■第六五夜:黄昏時にたたずむヒト
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「なんだか向こうの建屋は、どったんばったん大騒ぎ、だな」
ガラスなどはめられていない陣屋の窓、その鎧戸の隙間から見える隣の棟を見やりながら、シオンは感想した。
ヴィトライオンとアテルイの治療を最優先する、とアシュレは篭ったわけだが、どうしてあのような騒がしい展開になるのか、シオンにはまったく理解できない。
加えて、あのアテルイという娘の動向がどうも妙なのだ。
おまけにアシュレときたら、類いまれなる女難の相持ちなのだ。
まさか、ここにきて、それが発動しているのではあるまいな、と思うと気が気ではないシオンである。
「……とりあえず、こちらは静かになったが」
ふー、と深いため息をつくシオンの足下に、真っ白な生きものが転がっていた。
淡緑色に染め上げられたやわらかいなめし革の鎧に、手のかけられたチェック地のスカート。
襟からうかがえるブラウスの上に、人間離れした美貌が乗っていた。
緑色の瞳は、人類のものではない。
墨を流したような黒髪は、シオンのそれとよく似ていた。
そう、彼女は夜魔の血統だったのである。
ただし、純血ではない娘、ではあったが。
ヒトと夜魔が、子を為すことは不可能ではない──シオンはその言葉を、父でありガイゼルロン大公であるスカルベリの口から直接、聞いた。
初めてそれを耳にした日、それは福音のようにシオンに響いた。
だが、長い年月、同胞との血で血を洗うような戦いに身を投じ“叛逆のいばら姫”として、夜魔からも人類からもつけ狙われる日々を過ごすうちに、それは決して救いではないように、シオンには感じられるようになった。
どうしても《夢》を求めてしまう性から、ヒトとしては生きられず。
かといって純血の夜魔ほどの能力も、永遠生を持つわけでもない。
しかし、人間にはありえない高速治癒体質といくつかの才能、そして、ヒトよりは長い寿命。
そして、両者の特性を引き継ぐ際立った美貌が、隠れ住むことを難しくする。
ヒトと夜魔のハーフ、すなわちダンピールとは、まさに「黄昏時にたたずむヒト」だというのが、シオンの感想だ。
いま、拘束され、シオンの足下に転がっている彼女は、まさに、その体現だった。
「そなた……ずいぶん抵抗したな。喉が渇いていないか?」
「て、敵からの施しなど……受けないッ! わたしは、誇り高い夜魔の騎士の、血を引いているんだ!」
「それはどうも。同胞を褒めてもらって、恐悦だ。だが、そなた、やはり、勘違いがあるぞ。そなたを助けたのは、わたしだ」
「なにを! 我が祖国を脅かす外敵、その先兵だろうが!」
「そのあたりの誤解を解きたいのだが。というか、そなた、わたしが助けに入らなければ、たいへんなことになっていたのだぞ。そなたの言うところの誇り高き夜魔の騎士さまたちの手によって」
じっさい、なりかけていたではないか。
シオンは特殊な拘束具で窮屈な姿勢を強いられている少女を諭すように言った。
「えーと、なんであるか、名前。まだ、訊いてなかったな」
「ヒトにモノを尋ねるときは、まず、自分から名乗れと教わらなかったのか、下賎な」
「そなたのいうことはもっともだが、時と場合を選ばんと、死よりもヒドイ運命を味わうことになるぞ。特にそなたのような美貌の持ち主は」
そして、なんだ、わたしのことを知らないのか。
ふん、と呆れたようにため息をついて、シオンは薄く笑った。
発達した犬歯が桜色の唇の隙間から、濡れて光るのが見えた。
「だが、名乗ってやろう。そなたが信じる《夢》──夜魔の血統の高潔さを穢さぬために」
そっと、スカートのなかで脚を組み換え、シオンが言った。
妹に言い聞かせるように、しずかに。
「シオン。シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ。ガイゼルロンに座す夜魔の大公:スカルベリの娘だ。いちおう、な」
その名、その言葉が起こした効果は絶大だった。
ほとんど身動きできないなかで、懸命に身をよじり、驚愕に見開かれた瞳がシオンを見た。
「“叛逆のいばら姫”」
「ふたつ名を憶えていただいており、恐縮だ」
「じゃあ、それが……その剣が……ローズ・アブソリュート」
「いかにも。なんだ、さすがにユガディールから、その名くらいは聞いたことがあるのか」
「くそう、オマエだッ、オマエたちが来てから、この國はおかしくなってしまったんだッ!!」
怒りのこもったまなざしとともに、名指しで非難され、シオンはまたため息をついた。
「だから、そこに誤解がある、と言っている。だいたい、そなた、わたしが間に入る前、同じことで口論していたではないか連中──白魔騎士団の面々と」
「そうだッ! いつから、この国は孤立主義者どもと手を組むようになったのか! あの汚らわしいインクルード・ビーストどもと! 奴らは仇敵だぞ?! 駆逐すべき、邪悪な、敵だ! それなのに! だから、その理由をわたしは聞きに来たのだ!」
「そなた、《スピンドル能力者》なのだな。そしてまた、厄介なことに気がついたものだ。おまけに、猪武者のような気質。バカ正直に正面から、それを問い質しに来たのか、この軍事拠点まで」
シオンは、露骨に娘をたしなめた。
だが、それは皮肉としてはあまりよいできとは言えなかった。
まっすぐ相手の懐に飛び込んでしまう気質こそ、シオンの専売特許だったからだ。
「あたりまえだ! わたしたちは、ずっとインクルード・ビーストと孤立主義者たちに脅かされてきた。その脅威から、夜魔の騎士さまたちが護ってくださらなかったら、どうなっていたか。それなのに、なぜ、いまになって──説明しろ!」
案の定、娘はさきほどよりもいや増して、声を大に叫んだ。
喉が嗄れるのもおかまいなし、という感じで。
「そなた、すこし落ち着いてはどうか。わたしには子供をいつまでも拘束しておくような趣味はない。話し合いたいのだが。さもないと、その恥ずかしい姿を殿方に見られてしまうぞ。そのう……あまり明言したくはないが、いまそなたを拘束している道具というのはだなあ……」
なにかの気配を感じ取ったかのように、シオンが言葉を切り、入口のドアを注視した。
数秒の沈黙。
それから、ごしゃり、と音がして入室してきたのは、アシュレだった。
よろりら、となぜか、すごく傾いた感じで。
※
「えっとお、これわ、どういうことなんだろう──このコが、保護したっていう彼女?」
「あー、まあ、そうだ。保護対象、のはずなんだが……そのう、だなあ。いろいろ手を尽くしてみたのだが、強情な娘でな。話を聞こうともしない」
「オマエたちと話すことなどないっ。いますぐ、戒めを解けッ!」
「と、おっしゃってますが」
「話し合いに臨む、と約束するまでは、ダメだ。こやつ《スピンドル能力者》だぞ。おまけに……ダンピール……夜魔とヒトの間に生まれた娘だ」
「ともかく、床は冷たいよ。ベッドに……移すね?」
最後の問いかけは、娘に対してだった。
アシュレのそれは敵意などまったくこもっていないものだったが、娘の恐怖をあおったようだ。
びくりっ、と身を震わせると、めちゃくちゃに暴れはじめた。
だが、どれだけ身をよじっても、拘束具はびくともしない。
「それは、外れないよ。シオンでさえ、自力では相当苦労するのに」
「アシュレ」
小声でシオンが注意を促した。
おっと、とアシュレは天を仰ぐ。
これはお話できないやつでしたね、と。
だが、アシュレの名は少女に聞こえてしまったようだ。
「アシュレッ?! アシュレダウかッ!! 思い出したぞ、オマエの顔も! よくも、よくも、わたしたちの信頼を裏切ったな! オマエの、オマエたちのせいで、この國はおかしくなったんだッ!!」
どこかで、以前、顔を見られていたのか。
たしかにないことではない。
白魔騎士たちや、ユガディールとの戦技訓練は基本的に公開されていて誰でも見物することができたし、シオンを巡っての決闘はコロシアムでの公正明大なものだった。
とにかく、怒りをぶつけるべき標的を得て、ますます勢いづいた少女は叫ぶ。
だが、アシュレはそれをあえて無視した。
「ともかく、抵抗は無駄だよ。ごめん、ちょっと持ち上げるね?」
「さ、さわるなあああああ!!! わたしに、こんなことして、ただですむと、おもっているのかっ!」
抵抗できないように折り曲げられた肉体をアシュレに抱えられ、娘はひどく狼狽を見せた。
ひとつは、いまから我が身に降りかかる出来事を想像して。
もうひとつは、傷の治療のため上着を引っかけただけのアシュレの剥き出しの胸に触れてしまっていたことに対してだった。
「おちついて。ほんとうに話が聞きたいだけなんだ。ボクたちは捕虜をとる気はないし、キミを捕虜にした憶えもない。ただ、誤解を解かぬまま、キミを解放することもできないんだ。これは──戦争だから」
あくまで抵抗の意志を見せる娘をベッドに、貴重な芸術品を扱うようにそっと降ろし、アシュレは戒めを解いてやりながら、言い聞かせるように伝えた。
「アシュレ、まだ、拘束は──」
「いいんだ、シオン。これでいい」
と、アシュレが言い終わらぬうちに戒めを解かれた少女の鉄拳が、アシュレに向かって振るわれた。
それを軽々と受け止めたアシュレの脇腹を今度は蹴りが薙ぐ。
パシイッ、と振るわれた鞭が皮を裂くような音がして、少女の放った蹴りがアシュレの肉体に炸裂した。
だが、アシュレはびくともしない。
驚きに目を見張ったのは、少女のほうだった。
受け止められていた。
会心の蹴りが。
完全に《スピンドル》によって。
いつか、カテル島で土蜘蛛の王:イズマが見せた《スピンドル》による防御法、その応用をアシュレは見せたのである。
「く、くそっ、なんだ、これっ、は、離れないっ」
そして、アシュレの《スピンドル》は防御のためにだけ用いられたのではなかった。
唸りを上げる《スピンドル》はまるで流れる水のように柔軟に少女の足首を捕らえて、放さなかった。
「聞いてくれ。ボクたちは、キミに危害を加えたくない。ただ、話をしたいんだ。わかってくれ」
片手片足をベッドの上で封じられた少女には、アシュレの言葉がまるで物理的強制力を持つように感じられた。
ジンッ、と頭の奥がしびれたように、言葉に従いたくなってしまう。
これ、変だ。
恐慌に駆られて、少女は最後の手段に出た。
近接格闘距離において、もっとも恐れなければならない夜魔の攻撃。
すなわち強力な犬歯を用いた噛みつき、である。
真性の夜魔には及ばずとも鏃のように鋭い牙が、身を寄せるアシュレの肩口に突き立てられた。
「アシュレッ!」
と、叫びとともに飛び出しかけたシオンを、アシュレが空いた手で制し、そのまま、少女を抱きしめた。
たぶん、アシュレはこの攻撃を躱すことが、ほんとうはできたハズだ。
なのに、そうしなかった。
激しい痛みを代償としてでも、伝えなければならないことがある、と覚悟していたからだ。
びゅう、と傷口からしぶく。
少女の牙はアシュレの肉に深く突き立ち、傷を負わせた。
もしかしたら、そのまま肩の肉を一部、食いちぎることが彼女にはできたのかもしれない。
だが、そうはならなかった。
口腔に溢れる血の、あまりの濃さ、甘さ、そして託された《夢》のサイズに、はじめて血を口にした少女──スノウメルテは圧倒されたのだ。
頭頂に向かって、比喩ではなく電流が走った。
すべての感覚が一〇〇倍に研ぎ澄まされたかのように、感じた。
そう、アシュレの血はすでに人類のそれとは異なるものへと変化しつつあったのだ。
それはかつて廃王国:イグナーシュでのあの暗い夜、《ねがい》を注がれたことに始まり、夜魔の姫:シオンと心臓を共有するという奇妙な生を生き、アスカと契り、ユガディールから《夢》を託された──そういう生き方が醸成した、ひとつの作品としての結実が、アシュレの身に起こりつつあった、ということだ。
それと知らずにスノウメルテは、その血を含んでしまった。
いけない、と思うのに、ひとくち、またひとくち、と飲んでしまう。
「聞いてくれ、キミ。ボクたちは、キミを害さない。だが、いま、キミの國を見えない場所から操る《ちから》とは敵対する。その理由を説明させてくれ。それから、釈明を。そのうえでまだ、キミがボクらと敵対する、というのなら──容赦しない」
また、ジィン、と頭がしびれるのをスノウは感じていた。
どうして、このヒトの声は、こんなに、きもちいいの、へんだよ──。
そう理性が告げる警告も、血の誘惑には抗えなかった。




