■第七一夜:キミハダレ
黒髪だった。
太い線質のそれは普段はまとめられているのだろう。
緩やかなウェーブを描いて、女の胸乳を隠していた。
裸身だった。
下腹のうえで組まれた指が、羞恥心にギリギリのところで耐えていること示すように、血の気を失っている。
美しかった。
降りかかる午後の日差しを真っ白な肌が照り返し、まるで彼女を妖精のように見せていた。
そして──ヒトではなかった。
人類ではありえない長い耳が、流れる頭髪の隙間から伸びている。
ぴこり、ぴこりっ、と彼女の感情を示すように、やや下がりぎみで、しかし、逸る心を押しとどめられぬ様子で。
震えながら、おずおずと部屋に上がり込む。
靴だけは──見覚えのあるアラム式のもの。
手の込んだ刺繍のなされたそれに、アシュレは憶えがあった。
アテルイのものだ。
女はベッドの側までくると、そっと、アシュレの元へカラダを預けてきた。
それで、ようやく、その容貌がアテルイにそっくりなのだと気がついた。
だが、身にまとうオーラは、まったく完全に別のものだ。
敵意は、感じられない。
化粧を落としているせいだろうか……目元が優しい。
むしろ……あきらかに慕われているのがわかる。
長い睫毛のしたで、うるみきった黒い瞳が、ゆっくりと瞬きした。
瞬間、アシュレの背に、電流にも似て理解の衝撃が走った。
ボクは、このコを知っている──アシュレは思う。
「おまえ……まさか……ヴィトラ……なのか?」
「アシュレ、ダウ」
たどたどしい、いま初めて声を発するかのような様子で、ヴィトラと呼ばれた女は、アシュレの名を呼んだ。
それから、うれしげに身を寄せると、抱擁し、口づけの雨を降らせてきたのだ。
※
「おまえ……アテルイ……酔っぱらうとめんどくさい女だったんだな」
ことの経緯を説明するにあたり、その始まりをわかりやすく説明すると、このエレの発言に集約される。
酔っていた。
エレから買い付けた霊薬、というか、ラブポーションをがぶ飲みして。
アテルイは。
「だって、だって、そんな、告白なんて夜這いなんて──できないっ。勇気がないっ!!」
「いや、だからといってだなあ。だいたいおまえ、いま飲んだ分量は、適正使用量の三倍はいっているぞ。それは人間どもが扱うほとんど偽薬効果程度しかないなんちゃって媚薬ではなくて、ほんとに劇的に効くやつだからな。敵国の高官を陥れたり、宮廷内陰謀劇を加速させて国力を削ぐときに使う劇薬だぞ? あー、あおるんじゃない! 適正量を守らないと、大変なことになるんだ!」
「だって、だって──うわーん、ヴィトラァアアアアア!!」
酒どころか土蜘蛛謹製のラブポーションで酔っぱらったアテルイは逃避先を人間どころか、アシュレの愛馬:ヴィトライオンに求めた。
そして、普段であればアシュレ以外に触れられるのを極端に嫌がるヴィトラは、この酔っ払いをしっかりと受け止めていたのだ。
シオンという例外中の例外を除けば、これはありえないことだ。
実際、ラブポーションの瓶を奪ってアテルイを止めようとエレが近づけば、ヴィトラは激しく威嚇した。
「いや、まて、ヴィトラ、わたしはだな。そのままではマズイ、と言っているんだ! 頭がおかしくなるぞ!」
「わたしなんてわたしなんてわたしなんてーッ!! どーせ脇役なんだ、付け合わせなんだ、パセリなんだ! 告白しても、あいまいに躱されちゃう運命なんだーッ!! お姉さんでいてください、とかなんとかかんとか、弟みたいな笑顔でー。きまってるろー!!」
必死にヴィトラの説得に当たるエレの眼前で、すでに呂律の怪しいアテルイはさらにぐびりぐびり、と媚薬をキメた。
瓶はすでに垂直に近い角度である。
使用する薬草や昆虫の高濃度成分を極限まで抽出するため、このクスリに使用される溶剤としてのアルコール度数はじつに七〇度を超える。
これは人類世界の常識では、考えられないほどの高濃度である。
それをラッパ飲みにすれば、たちまちのうちにヘベレケになるのは当然だった。
これまでアスカの秘書官として生きてきたアテルイである。
気心知れた人間以外との、人前での飲酒を禁ずるアラムの教えもある。
どれほど精神的につらいことがあっても、自制を己に課し続けてきた。
それは、こうあらねばならない、という理想のカタチを自らに押し付けてきた、とも言える。
それのタガが今日、はじけた。
これまでの人生二十六年分の爆発である。
第一皇子の懐刀、鋼鉄の女、氷の微笑、などとさまざまなあだ名で恐れられ、あるいは揶揄されてきた彼女が、胸のウチに押し込めてきた、純真な乙女の部分。
それを封じていた意識のフタを、先ほどまでのエレによる詰問とラブポーションの薬理作用が爆砕した。
「ヒドラどころか……レッドドラゴンだ」
つう、とアゴに滴った汗を拭い、エレはひとりごちた。
薮をつついたら、出てきたのはヒドラではなく、恋に狂った赤竜だった、というわけである。
自傷行為にも似て自らへのダメ出しをし続けたかと思えば、とつぜん、アシュレへの思いを切々と訴え始める。
だって、好きなの、どうしたらいいの、と。
なにかの演劇だと考えると、これはたしかにかなり面白い構成ではあるのだが、残念ながら眼前で進行中の恋愛劇(喜劇?)は、フィクションではない。
厳然たるリアル、現実である。
唯一の慰めは、どういうわけか、しなだれかかりわんわんと泣くアテルイを、想いを共有する友人か姉妹か、という様子でヴィトラがしっかりと受け止めてくれていることだ。
そのうち、さすがに酔いが回りすぎたのか、アテルイの手から、するり、と薬瓶が抜け落ちた。
飼い葉の束にそれは、さくり、と突き立った。
ふー、とエレは息をついた。
いくら使用に関しては自己責任で、とはいえ売りつけた眼前でここまでなられると、さすがの土蜘蛛でも罪悪感がわく。
だが、できあがってしまったアテルイの奇行はここからだった。
「ヴィトラだけだよ……わたしのこと、わかってくれるのわ」
ヴィトライオンの馬体に額を頬を押しつけ、なんとアテルイは使ったのだ。
異能:《スピーク・ウィズ・アニマル》を。
つまり、アシュレダウを訪った予期せぬ来訪者──ヒトのカタチを得たヴィトライオンは、こうして完成したのである。
その理屈を、もうすこしつまびらかにすれば、こうだ。
アテルイはオズマドラ辺境、人外魔境であるハダリの野と辺を接する草原地帯で生まれた遊牧民の血筋である。
土蜘蛛、オウガ、豚鬼……それら魔の十一氏族を始めとする人外たちが跳梁跋扈するハダリの野周辺域は、歴史上幾度となくそれら脅威からの侵攻、あるいは不期遭遇戦に見舞われてきた地域である。
そして、それと同じくらいの確立で予期せぬ血の混淆も起きた地方だったのである。
そのせいか、生まれついて特殊な才能を持つものが、少なからずいた。
覚醒遺伝的に、魔性を発現する子である。
アテルイはそのひとりだった。
その耳で死者の声をとらえることができたのだ。
両親がその才能に気がついたのは、アテルイが四歳になった年だった。
前々から、どうもおかしなことを言う娘だと、親戚一同では話題になっていた彼女だが、それが喃語(※注 ここでは幼子が話す要領を得ない言葉程度の意)の間はまだよかった。
しっかりとした言葉を得、話すようになると、どうもこれは様子がちがう、と両親は確信した。
彼女の語りは、過去のそれを正確に言い当てていたのだ。
そこで、彼ら部族の長に持ちかけ、長は古老に相談した。
古老はアテルイを膝元に呼び寄せると、いくつかの質問をし、それから、深く頷いたという。
「この娘は死者と語らう者だ」と。
すぐに古老は呪い師に使いを出した。
アテルイを預けるためだ。
死者と語らう者は、部族内に留めることはできない。
この地方でも辺境の山岳地帯に住み暮らす呪い師に預け、正しい《ちから》の使い方を学ばせる。
さもなければ、一族にとんでもない災厄が襲いかかる。
それが辺境に暮らす遊牧民たちのしきたりだった。
これは要するに彼らが偶発的な《スピンドル能力者》の発生に対し、どのような対応をしてきたか、の言い換えである。
戦闘能力や癒しの技など、そういう類いのものであれば、それは誉れとして扱われる。
だが、未来予知や遠隔通話、千里眼……そして、そのなかでも特に、過去を調べることのできるタイプの異能、たとえば、死んだ人間の言葉を聞き取るようなそれに対しては、人々は慎重な対応をとらざるを得なかったのだ。
これはすこし想像力を働かせれば、納得できることだろう。
ヒトの死が、尊厳ある、満足のいくものであることのほうが珍しかった時代のことだ。
怨みを呑んで死んでいった者たちが、どのような言葉を囁くか。
いいや、その死が偶発的なものであるのならば、まだよい。
図られ、計略に嵌められて死んだ者たちが、依代を得て、口を開いたならどうなるか。
死人に口無し、などという言葉が残るのは、それがいかに後ろ暗い事実を、人間が対象の死によって暗闇へと葬ってきたのか、の証左である。
うっかりすれば、一族同士内での殺し合い、部族間闘争、用い方を誤れば一国を傾かせかねぬ異能であった。
それゆえ、アテルイは幼少期を、見知らぬ占い師のもとで過ごしたのだ。
親元から引き離され、アテルイは《スピンドル能力者》としての基礎修養と教育を受けた。
アテルイを引き取った占い師は冷酷な人間ではなかったが、親や友人たちの替わりを務める気はさらさらないようだった。
生活に必要な労働と占い師としての勉学、そして、《スピンドル》に対する理解と熟練。
いちばん最初に占い師が教え込んだのは、死者の言葉を聞かないで済む方法だった。
実際に、修業中、アテルイはなんども、肉体を奪いに来た死者たちに乗っ取られかけた。
死者をその身に下ろす依代たちの職能は、ときにこのような死者の欲望との戦いとなる。
けれども、アテルイは時折、さびしさに負けてその禁を破った。
それほどに、岩窟での修業の日々は、孤独だった。
死者の声に導かれるまま、荒野を彷徨ったことがある。
そして、そこで偉大な馬の王の言葉を聞いたのだ。
それは遊牧民たちの伝説だった。
数百頭の牝馬の群れを率いる──漆黒の王。
草原の主。
このまま落ちてくるのではないか、と思えるほど大きな月夜の晩、アテルイはその亡霊に出会い、言葉を交わしたのだ。
「そこもとはいずれ、境界を破壊する王に戴くようになる──」
たしかに漆黒の王はそう言った。
そして、目覚めると、アテルイは巨大な石柱群の真ん中で倒れていた。
草原オオカミなどの肉食動物が徘徊する場所だ。
無事にひと晩を過ごせたことは奇跡に近い。
翌朝、アテルイは捜しに来た占い師に、すべてを話した。
占い師は次の日、どこからか馬を一頭、連れてきて、彼女に与えた。
孤独を紛らわすなら、馬と言葉を交わせ、と。
そして、あの運命の日──アテルイはアスカと出逢ったのだ。
だから、アテルイにとって、馬たちは唯一の慰めであり友人だった。
ヴィトラが触れることを許したのは、アテルイのそういう本質を見抜いたからであろうし、アテルイがアシュレへの想いを加速させたのは、ヴィトライオンへの献身的な世話を見たからにほかならない。
馬たちからの信頼は一朝一夕に得られるものではない。
気位の高い彼ら彼女らから全幅のそれを受ける騎手というのは、とてつもなく少ないのだ。
ときにその間に結ばれる感情は、恋人や夫婦間のそれを超えることすら、ある。
ヴィトラに愛を注ぐアシュレの姿は、だから、アテルイに特別な心の動きをもたらした。
だが、今日、アテルイがこんなに取り乱したのは、それだけが原因ではなかったのだ。
あの死線をかい潜る戦場で、ヴィトライオンめがけて投げつけられた光槍を躱すさい、アテルイは《スピーク・ウィズ・アニマル》の異能を行使した。
そして、ヴィトラの精神と感応した。
ありがとう、という感謝。
だが、それは自分を救ってもらったことへのものではなかった。
アシュレを、なによりも愛した大切な主人を助けてくれたことへの、圧倒的な感謝だったのだ。
可憐な乙女の姿が、ヴィジョンとなってアテルイの心を撃った。
まごころ、というものはときにあらゆる障壁を素通しにして、ヒトの深部を撃ち抜く。
理屈や理論でどんなに心を鎧っても、ムダだ。
それは光の矢となって、届いてしまう。
わたしは、なんて卑小なんだ、とアテルイは戦闘を終え、ヴィトライオンの治療を行うアシュレの背中を見ながら、焦燥に駆られたのだ。
まったく、一点の曇りもなく、ヴィトラはアシュレを、アシュレだけを想っていた。
そこには見返られたいとか、愛されたいとかいう──そういう下心がない。
ただただ、そのヒトに尽くしたい、という想いしかない。
なかった。
そのことに打ちのめされた。
たぶん、アシュレにはそれを本能的に見抜く《ちから》があるのだ。
だから、ヴィトラは尽くされる。
真っ先に見返ってもらえる。
きっと、シオンもそうだろう。
アスカなどいうまでもない。
話にしかしらないが、イリスベルダという方も相違ないであろう。
そんな方々から、アシュレを奪ってしまおう、などとちらとでも思った自分が恥ずかしくてしょうがない。
こんな邪心の持ち主は、振られるに決まっているではないか。
そう思うと、ヤケにならずにはおれなかった。
それなのに、孤独に負けて、ヴィトラに話しかけてしまう。
ヴィトラは、アテルイを受け入れると、だが、とんでもないことを言い始めた。
あきらめるの? と問われた。
だって、わたしなんかじゃ、つりあわない、と答えた。
どうして? と訊かれた。
だって、あの方のまわりには、素晴らしい、わたしなんかじゃ絶対かなわない方々がいるもの、と泣いた。
それを決めるのは、あなたじゃないよ、と諭された。
負けるに決まっている、勝負になんかならない、と喚いた。
戦いもせずに、逃げるなら、その気持ちはホントじゃないよ、と叱られた。
だって、だって──わたしはヴィトラみたいに純粋にはなれないよ! と叫んだ。
でも……あなたはにんげんでしょ? わたしは、どんなに想っても、アシュレとはひとつになれないんだよ? そう告白された。
「……好きなの?」
そう訊いたアテルイの瞳を、ヴィトラの黒いそれが覗き込んで答えた。
ずっと、出逢ったときから……死ぬなら、あのヒトを背に乗せたまま逝きたいの、と。
それから、と言い募られた。
明日、死ぬかもしれないんだよ。
今日だって、そうだったように。
だれかからの評価を理由にして──あなたの生きた証を、伝えなくいいの?
その想いを消してしまって、なかったことにしてしまって、いいの?
それで、あなたは生きていけるの?
生きているの?
いまを?
心臓が跳ね上がるように打つのをアテルイは感じた。
だって、と口をつきかけたいいわけが、勢いを失って地面に落ちる。
「勇気が……ほしい」
おもわず、深層に眠っていた弱音が出た。
勇気があれば──いける? 走り出せる?
数秒の沈黙の後、ヴィトラが訊いた。
「走り……だせる?」
アシュレの元へ、駆けていける?
「いける……かな」
行けるよ、アテルイは走れるよ。
「でも……どこにあるんだろう。わたしの勇気は」
わたしが、貸してあげる。
「勇気を? でも、でも、どうやって?」
じゃあ、取引だよ、アテルイ。
ヴィトライオンの瞳が決意を帯びていた。
取引、という言葉にアテルイは思わず唾を飲み込む。
「取引? どんな?」
わたしの勇気をあなたに貸してあげる。
そのかわり、わたしの願いをひとつだけ叶えて。
「どんな──ねがいなのかな?」
おずおずと訊いたアテルイの目には、ヴィトラが微笑んでいるようにしか見えなかった。
そして、ヴィトライオンは告げたのだ。
彼女の願い──いや、祈りを。
あなたと同じだよ、アテルイ、と。
尽くしたいの、あのひとに。
ぜんぶを、ささげたいの、と。
つまり、これがアシュレを訪れた奇跡の過程、その全容だった。




