■第六四夜:騎士と愛馬
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「ともかく、まず、鎧を外そう。まってろ、ヴィトラ、すこしだけ我慢していてくれ」
言いながらアシュレは手慣れた様子で鞍を降ろし、手綱とはみを口から抜き取る。愛馬の顔を覆う面甲を外せば、ヴィトライオンは主人との対面に、汗に濡れた鼻先をこすりつけてくる。
制圧した孤立主義者たちのアジト、塩鉱山跡地に陣取ったアシュレたちは、まず治療を優先させた。
特にダメージを負っていたのはアシュレとその乗馬:ヴィトライオン、そして、同乗していたアテルイである。
乗騎として馬を使う習慣が孤立主義者たちにはあまりなかったのだろう。
インクルード・ビーストの匂いを嗅いで冷静でいられる騎乗用動物は、まずいない。
そして、邪悪な獣たちは、実質的なこの拠点の支配者だったのだ。
だから、厩舎と呼べるものはない。
アシュレたちは建屋のひとつをヴィトライオンのためのものとして丸々使うことにした。
飼葉、新鮮な水、燃料としての薪──これらを、シオンの異能であり、収納空間を作り出し、いつでも物品を出し入れできる《シャドウ・クローク》を使って持ちこむ。
シオンは鍋や飼葉や食料品を、本来、衣装や装備を収めておくためのクロークに入れることに不満たらたらだったが、どうしても必要ということでしぶしぶ受け入れたのだ。
なにしろ運命を操作するという《閉鎖回廊》への侵攻である。
これら生存に関わる必需品は、可能な限り持ち込みが望ましかった。
大軍団を賄うような量の物資を備蓄できるわけではないが、今回のように少数精鋭部隊を送り込んだ短期決戦には、じつにマッチした運用であるといえよう。
「よく頑張ってくれたな! オマエのおかげだ」
惜しみなく称賛の言葉をかけてやりながら、アシュレは手早く馬鎧を脱装させていく。
胸鎧、脇鎧、尻鎧。
思ったとおり、高熱に炙られたヴィトライオンの馬体、特に右側面の大腿部が広範な火傷を負っていた。
ひと目でわかる。
これは即座に治療しなければならないレベルのものだ。
「ありがとう」
改めてアシュレは戦場をともに駆け抜けた愛馬に礼を述べた。
ヴィトラの耳が、応えるように、ぴこりっと動く。
火傷による消耗と激痛に耐えながら、ヴィトラはアシュレの手綱さばきに懸命に応えてくれた。
それは、命令に従った、という表現は当てはまらないものだ。
今日の戦場でヴィトラが見せた働きは、献身、と呼ばれるべきものだ。
これほどの名馬に出会うことは、騎兵として馬の背に揺られる生きることを選択した者の人生であっても、極端に難しい。
騎士としての誉れであるだけではなく、もはやそれは運命的だ、といってもよい。
一般的に軍馬といえば西方世界では去勢馬がほとんどだが、大規模な戦場に臨むにあたり、騎士たちは噛み癖も矯正されていない無去勢の雄馬を選ぶことが、ときにあった。
だが、アシュレが選んだ愛馬は、その例外すら超えていた。
雌馬だったのである。
戦場にあっては、強力な火力を誇る竜槍:シヴニールによる馬上からの掃射を主軸とする特殊な戦闘スタイルを持つアシュレにとって、戦場の空気に酔い血気に逸る馬よりは、豪胆ではあっても忍耐強さを兼ね備える気質のそれを厳選した結果だった。
ヴィトライオンだけが、アシュレの携える竜槍:シヴニールの雷轟を思わせる閃光と轟音に耐えたのだ。
けれども、ヴィトライオンは最初から従順な馬だったわけではない。
というよりも、いまでもそうだ。
おとなしく言うことをきくのは、ただ、主人と認めたアシュレという男に対するときだけ。
馬丁たちの手を焼かせるとんでもないじゃじゃ馬、というのが本性であった。
初めて出逢ったときのことをアシュレはいまでも、鮮やかに思い出せる。
美人だなあ、と感想したアシュレに対し、ヴィトライオンはハッ、と嘲るような顔をしたものだ。
一瞬だけ耳を後ろに伏せ、鼻面にシワを寄せ、歯を剥き出して。
馬商やお付きの馬丁たちが話し込み、目を逸らしていた一瞬を狙って、アシュレにだけ見えるように。
気安くわたしを評価するんじゃないわよ、ボウヤ、という音声が聞こえたような気がしたくらいだ。
結局、アシュレはその日、背中に跨がることさえ許されなかった。
けれども、もう別の馬にしましょう、と提案する馬商や馬丁たちの提案に、アシュレもまた首を縦には振らなかった。
夕暮れ、晩鐘鳴り響く牧場を疾風のように駆ける姿に見入っていたからだ。
アシュレが、ヴィトライオンを愛馬にすると決めたのは、そのときだった。
「すぐに、貴石で治してやるからな。まってろ」
言いながら、アシュレは癒しの効果が封じ込まれたそれをヴィトラの火傷した肌にそっと滑らせた。
これら貴石は、市井で見かけることはまずない貴重な品だ。
人類圏ではもはや製法は失われており、古代の遺跡発掘(盗掘?)を生業とする山師たちか、犯罪結社たちの使う非合法な、あるいは魔の十一氏族などとの戦闘において、ごくまれに戦利品として回収できる、といった限られたルートでしか入手できない希少品であった。
高価な宝石類を素材としていたこともあるだろうが、かすり傷でも完治に一週間や十日はかかるのが人間というものだ。
破れた血管を即座に繋ぎ合わせ、傷をふさぎ、増血作用まであるこれらの品が、いったいどれほどの金額で取引されていたかは、想像に難くないであろう。
強力な異能による治癒効果程ではないにしろ、とにかく代償を支払わずとも、異能者でなくとも使える貴石は、王侯貴族の守り石として、その衣装に縫い込まれているほどのものだったのである。
アシュレがヴィトライオンの火傷に対してそのすべやかな面を滑らせると、貴石はサラサラという音を立てて、粒子となりながら、傷に吸いこまれるようにして正体を失っていく。
それと引き換えに、火傷が癒され、表皮が再生し、失われていた体毛が生え変わるのがわかった。
アシュレはヴィトライオンの全身を、そうやってなでさすって癒していく。
癒しの技を、実はアシュレも習得はしている。
だがそれは、莫大な代償を必要とされるもので、たとえば己の腕一本繋いだあと、アシュレは数週間昏倒したことがある。
敵陣中央に侵攻中のいま、振るってよい技ではありえなかった。
アシュレは蹄に向かって、貴石を滑らせる。
ヴィトラが長いまつげを伏せ、ひっそりと息をつくのが、その様子を後ろで見守っていたアテルイにはわかった。
それは主従というより、恋をした男に労られ介抱されておもわず漏れそうになった吐息を押し殺す少女のように見えた。
このコは、もしかしたら、アシュレに恋をしているのかもしれない。
ヴィトラの仕草から、アテルイはそんな考えを抱く。
ずくんずくん、と同じく足に負った火傷が、切なく痛んだ。
だが、遊牧民族の血筋であるアテルイからすれば、馬を大事にする男というのは信頼に足る条件のまず第一に当たる。
愛馬に接する態度は、翻って家族に対するそれだからだ。
強権的な扱いをする者は、やはり一族にもそういう態度をとる。
逆に、馬に愛される者は、やはり家族からも慕われていることが多い。
馬が人品を見抜き恩返しをしてくれる神話や昔話をいくつもいくつも、幼いときから口伝で聴いて育ったアテルイである。
アシュレがヴィトラに、ヴィトラがアシュレに向ける想いやまなざしを前にすると、心が動かされるのは無理もなかった。
だからこれは、嫉妬というよりもヴィトラが懐くのは当然だ、という共感の痛みだ。
「よし、終わった。さあ、水を飲んで。干したヤツしかないけど、果物もある」
そんなアテルイの胸中もしらず、ヴィトライオンの治療と世話を最優先でやり遂げたアシュレが振り返った。
「ごめんなさい、傷の具合から、どうしてもヴィトラを優先させてしまいました。つぎは、アテルイさんの番ですね」
「んぴ」
飼葉の山に座らされていたアテルイの喉から、なにか文字には書き起こしづらい音声が飛び出した。
無理もないであろう。
アシュレはいま、上半身裸で、全身傷だらけで、汗塗れで──それなのに、愛馬やアテルイを優先して癒そうと、跪いたのだ。
「い、いやっ、そのっ、わ、わたしたちの部族だって、馬はっ、ほ、ほんとに大事にするからなっ。特にヴィトラは得難い名馬だ。ア、アシュレの戦法を支える要だし。待たされるとか、順番が後だったとか、そ、その程度のことで、わ、わたしはっ、へそをまげたり、しないっ」
「あ、よかった。口調がいつものアテルイさんに戻ってる。緊張してたんですね、やっぱり。じゃあ、治療を始めましょう。靴を脱いでください。先端が焼け焦げてしまっている。火炎に炙られたんだ。火傷、してますよね?」
「あれはっ、あのときはっ、馴れないシチュエーションでいろいろ混乱していたっ! 戦場に混乱はつきものだろうがっ!」
「それはわかりました。とにかく……脱ぎましょうか」
戦場とその後方にあっては意識が完全に切り替わるタイプなのだろう。
いつも女性陣に翻弄されているときの坊ちゃんぶりはどこへやら、アシュレはテキパキとした指示をアテルイに送った。
「脱ぐ? 脱ぐっ?! あ、ああ、あああ、靴か。そうだな。脱がなければ、傷の程度がわからんしな。ええと、そうだそうだ」
言いながら、慌ててアテルイは靴ひもに手をかけるが、うまくほどけない。
「あれっ、あれっ、おかしいな」
「ボクがやります」
緊張のあまりうまく靴ひもをほどけないアテルイのかわりに、アシュレは靴を脱がせてやった。
長距離侵攻用の丈夫なそれから足を引き抜くと、アテルイがぐっ、とひとこえ唸った。
「ごめんなさい、靴が傷にふれましたね、いまの」
「だ、だいじょうぶだ」
「大丈夫なわけがない。靴で護られていたのに、決して軽くない火傷だ。足の甲からくるぶし、脛まで。こんな傷を負っていて、黙っていたんですか」
「それは、戦場とはそういう場所だろう」
「ちゃんと治療しないと傷跡が残る。火傷は怖いんですよ」
「あのとき、その、アシュレに心配を、か、かけたくなかった。か、勝つダメだぞ?! こう、我々の勝利のために!」
「そのことには本当に感謝しています。アテルイさんがいなかったら、ボクはいまごろあの獅子面馬人に、くびり殺されていたでしょう。ほんとうにありがとうございました」
ですが、とアテルイの傷ついた足首をそっと引き寄せながらアシュレは言った。
「せめて、傷を具合はもっと早く知りたかった。ヴィトラの傷の治療を一段落させたら、すぐに、こちらを癒すべきだった。あなたを守る、と宣言したのにこんな怪我をさせてしまった。騎士失格だ」
「ひやっ、いいえいいえ、そんなことはぜんぜん、まったく──理想の騎士さまでした」
なぜかまたあの馬上での言葉づかいになり、アテルイは両手を覆って縮こまってしまった。
ダンゴムシみたいである。
余談だが、恥ずかしいと感じたとき両手で顔を覆うのは、アラム教圏の女性に共通した仕草だ。
例外はアシュレの知る限り、アスカと、その側近の女戦士:コルカールだけだ。
「じつは、貴石の手持ちが、もうないんです」
「く、薬で、だいじょうぶだから、あんしんしてくれっ」
「これひとつしかない」
両手で顔を覆ったまま通常の薬による治療で充分だと言い出したアテルイに、アシュレは懐から自分の守り石を持ち出した。
それはこのトラントリム攻略戦にあたり、アスカがアシュレに送った品だった。
大振りなラピスラズリに似たその石の輝きは、どこかアスカの瞳を思わせる。
黄金によって装飾されたそのお守りは、王族ゆかりの品であることを、アテルイだけは知っていた。
「だめっ、だめですっ、それはダメっ!」
「いいえ、使います。アテルイさん、実際、この状態ではひとりで立って歩くこともできないはずですよ。今後の作戦に、それでは支障がありすぎる。大丈夫、アスカもわかってくれます。ボクが使ったことにすればいいんです」
「でもっ、でもっ、わたしなんかが恐れ多いっ」
「もらったのはボクです。つまりこれは、ボクのものだ。どう使うかはボクが決めます」
「ひやっ、ひややっ」
姫君から下賜された貴重すぎる品を使ってでもあなたを癒す、と年下男子に断言され、押し倒されてしまった姫のようなリアクションをアテルイは取ってしまう。
そして、そんなアテルイの仕草を了解と判断したのか、アシュレは先ほどヴィトラにしたのと同じように、愛撫めいた治療を施した。
ちなみにだが、女性がこういう反応をしたときは「オッケイ」だと教えたのは、他にだれあろうユーニスである。
だいじょうぶか、アシュレの夜の教育係。
だが、ナイス。
もう、アテルイには抵抗さえ許されない。
あたたかな熱とともに心地よすぎる感覚が、傷口から流入してくるのがわかる。
アシュレの体温と汗の匂いを、強く、感じる。
アテルイにできたことは、さきほど幻視した少女版:ヴィトラがそうであったように漏れそうになる声を、口をふさいで必死で押し殺すことだけだった。
それなのに、どんなに意志で捩じ伏せようとしても、身体が、這い登ってくる感覚に弓なりになってしまう。
だめだ、これ、だめになる──アテルイは思う。
「痛みますか?」
心配げに訊いてくるアシュレに答えることもできない。
口を開いてしまったら、甘く濡れた吐息を必ず聞かれてしまうからだ。
必死に首を振って問題ないと知らせる。
いや、実際は別の大問題が生じているのだが。
ちなみにだが、アラム教圏では首肯は「横に首を振るしぐさ」である。
つまり、西方世界とは真逆となる。
軍議の席では、食客としてアシュレを招いたという立場上、アスカ以下、砂獅子旅団の主要メンバーたちは西方世界のやり方に合わせてくれていた、ということをアシュレはこのとき失念していた。
長年をかけて染みついた常識や習慣は、なるほど、一朝一夕には改められないものだ。
「やっぱり、痛むんですね。もしかして……他に、どこか、傷を負っているのではないですか?」
そして、命が関わる場面になると途端にヒトの変わるアシュレくんが、また盛大な勘違いをした。
アテルイは先ほどよりも大きく首を振って、ちがう、とジェスチャーする。
アシュレは先ほどよりも大きく勘違いして、そうだ、と了解する。
「なぜ、我慢するんですか。ボクを信じてください。あの──脱がせますよ? 戦場での傷を甘く見てはだめです。くまなく調べないと。古戦場で鏃を踏み抜いて、破傷風で死んだ例はいくらでもあるんだ」
すっかり戦友の間柄だと認識を固めたアシュレに躊躇はなかった。
こういうところ、戦場と日常で完全に意識が切り替わるのが戦士階級なのだ。
これは、アシュレが成長とともに、それを完全に我が物にしつつあったという証拠であろう。
ただ、ちょっと極端に切り替わりすぎではあるかもしれないが、たぶん、それが若さだ。
けれども、アテルイ的にはそうではなかった。
できなかった。
抵抗など。
いけません、ダメです、と声にすることも。
ほんとうは、いやではない、と自身の望みを自覚していたからだ。
鎧を外され、労われ、主に手厚く看護されるヴィトライオンを「羨ましい」と、たしかに思ってしまったからだ。
同じようにしてもらえたなら、どんなにしあわせだろうか。
アシュレの馬になりたい、と思ってしまったからだ。
ちいさく身を強ばらせ、両手で顔と口を必死に押さえたアテルイは、そんなふうに観念してしまった。
そして、けっきょく、アシュレは足首以外の傷を発見できない。
とうぜんだが、ぼうぜんとするしかない。
「なかなか、おもしろい見せ物だったぞ?」
するすると、天井の梁からエレがまさしく蜘蛛のように降りてきたのは、すべてが後の祭りになってからだった。
つまり、傷を発見できなかったアシュレが「アレ? ナンデ?! ナンデナイノ?!」とパニックになったまま硬直し、むき身にされたアテルイがくすんくすんと泣いているという、どう見ても事後処理が必要な場面になってからである。




