■第七六夜:《ねがい》を背にして
びょうおう、と耳朶を強風が嬲る。
だが、時速数百メテルに達する高速飛翔状態にあっても、この程度の風圧で済んでいるのは屍騎士:〈グルシャ・イーラ〉が=ラッテが、その腕に抱き、背に守るアスカたちのために発動させた異能:風霊の護りのおかげにほかならない。
そうでなければ、まっすぐ眼下を見下ろすどころか目を開けていることさえ難しい風のなかを、アスカたちは放たれた矢のように、攻略目標:ギルギシュテン城を目指す。
ふつふつと血が沸き立つような感覚は、戦場を前にしたときのアスカにとってはお馴染みの感覚であったが、今日はそこに、開放感とでもいうべき高揚が乗っている。
それこそはアスカの身体に流れる真騎士の乙女の血の証明。
そしてまた、屍となりしとはいえ、同じ真騎士の血を持つラッテガルトとの共闘によって湧き上がった──同胞とともに戦場に侍ることへの愉悦であった。
気がつけば、アスカは歌さえ口ずさんでいる。
それは幼き日、母:ブリュンフロイデが聴かせてくれたものであったか──。
ルルル、ララルル──そして、アスカは己のそれに寄り添う声を聴いた。
それは自分のすぐ横、紅玉のように赤い目をした異形の騎士の口から漏れていた。
聞かれていた?
アスカは、ハッとなって口をつぐむ。
己のなかにある闘争への陶酔を知られたような気がして。
だが、異形の騎士はそんなアスカを責めるどころか、推奨するように言ったのだ。
「謳え、心のままに。血の導くままに。勝利の凱歌、謳い響かせよ」
それこそ我ら、真騎士の誉れなれば。
微塵も表情を変えず、ラッテガルトが言う。
だが、アスカにはそれは年若き同胞、それも初の空中戦を体験しようとしている若年者に対する姉の教えに感じられた。
能面のごとに容貌すら、どこか笑っているように思える。
「さあ、ゆくぞ。皆、覚悟は決めたか。これぞ、我ら真騎士の真骨頂、虚空からの蹂躙──騎行なり!」
言うが早いか、ラッテガルトは身体を傾け加速しながらの降下に移った。
みるみるギルギシュテンの城塞が眼前に迫る。
城塞の屋上に備え付けられたバリスタが回頭するのが見えた。
弩兵と長弓の混成部隊が降下してくるラッテガルトめがけて、弓を準備しはじめている。
司令官なのだろう夜魔の騎士のひとりが、なにごとか指示を飛ばしている。
インクルード・ビーストに跨がった猛獣使いたちが、白兵戦に備えて、場内を走るのが確認できた。
ごうおう、と背後が朱に照らし出される。
イズマの拠点攻略用攻撃であるのたくる地獄が勢いを増したのだ。
高々と上る火柱が、夜の帳を切り裂いて世界を照らし出す。
むせ返る硫黄の匂いが、ここまで届きそうだ。
シュ、と静かな音とともに、ラッテガルトが右手に携えた光槍:スヴェンニールを起動させた。
竜の顎門を思わせる砲身基部に光が集まり、やがてそれは無数の輝ける翼となる。
アシュレの竜槍:シヴニールとその威力を目の当たりにしたことのあるアスカには、ラッテガルトの考えが手にとるようにわかった。
まず、この一斉射で敵の対空防衛戦力を掃討するつもりなのだ。
さきほどの夜魔たちとの交戦から、いま砲身のなかで出番をまっている光の翼たちは、そのカタチこそアジサシを思わせる優美なものだが、実際にはその正体は強力なエネルギー弾そのもので、その飛翔に巻き込まれたものは鋼鉄の鎧を身にまとっていようとも、一瞬で寸断されてしまう。
敵から放たれるであろう鏃の驟雨に対して、先んじてこれを展開。
攻撃と同時に防御と目くらましを兼ねる、というのがラッテの意図なのだ。
そしてそれは、航空戦力として地上に展開する敵を蹂躙する真騎士の乙女たちの基本戦術──すなわちこれこそ「騎行」なのであった。
きろり、とふたたび、あの紅い瞳がアスカを見た。
わかっている、とアスカも頷く。
この先制攻撃にさらされ混乱する城塞に高速で降下・展開、一気に敵司令官を陥れろ、とラッテガルトは言うのだ。
そして、それはアスカを始めとする砂獅子旅団が得意としてきた、急襲作戦のカタチとピタリと符合していたのである。
言われるまでもない。
アスカは己のなかでイメージを高め、《スピンドル》を起動させる。
壁面を駆け上り、疾風のごとき速度を与えてくれる異能:ムーブメント・オブ・スイフトネスの加護を自らに施す。
ラッテガルトの背に陣取るナジフ老と、ティムールもそれに続いた。
そして、煌めく翼の群れが夜陰を切り裂いて飛び立ち、応戦するギルギシュテン城の弓兵たちを半壊に追い込み、バリスタを蒸散させた、次の瞬間だった。
例の窓を潰された聖堂へと、アスカたちが降下を開始しようとした、まさにそのとき──。
ゴクウンン、という地鳴りをともなう揺れとともに、聖堂から真っ白いエネルギー流が巨大な柱となって放たれたのだ。
※
略奪されたあの日から、イススベルダはユガとの接続を強要された。
いや──それがほんとうに、強制されたものであるのかどうか、もうイリスのはわからない。
心は恥じ入り、悔しさから涙を流すのに、それ以外のいっさいはユガを拒むことも否定することすらできない。
いや、肉体は、そしてそれを統御する真の支配者としての無意識は、より深い侵入と関係性の構築をイリスに強いてくるのだ。
おねがいです、とイリスには懇願することしかできない。
これ以上、そそがないでください。
わたしのなかに《ねがい》を、そそがないで。
つよくつよく求められていることを、わたしに思い知らさないでください。
ふかくふかく希求されていることを、わたしに教え込まないでください。
そんなにされたら、わたしは──与えたくてしかたがなくなってしまいます。
あなたを救って差し上げたくて、しかたがなくなってしまいます。
心を破壊するほどのしあわせの頂きで果てを見せられ続けながら、イリスは懇願する。
両手の指を震わせ、逸らしきった喉に、おとがいに、這わせながら。
嵐の去った浜辺、カテル病院騎士団に属する従騎士:トラーオを暴力さえ用いずに制したユガディールによって、イリスは強奪された。
抵抗はすべてムダに終わった。
それまでイリスを守り抜いてきた霊験──天上の國よりの恩寵とでも言うべき超防御能力は、あとかたもなく雲散霧消していた。
その直前までオーバーロードとしての姿を露にしたユガディールをひしがせ、甲冑と一体化した肉体を粘土細工でも握りつぶすかのように圧倒していた《ちから》が、突如として失せたのだ。
あとに残されたのは非力な、身を包む衣さえままならない、身重の女だけであった。
そして、そのことがイリスに過剰な抵抗を控えさせた。
抱き上げるユガが、イリスをまるで壊れ物かのように、丁重に扱ったから、というのもむろんある。
ユガは駆けた。
朝陽を浴びながら、ついに出逢うべき運命と邂逅を果たした若者のように。
表情は、甲冑の面頬めいた鉄面皮の向こうでうかがえない。
ただ、逸る心が、その足並みにだけ現われていた。
そして、いっときの休憩すら惜しんで、ユガは居城へと舞い戻った。
かつてのトラントリム中枢。
だが、そこでイリスをまっていたのは、決して現代のものではありえない巨大な廃虚群だった。
屹立し、あるいはかしいだ巨大な石柱は、はたして人造物なのか生物なのか、まったく理解できぬ素材で構成されていた。
偶像の神殿、とそれを安易に表現して良いものか。
器物と生物とが境をなくし、密接に絡まりあい接続されることで生み出された──生ける都市、その死骸としての廃虚が、そこには広がっていたのである。
「かつてここは、不可知領域だった。だが、人々からそれを覆い隠してきた〈ログ・ソリタリ〉の機能が一時的にせよ半壊した結果、こうして、認識できる姿になったのだ」
あまりの光景に両手を口に当てて動悸を押さえるイリスを、思いやってのことかどうかはわからない。
イリスがその単語──不可知領域を知っていたのは、イズマが話してくれたからだ。
消し去られた世界、非公式の側だと、イズマは言った。
あるのになかったことにされてしまった場所だと。
ああ、とイリスの喉から理解とも、悲歎ともとれる声が漏れた。
来てしまったのだ、と。
わたしは、とおい場所へ、と。
先ほどまで快晴だった空は、ここへ足を踏み入れた途端、鉛色の雲に覆われてしまった。
低く垂れ込めた雲からは、音もなく緑色の細かい雷がひっきりなしに降る。
それはどこか儀仗兵の掲げる槍のように、ふたりをユガの居城へと誘導しているようだった。
「まず、湯浴みをしなければならない。聖母よ、あなたは消耗しすぎている」
それだけ告げると、ユガは浴室に向かってイリスを抱いたまま歩み始めた。
ふと気がつけば、少年の顔をした従者たちが、湯浴みのための道具を持ち、両脇に数名ずつ、ユガディールに従って歩んでいた。
ただ……そのどれもが、真っ白で奇怪な蟲のように脚の細い四足獣の姿をしていたのだが。
その有無を言わせぬ空気に、イリスは身を強ばらせた。
薄緑色のハッカの薫りがする湯船にあっても、イリスは開放してもらえなかった。
イリスの身を守る唯一のもの──青地に白で染め抜かれたイクス教の旗をユガは剥ぎ取ると、そのまま自身とともにイリスを湯船に浸したからだ。
そのまますみずみを洗われ、清められた。
入念に、しかし、劣情など微塵も感じさせぬ運指で。
冷酷でありながら、それでいて、敬愛に裏打ちされた作法で。
イリスは不覚にもそこに、憧れの女性に初めて触れる少年のような初々しさを見出してしまって困惑する。
それは己を厳しく戒めようとするあまりに現われる固さ、のようなものだ。
そして、そこでユガと繋がれた。
どうして、拒まなかったのか、と問われたら──もうその答えを、イリスは思い出すことさえできない。
ただ、ユガディールに迫られたとき、イリスの《ちから》と肉体は、悔しくなるほど無抵抗を貫いてしまったのだ。
「そうではない、聖母よ。貴女はまだ不完全なのだ。巣立ち前のひな鳥のように。それなのに仲間たちを思うがあまりに《ちから》を振いすぎた。だから、枯渇したのだ、《ちから》が。わたしを受け入れるべきだ」
まるで思いやるようにイリスの細く非力な腕をつかんで、押し広げながら、ユガは言った。
それまで、必死にユガの肉体を叩いていた拳は、手首のところで捻挫を起こし、青紫に変色を起こしてしまっていた。
「くっ、だ、だれがっ」
「よく考えてみるがいい。“再誕の聖母”として本当に完成された御方が、どうしてなんの《ちから》も振えないのか。このようにカタチばかりの演技を繰り返しても、貴女の肌に傷ができるばかりだ。正直に告白する。貴女を助けたいのだ。貴女の宿す救世主は《ねがい》を欲されている。《ねがい》は《ちから》だからだ」
イリスには理解しがたいことを、あたりまえのように、ユガは話した。
「貴女がいま宿されるは“運命の御子”に相違ない。それは我々の希望。我々の未来と運命を変革する御方。だが、いま、その母体たる貴女は不用意に《ちから》を振いすぎたのだ。だから、御子は飢えていらっしゃる。渇いていらっしゃる。それを癒すことができるのは《ねがい》だけ」
淡々と、しかし、狂的に話すユガディールの背後に、無数の思念をイリスは感じ取っている。
それがユガディールの姿を生前の、いや、本来彼が辿り着くべきだった王としての姿として幻視させている。
彼を支え、裏切った三人の妻たちを筆頭に、無数の人々の思念──《ねがい》が、イリスに幻視させたのだ。
いやいや、と怯える子供のようにちいさく首を左右に振りながらも、イリスは理解してしまう。
ああ、彼も、同じなのだ、と。
わたしと同じように、託されて、背負わされたヒトなんだ、と。
その孤独と歩んできた道程を、一瞬で感得してしまう。
道程は違えども、同じくいばらの道を歩み続けてきた者同士として。
そして、ユガは言ったのだ。
「わたしとともに来てくれ、イリスベルダ。ともに天上の國を──“庭園”に記録された理想郷を受肉させ──この世に降ろそう」
気がつけば、イリスはユガを受け入れてしまっていた。
きっとどこかで気がついていたのだ。
わたしはこのヒトと接続するために、ここまで来たのだ、と。




