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■第七一夜:夢じゃない

         ※

         

 ボクは夢でも見ているのか──。

          

 ヴィトラから注がれるまっすぐで純粋な愛を受け入れながら、アシュレは想う。

 邪心や私心という夾雑物きょうざつぶつのない、ひたすらに相手だけを想う心を前にして、アシュレには拒むことはおろか、疑うことさえできない。

 いや、むしろこれまでヒトと馬という決して超えることのできない種族の壁があったからこそ意識してこなかった、ヴィトラへの愛を再確認してしまっていた。

 

 トラントリム攻略戦の日々、食事を摂りながらの休息の間に、アテルイから聞かされたアラム教圏の馬たちにまつわる伝説が、もしかしたら、そこには作用していたかもしれない。

 

 それは老いた母や妹たちのために、愛馬を手放さなければならなくなった男の話だ。

 

 豪族の若者に、生活と家族のため愛馬を引き渡した男は、だが、彼女が忘れられず、毎晩、草原で胡弓を弾く。

 それは愛馬も同じで、与えられる上質の飼葉も水も口にしない。

 なびかぬ馬に、若者はいらだつが、ある日、ついに隙をみて、馬は駆けだす。

 手綱を引きちぎり、柵を飛び越え、愛しい主のもとへと駆けて行く。

 草原を、荒野を、オオカミたちの徘徊する死地を駆け抜けて、ただただ、あの胡弓ののもとへ。

 そうして、愛馬と主は再会する。

 だが、すべてのちからを振り絞った馬は、愛した男の腕のなかでついに力尽きる。

 愛馬の遺体に取りすがり嘆く男。

 だが霊媒のちからを持って生まれた男の妹は、この世を去ろうとする愛馬の霊に、ひそかに持ちかける。

 兄の側にいてやってくれないか、と。

 わたしの人生と引き換えにして、と。

 翌朝、逃げた馬を追い、主のもとを訪れた若者は、しかし、足跡しか見出せない。

 なぜなら、あの馬はもうおらず、ただ、主の隣には、寄り添う新妻の姿があるだけだったから。

 

 そんな説話がたくさんある、とアテルイは教えてくれた。

 実際に胡弓をかなでながら。

 たぶんそれは、馬であろうとヒトであろうとその心を縛ることはできないのだ、という教訓と、辺境に暮らす部族が、若者たちに近親婚に関する倫理観的な許しを伝える──そういう寓話なのだと、アシュレは、そのときは理解した。

 

 こんな奇跡を体験するまでは、それはたとえ話なのだと思っていた。

 

 愛を受け入れるアシュレの脳裏を、ヴィトラと出逢ってからの日々が過っていった。

 はっきりいって、とんでもないじゃじゃ馬だった。

 なんど振り落とされ、噛みつかれただろう。

 それがいつから、愛情を示すものに変わったのか、もう憶えていない。

 法王庁と、遺跡群の間にある競馬場チルコでのレース。

 いったい何度、その背に跨がり優勝しただろう。

 あるいは命を賭けた戦場で。

 どれほどの死地を潜り抜けてきただろう。

 人馬一体という境地を、アシュレはヴィトライオンとともに、初めて経験した。

 

 言葉は通じない。

 背に跨がれば、アイコンタクトもできない。


 まったく異なったひとりと一頭が、肉体に伝わる律動と鼓動と息づかいと、匂い、手綱とあぶみから伝わるそれで、相手のすべてを理解しなければならない。

 背を預けるものと、預けられたもの。

 跨がることを許したものと、許されたもの。

 その誠実な信頼こそ、絆と表現するにふさわしい。

 

 降り雨のような愛を、アシュレはヴィトラに与えられた。

 いいや、実際に、汗に混じってその黒目がちな瞳からは、とめどなく涙が、歓喜のそれが滴り落ちてきた。

 言葉は、ない。

 ただ、全身に施される口づけと甘噛みだけで、充分だった。

 

 これは夢だ──アシュレは思う。

 そうでないなら、自分のほうが、夢の側に赴いているのだ。

 でなければ、こんな都合のよいできごとが、あるはずがない。

 

 そして、アシュレの思いを汲み取ったかのように、ヴィトラは頷いた。


 そう、これは、夢。

 わたしが、ずっとずっと心に秘めてきた、夢。

 白い手が、アシュレを促すように導く。

 

 だから、アシュレは、よりいっそう深くヴィトラを受け入れた。

 せめて夢くらい、ヴィトラの想いに応えてやりたかった。

 

 ふたたび、目覚めたとき、日差しはすでに夕暮れの色をしていた。

 やっぱり夢か。

 アシュレは苦笑する。

 かたわらに、とうぜんだが、あの女……ヴィトラは、いない。

 ただ、シオンの裸身だけが、ある。

 

 いけない、とアシュレは身を起こす。

 シオンの戒めをといて、起こしてやる。

 うん、とちいさく身じろぎして、夜魔の姫は瞳を開いた。

 目覚めのキスを求められ、額にすると──サディストめ、という感じで唇を歪められた。

 

 それにしても、とんでもない夢をみたものだ、とアシュレは思う。 

 いくらなんでも、シオンの隣で、とは大胆というか命知らずというか。

 男の生理というものは、なんというか、慎みが足らない。

 聖騎士パラディンであったときのアシュレなら、懺悔は必至だ。

 

 いまは……見た夢を黙っておくくらいの分別は得たつもりだ。

 

 だが、アシュレのそんな甘い感慨は、シオンの指摘で吹っ飛んだ。


「……そなた、その噛み跡、どうしたのだ?」


 えっ、とアシュレは慌てて全身を確認した。

 あった。

 無数に噛み跡が。

 そのすべてに、憶えがある。

 さきほど、あの夢のなかでヴィトラから注がれた愛の証だ。 

 さらにはなぜか、全身に飼い葉がまとわりついている。

 

「えっ」っと今度は声が出た。


「アレッ?! なんだこれ?!」

「そなた……今日はわたしではないぞ! な、なにしろ、今日のわたしは、そなたにすべての自由を奪われ──って、なにを言わせるのだこのバカ者!!」


 シオンに力いっぱいひっぱたかれ、アシュレはさらに混乱した。

 

「それに、なんだ、この薫り──わたしではない、だれか別の女の匂いがするッ!」

「ウワアアアアアアア」

「その動転しよう、そなたっ、まさか、わ、わたしが意識を失っている間に! この悪党!」

「ちがっ、ちがうああああう!!」

「なにが違うのか! じゃあなんだ、この、この甘噛み跡は! まさか、エレ殿か?! え、え、え、遠隔通話のときも、肌を合わせていたし! ふたりして、わたしを出し抜いたのか?!」

「ちゃうちゃう、ちがいますって!」

 

 おもわずおかしな感じにどもってしまって、必死にアシュレは否定する。

 

「それではなにか、やましいところはいっさいない、とそういうのかッ?!」

「いやー、そ、それわ」


 まさか夢だと信じていたものが、現実であったかもしれない、とは言えないアシュレである。

 

「なんだその煮え切らない物言いは」


 語尾にむかってどんどんトーンアップしていく調子で、シオンがまなじりを吊り上げた。

 キリキリキリッ、と巻き上げ機的な擬音がしそうな変化だった。

 

「もうよい! 直接本人たちに確かめる! エレッ! アテルイッ! どこだッ?!」


 完全に火が着いた様子で屋外へカッ飛んでいくシオンは下着姿だ。

 

「ちょっ、まっ、まって、シオン!」


 そして、あわててズボンに足を突込んだアシュレは、もつれてハデに転倒した。

 そして、痛みに耐えながら立ち上がったアシュレは、聞くことになるのだ。

 

「なななななーッ!! ななななななななななーッ?!」


 という、いままで聞いたことのないシオンの悲鳴を。

 

          ※

          

「では、そなた、ヴィトラ、アテルイの肉体を乗っ取って、アシュレとの逢瀬に臨んだ、とそういうわけか!」


 厩舎の代用としてアシュレたちが選んだ陣屋は奥が一団高くなっており、アラム式の絨毯敷になっていた。

 いま、アシュレはそこになぜか正座している。

 隣にはヴィトラが、あの夢に見た姿のまま、素肌素足で、いる。

 本体である馬の姿の彼女は、すやすやと寝息を立てている。

 リラックスしきった様子でアシュレにしなだれかかり、眼前を猛獣めいて行き来するシオンを眺めている。

 ちなみに、アシュレは胃が口から飛び出しそうなくらいのストレスに見舞われて、顔面蒼白だ。

 腰まで届くほどの見事な黒髪を振り乱しふたりを詰問するシオンは、怒りのあまりか下着姿のまま、それも下しか身に着けていないのだが、そんなことは眼中にすらないらしい。

 

「どうなのかッ!! ヴィトライオンッ!!」

「うん、そうだよ。というか、なぜ、シオンは怒る?」


 怒髪天を突く、という表現がぴったりのシオンに対し、ヴィトラは余裕綽々しゃくしゃくという様子で答えた。

 

「怒るに決まっているであろう! そなた、わたしに無断で、アシュレとだなッ?! なぜこんなことをした!」

「アシュレが、好きだから」


 間髪入れず戻ってきた返答に、開いた口が塞がらない、という表情をシオンはした。

 

「好きだから、といって、だな」

「だって、わたし、明日死ぬかもしれないもの。アテルイだってそうだよ? シオンだってそうでしょう?」


 シオンが怒る意味のほうがわけがわからないよ、とヴィトラは返す。

 

「だから、それとこれとが、どうして直結するのか! わたしが訊いているのは心の話ではない! どうして、こうなったのか! 過程だ過程!」


 腕組みをして、シオンは怒鳴った。

 ヴィトラは、すこし思案するように小首を傾げ、それから言った。


「アテルイはおかしくなるくらい、アシュレが好きなんだよ? イケない薬をがぶ飲みするくらい、好きで好きで堪らなかったんだよ? 今日はわたしの背に乗っていたからわかるけど、アシュレのためなら、自分が死んでしまっても構わない、ってほんとに想ってた。だけど、アシュレのそばにはシオンやアスカや、イリスみたいなすごいヒトたちが一杯いるから、側に行けない、って」

「それはアテルイの事情だろう……いや、すまん、初めて知ったぞ、そんなこと」


 オマエ、知っていたのか? ギヌロ、とシオンは紫色の瞳に地獄の業火のような光をたたえて、アシュレを横目で睨んだ。

 し、しりません、知りませんでしたッ、とアシュレは裏返りまくった声で解答した。

 ふむん、とシオンは疑り深げな鼻息をつく。

 

「それで、ヴィトラ、おまえはなぜ、こんなことをした? いや、その肉体はアテルイのものだろう。どうして、こんなことが可能になったんだ?」

「アテルイが貸してくれたんだよ」

「だから、どうやって?」

「さっきからその話をしているの。シオン、すこし黙っていて!」


 真剣な怒りを、はじめてヴィトラが見せた。

 むう、とさすがのシオンも唸る。

 聞こうではないか、と仁王立ちになった。

 あの、せめて、服を着てください、ふたりとも。

 アシュレは思うが、もちろん、口にはできない。

 命が惜しかった。

 

「アテルイは、ほんとに壊れちゃうくらいアシュレが好きになってしまったの。でも、シオンがいる、アスカがいる、イリスがいる。そんなすごいヒトたちと比べられたら、ぜんぜん敵わないって泣いてたの。だから、ヴィトラが勇気を貸してあげたんだよ。あのね、アシュレ、さっきわたしは泣いていたでしょう? おなじようにわたしのなかでアテルイも泣いてたんだよ──うれしくて」


 目を見て言われた。

 受け止めなければいけない、とアシュレは思うが、正直、どう答えてあげればいいのかが、わからない。

 

「それで、アテルイはそなたに肉体を貸したのだな。その話、たしかに聞いたな。霊媒の《ちから》を持つ妹が、兄に嫁ぐときの話だ。そうか、アテルイの類い稀なる遠隔通話・情報分析官の才能は、そこが原点だったか」

「うん。それでも、すごくすごく迷ってたんだよ。いけないことだ、だまし討ちだ、って。でもね、わたしが言ったの。アシュレも、アテルイも、わたしも、明日死んじゃうかもしれないんだよって。いいの、って。その想いを告げずに、なかったことにしてしまって、ほんとうにいいの? って」

「いや、しかしだな、ヴィトラ。やってよいことと悪いことが、世のなかにはあるのだぞ。たとえば……その人間の意志と決断は、その人間のものだ。それを誰かに委任して、代行してもらっては──それは愛を冒涜しているのとおなじだぞ」

「シオン、それは、シオンがとっても美しくて強くて、そして、不死身だから言えることだよ」


 ヴィトラの説明に毒気を抜かれたのか、徐々に落ち着いた言葉づかいになり、諭しはじめたシオンを、今度はヴィトラが一喝した。

 

「な、なに?」

「あなたは、ほんとうに美しい。気高くて、強くて、それなのに可愛らしくて。なにより不死身。だけど、わたしは、わたしたちはそうじゃないんだよ! わたしや、アテルイや、アシュレは! 死んじゃうかも、死んじゃうかもしれないんだよ?! 石ころひとつでも、簡単に死ぬの! 馬も人間も、ううん、それだけじゃない、ほとんどの生き物は、死ぬんだよ! そして、死んでしまったらもう二度と生き返ることはないんだよ! わかるの、あなたに? 死んでも甦ることのできる、いつまでも望んだ姿のまま生きることのできるあなたたち夜魔に、ほんとにわかるの?」


 わたしや、アテルイの必死さが。

 圧倒的強者である夜魔の姫を眼前にして、ヴィトラは一歩も引かなかった。

 シオンはその真剣さ、真摯さに打たれたように沈黙して、ヴィトラの言葉を待つ。

 

「だから、わたしはアテルイに協力したんだよ。だって、ずっと、想いを伝えられずに、死んでしまうかもしれない明日に立ち向かうなんて──つらすぎるでしょ? そんなのいいわけない。シオンにだってわかるはずだよ?! ほんとは、わかっているでしょう?!」


 詰め寄っていたはずが詰め寄られ、シオンは大きく息を吸い込んだ。

 それから聞いた。

 

「そなたは──ヴィトラは、どれくらいアシュレが好きなんだ」

「生きるときも死ぬときも、いっしょ」


 馬とヒト、種族間の感覚の違いのせいだろう。

 ヴィトライオンの言葉づかいは、もしかしたら正確ではなかったかもしれない。

 だが、語彙力に装飾されたセリフにはありえない《ちから》が、そこにはこもっていた。

 

 はー、とシオンがながいながいため息をついた。

 わかった、とひとりごちた。

 わたしの負けだ。

 

「わかった。わたしが間違っていた。それほどアシュレを想い、尽くしてきたそなたの権利を、わたしは不当に奪っていたのだな。それもこともあろうに、独占欲によって」

「ううん。シオンはわかってくれてたよ。ただ、ちょっと驚いただけ。突然だったから、アシュレが好きすぎてビックリしたんだよね。……わたしだって、他の馬にアシュレを奪われたら……すごく、噛む」


 健康そのものの歯茎を剥き出して笑い、ヴィトラが言った。

 

 はっはっはっ、とその様子に毒気を抜かれたシオンが破顔一笑する。

 すごく噛む、かそれはいいな、と。

 

「そうだ。すまなかった。ビックリしてすごく噛んでしまった」

「そういうときはアレがいいよ、はみ(※注・手綱をつなぐ金具のこと)」


 ヴィトラは寝ている己自身を指さす。

 その側に、取り外された金具がかかっていた。

 

「アシュレはすっごくじょうずだから、シオンもしてもらうと良いんだよ」

「……そ、そうか」


 シオンはそれがどういう道具か見て確認し、真っ赤になった。

 いっぽうで、アシュレは目を剥いて仰天していた。

 たしかに馬具を取りつけるのは、馬に対する調教の第一歩なのだが……。

 

「お、おほん。とりあえず、あいわかった。ヴィトラ、そなたの想いはこのシオンザフィルたしかに聞き届けた」

「じゃあ、またアシュレを愛してもいい?」

「げへんげへん……あー、そうだなあ、んー、ダメとは言えん」

「じゃあ、こんどは、ちゃんとシオンにきいてからにするね? それとも目の前のほうがよかった? 今日みたいに?」

「……わかった。そなた、好きなようにしろ。もはや、とめだては無粋だ。思いの丈をぶつけるがよい。わたしが許す。しかたがない」


 シオンの度量に、ヴィトラは笑みを広げた。

 もちろんシオンだって、思うところはあったはずだ。

 けれども、アシュレを乗せ死地を駆け抜けてきたヴィトラの願いを無下にすることなど、できるはずが、してよいはずがなかった。

 己のそれとの、心の相似形に気がついてしまったからだ。

 

「こら、そなた、その輝かんばかりの笑顔をやめんか! ものすごく噛みつきたくなるぞ。せめて、こっそりやってくれ」

「やっぱり、シオンがスキ。大スキ」

「そなたに好かれてもな……これからもアシュレを頼むぞ。ともにな」

「うん」

「よし、では……かわってくれ、アテルイに。こんどはそっちの女に問い質したいことがあるのだ」


 シオンの言葉に、しっかり納得したのだろう。

 ヴィトラが頷くのと、その肉体から力が抜け、完全にアシュレにカラダを預けてくるのは、ほとんど同時だった。


 


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