■たれそかれ5:ジェリダルの魔物
※
「じゃ、行ってくるね」
十数名の衛士とその倍の人数の傭兵からなる一隊を率いて、早朝、ユーニスとレダはジェリダルの魔物討伐に出向いていった。
それを、アシュレは見送り、部屋に戻った。
ふたりの居場所を知らせる《フォーカス》──所有者の印章:インテークを掌中に遊ばせる。
ふたりの温もりと薫りを、アシュレの肉体は憶えている。
まだそれが残り香となって、自分から立ち昇るのを感じる。
じつは、とても口には出せないような場所への捺印の儀式を終えたあと、もうひと悶着あったのだ。
あろうことか自室に帰り着いたとたん、ユーニスとレダにほとんど押し込みのようにベッドでの同衾をせがまれ、断れなかったのだ。
アシュレとしては、ふたりの肉体に烙印を押すという行為に対し、己の胸中を吹き荒れた感情を懺悔して、赦されたい心境だったのである。
だが、それが可能なもっとも手近な資格者、つまり聴聞僧の訓練を受けた聖職者が当のレダマリア本人であったのだから、それはもう、悶々とするしかないではないか。
いくらなんでも、それはできないからだ。
月が出ていれば、愛馬:ヴィトライオンに跨がり、早駆けでもして気を静めなければ、ナニがどうなるか、自分でもわからないありさまだったのだ。
それなのに、そんなふうに苦しむアシュレの所に、やってきちゃったのである。
ふたりが。
先にアシュレの寝室にやってきたのはユーニスだが、あとで現れたレダと鉢合わせになり、アシュレはこれは明日が迎えられるのかどうかと気を揉んだものである。
内縁の妻との世界に、幼なじみの上司が飛び込んでくるような展開だといえば、理解に容易いだろうか?
結果としてそれは杞憂だった。
恐くて眠れない、という互いの主張を少女たちは素直に認めあった。
道徳を説くアシュレの意見は、黙殺された。
「むかしみたいだね」
そう言いながら、しがみついてくるふたりの少女たちのために、アシュレはプライベートを放棄する覚悟をした。
だが、ふたりの窮状に、アシュレは己のなかにあった異常な昂ぶりがみるみる冷え、逆に、彼女たちを庇護しなければならないという思いが勝ってくるのを、まざまざと感じた。
これこそが、アシュレダウという男の美点・美質であり、ときに女のコをして「いくじなし」と言わしめる部分なのだが、詳細は割愛する。
ともかく、だ。
ふたりの少女たちは、震えていた。
無理もない。
ふたりもあの検死に立ち合ったのだ。
いくら、所有者の印章:インテークによって刻まれた印が、その居場所を知らせてくれるとはいえ、ひとつボタンをかけ間違えれば、ユーニスが、レダが、あるいはふたりが、あの哀れな娘たちと同じ運命を辿らないという保証などないのだ。
彼女たちが賭金として天秤に載せたものの重さを考えれば、これはわがままなどとは、とても言えない。
むしろ、ささやかな願いだっただろう。
アシュレがふたりの頭を抱いてやると、少女たちはそれでやっと安心したように寝息を立てはじめた。
ふたりの体温と匂いに包まれ、いつのまにかアシュレもまた、懐かしい気持ちで眠りに落ちた。
そんな夜を経て、彼女たちは旅立ち、アシュレは待機に入った。
長く神経をすり減らすような時間が過ぎる。
メイドたちが差し入れてくれる食事を、こんどはしかし、捩じ込むようにしてアシュレは食べた。
味など憶えていない。
とてもではないが、優雅に食事をとるような気分にはなれなかったが、いざ、事が起きてからでは、すべてが遅すぎる。
これこそが己が任務だと言い聞かせ、黙々と定量を摂取した。
待機任務中に、消耗しているようでは話にならない。
そんなことでは、命を賭けたレダとユーニスに申し開きができない。
掌中の印章を起動させるのは、午後の鐘を聞いてからだと事前に打ち合わせている。
その時間帯までにジェリダルの魔物が姿を現せば、護衛任務にある兵士たちが、近隣に響きわたる角笛が知らせてくれるだろう。
だが、それはありえない、とアシュレとふたりの少女たちの意見は一致していた。
「わたしたちが、短気を起こして無謀な行動に出るのを、ヤツは必ずまっているわ。時間経過につれて成果が上らないことに焦れて、護衛たちを逐次分散、捜索に投下するっていう愚策に、わたしたちが出るのを、どこかで待っている。だから──望み通りにしてやるの」
レダは言い、その策のために午前中と昼下がりまでの時間を仕込みに使うの、と微笑んだ。
あえて、キングとクィーンの守りを手薄にし、飛び込んできた獲物をナイトで仕留める。
お得意の戦法だ。
「だから、これは午後の鐘を聞いたら発動させてね? 絶対、切っちゃダメよ、走査を。なにがあっても」
そう言って握り込まされた所有者の印章:インテークは、アシュレこそ元からの主人であったかのように、しっくりと馴染んだ。
それはレダの母が、夫、つまりレダの父親から譲り渡された品のうちのひとつだという。
ちなみにだが、レダの父親が誰なのかは、わからない。
正式の結婚によらない懐妊で生まれた。
レダは、つまり私生児なのだ。
そして、立場的には現法王:マジェスト六世の姪ということになる。
なかなか一筋縄ではいかない背景が、そこには、ある。
かいつまんで言えば、いまアシュレの手の内にあるこの印章は、両親の形見ということになる。
そんな大切な品物の主人となってよかったのか。
そう問いかけるアシュレに、レダは珍しく、はにかんで笑った。
「やっぱり──あなたの特性はとても特殊ね。《フォーカス》の個人適合化が、こんなにスムーズなヒトは、ほかにいないわ。ふつうは、拒まれてしまうはずなのに」
なにかを誤魔化されたような気がしたが、アシュレは上司の言葉として、それを受け取った。
どうしてか、ユーニスだけが──普段は決して見せない、取り残された子供のような表情を、一瞬だけ浮かべたのだけれど。
とにかく、昨夜行った短いテストで、感覚は掴んでいる。
ふれこみに違わず、ふたりの存在をはっきりと捕らえることができた。
注ぎ込まれた《スピンドル伝導》により、息づかいを感じられるくらい正確に、居場所を特定できる。
加えて、おおまかにだが、対象の状態をさえ把握できるらしい。
対象となったふたりからも「探されている感じが、すごくした」という、なんだか判で押したような解答があったが、結果は良好らしい。
そのことが、アシュレをして、作戦決行への最後の決断に踏み切らせた。
これならば、いける、という確信を与えたのである。
だが、印章と自分の出番は、まだ先だ。
ほんとうの作戦開始は、昼下がり以降なのだ。
それでも、さすがに正午を一刻も過ぎれば、気が急いてくる。
三時の鐘が鳴り響き、アシュレは打ち合わせ通り印章を起動させた。
とたんに、ふたりの居場所と状態が、感覚に変換されて流れ込んできた。
緊張と興奮を感じるが、これは任務の危険性をかんがみれば、しごく当然だろう。
口中にふたりの匂いが、味覚として広がる。
甘味のなかに混じる刺激は、ふたりが感じている恐怖だろう。
あらためて、幼なじみふたりを危険な場所へ送り出したのだという実感が涌いて、胃の辺りが重くなる。
ふたりを想うと、その意図を察した所有者の印章:インテークが、強くふたりの現在を教えてくれた。
なるほど、どうもこれは強く《スピンドル》を流し込めばこむほど、対象物の状態を正確に、詳しく知ることができるらしい。
超常的な破壊力を呼び出すような代物ではないので、代償はわずかなのがありがたい。
それに、法王庁にほど近いこの法王領は、比較的、《スピンドル》の回転効率が他の地方に比して良い。
神に祝福されし土地、と聖職者たちは言う。
真偽のほどはわからないが、こういうときは都合が良い。
アシュレは彼女たちの首筋に顔を埋めるようにして情報を嗅ぎ、鎮静剤のように求める。
こうして逐次、ふたりの無事を確認していないと、気が狂いそうだ。
深く、彼女たちの無事を確かめる。
なんども、ずっと。
自分の腕で抱きしめ、指で、あるいは嗅覚で、もしかしたら味覚で、確かめるほどに。
どれくらい自分がふたりを大切に思ってきたのか実感して、おもわず苦笑する。
「まいったな。焦れてきたよ」
だが、傾いてきた陽に、アシュレがそう呟いた瞬間だった。
ぶるりっ、と手の内で印章が震えた。
アシュレは深々と下ろしていた腰を、ソファから引きはがした。
これまでにない反応。
それは、圧倒的な恐怖にふたりが震え、その肌が粟立つ感触だ。
ついに──レダの作戦の通り、ジェリダルの魔物は現れたのである。
※
「あ、う」
馬上でレダが身じろぎした。
同じく、ユーニスも漏れそうになる声を必死に噛み殺す。
「こ、この、作戦──失敗だったかも」
魔物の捜索は遅い昼食を捜索隊が終えるころになっても、成果を上げられなかった。
もちろんそれは想定内であったから、レダは頭に血を昇らせた愚かで世間知らずの聖職者を演じてみせた。
隊を分散して山狩りに動員、自分たちは森の出口で陣を張るという方法に切り替える。
そのうえで、半刻を待たず、直衛の衛士たちをも捜索に加わらせ、森へ入るよう命じた。
普段のレダを知るものがいたなら、幻滅したであろう失策──完璧な演技。
捜索も戦術も、そのイロハも知らない小娘を演じて見せた。
出口で待ち受ける自分たちは絶対に安全だという慢心を、あえて。
近習たちまで直掩の護衛とともに、追い払った。
横にいたユーニスが、目を丸くしたくらいだから、かなり堂に入った暗君ぶりである。
そして、周囲から人気が絶えたのを確認すると、レダは態度を一変。
打ち合わせ通り、ユーニスとふたり、森へと足を踏み入れたのである。
ヒトの気配、捜索隊の気配を避けるようにルートを選んだ。
森番たちの日頃の手入れが行き届いているのだろう。
森のなかは意外にも、かなり歩きやすい。
手入れされていない森では、こうはいかない。
この地方の下生えはおとなしいものだが、それでも、である。
どこかから、鐘の音が聞こえてきた。
午後の鐘。
時刻でいえば、三時に当たる。
ほんとうはもう、森を出なければならない。
夏の終わりから秋にかけての日暮れは、あっという間で、森のなかでは陽の光は驚くほど早く減じていく。
平地での昼下がりを夕方だと思うくらいの気持ちで行動しなければ、暗闇のなかに取り残されることを覚悟しなければならない。
それが山であり、森なのだ。
もうちょっとくらい、と欲をかくと自宅の裏庭で遭難する。
そういう場所だ。
その常識を、ふたりはあえて破った。
ジェリダルの魔物に隙を見せるためだ。
もちろん、ユーニスとレダの行動は、事前の打ち合わせ通りだから、アシュレも承知してくれている。
午後の鐘を合図に、アシュレは所有者の印章:インテークに《スピンドル》を流したはずだ。
物品探知。
それがいま、ふたりの居場所を正確にアシュレに伝えている。
いつ、獲物が餌にかかってもいいように、だ。
ただ、まさか、それがこんな副作用を生むとは想定外だった。
「ひゃ」
「あ、う」
はじめて、アシュレがその効果のほどを試したとき、ふたりの口から漏れた声と同じものが、いま、また飛び出した。
「やう、こ、これ、やっぱり、だ、め。だめだよ」
「いけない、こんなの、あ、う」
烙印した物品の位置情報を知らせる物品探知の異能は、同時にその物品の状態を、主人に知らせる能力をも有していた。
簡易的な品質チェックである。
そのため、烙印を通じて対象を探る。
探知の対象がただの物品であれば、それは問題なかったであろう。
いや、これはもしかすると、ワインなどの樽に押して、その中身の熟成度を「中身などを一切損なわずに」味見する、という使用法が前提の《フォーカス》だったのかも、だ。
しかし、いま、物品探知の対象とされたふたりにとってはそうではなかった。
アシュレを含む三人の盲点が、この時点で露見した。
この《フォーカス》を生物に対して使うことは、言うなれば想定外の使用法なのである。
押された烙印が激しく疼き、そこから見えざる手によって、状態を、品質をチェックされる。
文字通り、全身を探られ、確かめられ感触に、ふたりは声をがまんできない。
できるはずがない。
本来の使用法を逸脱した運用に対する副作用といえばそれまでだが、その運指や感触は、所有者の印章:インテークの、現在の主人のものを正確に再現するのだ。
つまり、アシュレの感覚器を、だ。
触覚や、嗅覚や、味覚をである。
指や、鼻や、舌をだ。
アシュレに確かめられる感触に、ふたりの少女たちは完全に動けなくなってしまった。
印を押した場所も、大問題だったのである。
「こ、こんなになるの、レダ、し、しってたの?!」
「し、しらないし! それに……て、テストは一瞬だったから……ユ、ユーニスだって黙ってたじゃない! テスト、したでしょ、いっしょにッ?!」
「だって、わ、わたしだけだったらどうしようって。い、言えないよ! こんなのッ!」
予期せずおちいってしまった本物の窮地に、美少女ふたりは互いに罵りあう。
対象の現在の状態をより精度高く、正確に知ろうと試みるアシュレがますます《スピンドル》を励起させ、《ちから》を振ってしまうことなど、ましてや、わかろうはずもない。
「ちょっ、あ、アシュレ、だめ、だめです、そんなッ──ご主人様!」
「おねがい、おねがいします。そんなに確かめられたら──聖騎士、ダメ、ほんとにダメッ」
まず、ユーニスが根をあげた。
衆人環視の状況ではおくびにも出さないが、己の主人としてのアシュレに身も心も捧げた彼女である。
永遠の隷属を自らが進んで誓った主人の運指に、抗えるはずもない。
いや、それどころか、アシュレが聖騎士昇格試験に挑むにあたり、その予習として実に四年の間、自らを教材として差し出してきたのだ。
聖騎士昇格の試験には、尋問に関する実技が重要な要素として問われる。
たとえば、誘導尋問。
たとえば、嘘を見抜く勘。
質問を繰り返し、自白を引き出し、真実に迫ること。
そして、ときには躊躇なく、残酷な実力行使に出ることのできる鋼の精神を持つこと。
それが問われる。
単純に眼前の敵を殲滅粉砕すればよい傭兵や騎士とは、求められる資質も、任務の難易度も桁違いに高いのだ。
いわば、法王直属の特務捜査官である聖騎士の赴く現場は、いったい誰が敵で味方なのか、見分けのつかない、限りなく危険な領域である。
そこへ単身、あるいは子飼いの密偵とともに、少人数で切り込んでいくのだ。
要求される分野の多様性と練度は、これはもう仕方がなかった。
だが、要求されるのは、捜査能力だけではない。
非情さ。冷酷さ。冷徹さ。
そういう、厳しさに属する《ちから》を、聖騎士は問われる。
そして、天才と謳われ、幼少期から将来を嘱望されたアシュレダウの唯一の弱点は、まさにその一点だった。
どこかでヒトを信じてしまう。
どこかでヒトを愛してしまう。
非情になりきれない──しかし、人間としては愛すべき美質。
けれども、それは、聖騎士としては叩き直さなければならない部分だった。
いや、冷酷非情の卑劣漢たれ、と言っているのではない。
むしろ逆で、普段は民草の信頼を集める存在でありながら、いざ、任務となればすべての躊躇と私心を捨て去ることのできる高みへと至らなければならない。
そのための、教材としてユーニスは自ら望んで志願した。
アシュレの父、グレスナウは悩んだことだろう。
ふつう、この過程は、もっと年上の、経験を積んだ、それも当主の信頼を勝ち得、すべてを心得た男女が教える部分だったからだ。
しかし、ユーニスの熱意と悲壮な決意を無視できなかった。
執事にして密偵、そして、ユーニスの祖父:バートンからの口添えもあった。
結果として、グレスナウの決断は正解だった。
ユーニスは、その役割を十二分以上に果たしたのだ。
ヒトの心の挫きかた。
ヒトの意志の折りかた。
ヒトの秘密の暴きかた。
それらすべてを、アシュレはユーニスを教材として学んだ。
どうされたら、こまるのか。
なにを、どのようにされてしまったら、逆らえなくなるのか。
ヒトの心の弱点と、肉体の相関関係。
そのすべてを、ユーニスは己を実例として、アシュレに教えたのだ。
ユーニスが、アシュレに知られていない秘密といえば、たったひとつ。
少女枢機卿:レダマリアが、かつてその聖職位を真剣に投げ捨ててもかまわないと思うほど、アシュレを想っていたということだけだ。
それを思いとどまるよう諭したのが、自分だということだけだ。
それ以外に──もう、アシュレに握られていない秘密など、ユーニスにはない。
もし、他言されたら、羞恥のあまり、舌を噛みきって死ぬかもしれない。
だが、アシュレがふたりきりの場面以外で、その事実を駆け引きに使ったことなど一度もない。
そぶりを見せたことさえない。
そこに、ユーニスはアシュレという男の本当の美点を見出しているのだ。
大切にされている、と実感する。
そして、だからこそ、求められればなにひとつ、いっさいを拒めない。
いっぽうのレダもまた、アシュレの走査を拒みきれない理由があった。
端的に言えば、好いていたのである。
アシュレを、男性として。
いや、それは昔からだった。
ずっとずっと。
もしかしたら、ユーニスよりも以前から。
だが、告白を決意した日、その想いをユーニスに打ち明けたレダは、悟ってしまったのだ。
ユーニスが胸の内に秘めてきた想いを。
アシュレのことが愛しくてたまらないのだということを。
親友として、レダの立場と将来を考え、軽率な行いを思いとどまるよう諭してくれるユーニスの言葉を聞きながら、そのとき、レダの心中を吹き荒れた感情の嵐は、まったく別のことに関してだった。
もし、自分がここでアシュレに想いを告げたらどうなるのか。
それを、アシュレが受け止めたとしたらどうなるのか。
レダの父親は正体不明とはいえ、《フォーカス》を形見として残せるほどの人物である。
また、レダの母親も不義の子を孕んだとはいえ──やはり《スピンドル能力者》に連なる名家の出であった。
レダ本人に《スピンドル》の発現がなくとも、現法王:マジェスト六世の後ろ盾が得られるとあれば、この婚姻は、つまり恋は成就する可能性が高かった。
じっさいに、そうなれば、還俗した姪の恋路を、伯父であるマジェストは後押ししただろう。
だが、もしそうなったら。
なんの後ろ盾も《スピンドル》も持たぬ、ユーニスはどうなる?
そう思いいたったとき、レダは己の恋の成就を諦めたのだ。
だから、枢機卿になると決めた。
ユーニスが必死に、己の恋情をひた隠しにして語る理想の未来──少女枢機卿、そして、女性初の法王の誕生という希望に、レダは自分の全生涯を賭けようと、決めた。
もしかしたら、そうやって巨大な信仰を司る組織の頂点に立てば、身分の差を理由に恋を全うできないユーニスのような存在を、救えるのではないか、と考えたのだ。
ただ、ひとつだけ、すべてを賭ける己の、恋の成就を投げ捨てる己に、ゆるそうと決めたことがあった。
それは、アシュレダウという男への恋慕だけは、恋しいと、愛しいと想う心だけは、捨てまいということだ。
成就など端から求めぬ、ただただ、ひたすらに、自分の心のなかにあるアシュレへの思いだけは、せめてゆるそうと。
だから──そのアシュレから探し求められ、まさぐられることに、嫌悪を感じることなど、ありえなかったのである。
泣いてしまうほど、うれしい。
封をして、必死に押し殺してきたからこそ、よけいに。
あってはならない、あるはずがないと、封殺してきたからこそ、たとえこれが《フォーカス》ごしの、超常的走査がもたらす幻覚的な感覚だとしても。
レダには拒めなかった。
いや、正直に言う。
もっと、知って欲しい。
すべてをつまびらかに知って欲しい。
そう、ねがってしまうほどに、レダのすべては反応したのだ。
深く、心の──秘めたる想いまでも。
それが、このとき三者の間で起こっていた、情報交換の顛末だった。
だが、この状況は、ふたりを狩りの対象と捉えてきた魔物にとって絶好の機会に見えたことだろう。
そう、ジェリダルの魔物は、ユーニスとレダをじっと視ていたのである。
そして、演技ではありえないふたりの窮状が、この狡猾で邪悪な魔物をして、ついに行動を起こさせた。
ぶっ、となにか空気を裂くような音がした直後、レダの乗る馬が竿立ちになり、主人を振り落とすと駆け出したのである。
そうして、木立のなかに消え去ろうとして、横倒しになる。
そのまま動かなくなった。
落馬したレダを、間一髪のところでユーニスが抱き留める。
「だ、だいじょぶ、レダ?」
「なんとか。ユーニスこそ」
「こっちも、落ち葉がクッションになってくれて助かったわ」
互いの無事を確かめうふたりは、走り去った乗馬のたどった運命を見て絶句した。
ふたりの数十メテルむこうで、横倒しになった馬体が、びくりびくりと痙攣している。
そこに、矢のようなトゲが数本、突き立っているのがわかる。
「あれって……」
言葉にしかけて、ユーニスは首筋が、ぞわり、と総毛立つのを感じた。
それは視覚ではなく、音でもなく、むろん匂いでもなかった。
言うなれば、アシュレとともに肩を並べて戦ってきた戦士としての勘が起こさせた挙動。
素早くユーニスは振り返る。
空間に歪みのようなものが見えた。
それこそがジェリダルの纏う認識拒否の異能だったのだが、もちろん、ユーニスにはわからない。
だから、魔物がその偽装を解き、姿を現したとき、自らの眼前に現れた姿を見て、ユーニスは悲鳴を上げた。
いや、実際には上げるべく息を吸い込んだ。そこにガスが吹きつけられる。
神経を麻痺させる吐息を、胸一杯に満たしてしまったユーニスは頽れる。
そして、ユーニスはアシュレの名を呼びながら、暗闇のなかに落ちていった。




