュレダウへのいいわけできない裏切りであり、そして、彼女自身の内なる本体からすれば、己が辿るべきプロセスを正しく踏んでいるということへの歓喜にほかならなかったのである。
身にまとうことを唯一許されたあの青いイクスの旗の下に、イリスは悦びに震えるカラダを隠す。
鞍に見える部分すらそれはユガディールの肉体で、両脚も、下腹も、腕を思わせる器官にしっかりと囚われてしまっている。
そして、イリスが表面的な拒絶を示すたび、ユガディールをより深く受け入れるのは、イリスの真人格、つまり本性の側なのだ。
どうして、どうして、とイリスは浮かされたようにつぶやきながら、ユガディールの硬質な背中にすがる。
だが、その問いかけは、もはや、己に振るわれる所業への抗議を込めた問いかけではない。
「どうして、だれが——あなたにこんな孤独を強いたのですか」
それは限度を超えた侵入と接続がもたらした、深い深いユガへの共感。
世界の理不尽にひとり立ち向かおうとして、虚構になってしまった男への。
イリスの共感は、きっと己が祖父:グランの死に様とも、きっと無関係ではない。
「それは、貴女も同じだ。イリスベルダ」
返ってきたのは、いたわりだった。
イリスは泣いてしまう。
もはやごまかしようのない愛情——それは恋慕を飛び越えた、もっと大きく、強い愛だ——に突き動かされ、ユガディールを抱きしめる。
そんなイリスの抱擁を甘受して、ユガは言うのだ。
「これはわたしが望んで選んだ道だ。だから、憐れみはいらない——だが、もしひとつだけ貴女に望みを言ってよいのなら、おねがいだ」
歩んでくれ、わたしたちとともに。
この國を救ってくれ。
この世界に、理想郷を降ろしてくれ。
ユガディールがつぶやいた。
血の出るような彼の肉声で。
そして、これまで体験したことのない《ねがい》の奔流が、イリスのなかに注がれた。
ああああああああああああああああああああああああああああああ。
いつのまにか、イリスは歓喜に泣きながら、叫び、誓っている。
救います。与えます。導きます。
あなたを、あなたたちを——いつか見た《夢》の場所へ。
理想郷へ。
もう、孤独になどさせはしない。
イリスは頭頂に強い光を感じる。
それは内側から発せられる覚醒の光だ。
このときすでにイリスはヒトではない。
あえてそれを言い表すなら、イリスこそは理想を実現する旗手であり、すでに掲げられた御旗そのものとなったのだ。
軍事に従事するもの、彼らに協力して土木を手伝うもの、炊き出しを行うもの——それらすべてが、その日、見たのだ。
彼らを救うと、聖女が誓ってくれるのを。
見よ、この王国は負けを知らぬ。
いったいだれが最初に口にしたのかわからぬ聖典の一節が、最初さざ波のように、しかし、いつしか巨大な波となり唸りとなって、夕闇迫る世界に鳴り響き、大合唱となった。
歓喜に満ちて聖歌を歌い上げる聖女のもとに。




