■第六〇夜:胡蝶蘭の口づけ
「それで……どれぐらいの深度にする? もちろん意思疎通の話だが」
そんなわけで、アシュレはいま、エレとサウナにいる。
右隣には敵の襲撃に備えるとの理由で、水着姿に聖なる籠手:ハンズ・オブ・グローリー、当然、かたわらには聖剣:ローズ・アブソリュートを携えたシオンが駐留している。
左には、同じく遠距離通信系の異能者として後学のために、という名目でこちらもなぜか愛玩奴隷衣装のアテルイがいる。
そして、追いつめられた果てに自らが言い出したアシュレは、現在腰巻き一枚を残した状況で、完全に逃げ場を失っている。
そして、眼前にはやはり、あぶなすぎる水着のエレがいた。
静脈が透けて見えるほど白い肌と、呪術に使って短くはなってしまっていたが美しい灰銀色の頭髪が揺れていた。
どーなってんの、これ、とアシュレは熱気と湿気が充満するサウナにあって思った。
かなりのマヌケ面で。
なにをいまさら、とエレが嘲笑する。
なるほど語るに落ちた、とはこのことである。
歴史学的話をするのであれば、ハーレムとは時の権力者がお気に入りの美姫たちを囲い込むための場所であっただけではなく、その内側で熾烈な、美姫たち同士の政争が行われた施設でもあった、ということである。
より高次元の話をするのであれば、ハーレムパーティーなどという概念が意識化され、言語化される状況にあっては、いずれにせよ、遅かれ早かれこのようなシーンが現出するのは、しごく当然のことであったのだ。
それはともかく、である。
「これっ、これっ、こんな格好になる必要が、あ、あ、あるの?」
「あるからこうしたに決まっているだろうが。というか、アレか? オマエはわたしが、なんの理由もなく男の前で肌をさらすような露出狂、痴女の類いだとでも思っていたのか?」
「いやそうでわありませんが!」
あきらかに間違えた言葉づかいになってしまうアシュレの気持ちも、わからなくはない。
だいたい、エレにはイズマというれっきとした想い人がいるではないか。
それなのにダメではないか、こんな展開はイケないではないか。
というか、エレはアシュレが見ても納得の美貌と、スレンダーとはいえ着やせするタイプのボディの持ち主なのである。
「アシュレダウ、オマエ、なにを固くなっている?」
「してませんっ。硬くなんかしてませんっ」
アシュレは必死に足を閉じ、握り拳を膝においてうつむくしかない。
シオンの視線が痛いし、なんでアテルイさんまでついてきているのか、さっぱりわからない。
護衛任務は服を着て外でしてもらったほうが効果的なのでは。
異能の仕組みを知りたければ、あとで個別講義でもよかったのではないか。
脳内ではそんな正論が渦巻くが、実際にはそれを口にする勇気などない。
だって、それでは、まるでエレとふたりっきりになることを望んでいるようではないか。
状況の濁流に、無力にもアシュレは流されていく。
ふうむ、とそんな感じで混乱するアシュレを尻目に腕組みをしたエレは、説明を開始した。
つまり、意思疎通のだ。
「いつだったか、アシュレダウ、オマエ、わたしの妹:エルマにチューされたことあっただろう?」
「え?」
「えっ?」
唐突な発言に声をあげたのは二名。
ひとりは、当然、アシュレ。
ものすごくショックを受けた、という感じだったのはアテルイ。
一方、四人いるサウナ関係者(?)のなかで、唯一武装を隠そうともしていない自称護衛担当のシオンだけは無言で、ギロリ、とアシュレを睨みつけた。
「えっ、いやっ、あれっ?! ちゅ、チュー、ですか?」
「なにをキョドっているのか? 人類では接吻のことをチュー、と言うのではないのか?」
受けただろう、三度も。
「異能だよ。相手を魅了する呪術:ブラックリリィ・インシグニア。カテル島最深部:奥の院で、わたしとエルマと交戦したとき」
あ、あ、ああああああ〜〜〜〜〜、とアシュレは安堵して長い声をあげてしまった。
そうだ、そうだった。
たしかに、アシュレはあの夜、エレとエルマ、ふたりの土蜘蛛の刺客を相手取った戦いで魅了の呪いを喰らい、あと一歩というところまで追いつめられた。
呪術:ブラックリリィ・インシグニアは、相手の意識を屈服させ意志を奪う恐るべき異能だった。
だが、その強力さは、行使にともない厳しく条件付けされた制約によって担保されてもいたのだ。
つまり、相手の心を完全に陥落させるためには、術者はなんども対象の唇を奪わなければならない、という。
ちなみに、エルマのそれを三度受けて陥落しなかったという男はいない。
かくいうアシュレも三度めで堕ちた。
そこから抜け出せたのは──ひとえに、シオンと共有した心臓のおかげ──つまり、アシュレ自身がすでに人類の側から片足を踏み外し、魔性の者へと成り代わりつつあったからに他ならない。
「え、じゃあ、まさか、アレと同じことするとか……そういう、アレな展開なんですか?」
「バカか、オマエは。それならあの場でしてしまえば済むことだろうが。なぜ、わたしが脱いでいるのかわからんのか?」
「すみませんわからないです」
推論をぶつけたら、もっとすごい発言がキタ。
アシュレは再び深くうつむく。
ダメだ、このヒトがなに言っているのか、ボクにはわからない。
「でわ、ぬ、脱がねばならぬ理由、とわ?!」
本来ならばアシュレが問いたださねばならぬ核心について、ズバリと聞き正したのはアテルイだった。
おおっ、となぜかシオンが賛嘆めいた声をあげる。
なんでだ、とアシュレは思う。
「あのとき、我らベッサリオンの氏族屈指の術者である妹:エルマの呪いを、アシュレダウが退けられたのは、その強い意志の《ちから》だけからではないことは明白だ。オマエはいま、シオン殿下と肉体の最重要部分、心臓を共有している。そのことで呪術に対する耐性が上っているのだよ」
「あ、そう、なんだ」
「うむ、まちがいない。それはこれからも進行し、そのうち、夜魔と変わらぬレベルに到達するかもしれない」
はっ、とシオンが息を呑む。
先ほどまで向けられていた険のある視線が、一気に質を変えるのが、そちらを見なくともわかる。
「だからまあ、今夜の手続きで、現状どれくらいの変化がオマエの肉体に起きているのかわかる、というわけさ」
「テスト、というわけですか」
「この先、深部へ侵攻すれば、こんなことをしている時間なかなか取れないだろうからな。まず、道筋を通しておこうと思ったわけさ」
「出立前にしておけばよかったですね。それなら」
「ばーかもん。これはこれで、なかなか代償を要求されるモノなんだぞ。《閉鎖回廊》の内と外で、消耗が桁違いなのは知っているだろう?」
「あ、ああ、そうか。効率の問題」
エレの言うことはもっともだと、アシュレは思った。
異能の源泉、引鉄となるパワーソース:《スピンドル》は、どういうわけかオーバーロードたちがまとう特殊な異空間:《閉鎖回廊》のなかでしか、効果的に運用できない。
ここまで立て続いた激戦の経験から、その理屈がアシュレにはなんとなく分かってきた気がしているのだが、今夜は失念していた。
まあ、なんというか、男のコ的にはこの状況下ではしかたあるまいというところだ。
「とまあ、ながながと講義をたれてもしかたない。実践あるのみだ」
なぜならば、言いながらエレが肌を合わせてきたからだ。
膝を割りながらしなだれかかるようにして。
それは、思考くらい、吹き飛ぶ。
「え、ええ、あれっ、これっ、ナンデ?!」
「だーかーらー、意思疎通の回路をこしらえるには、術者と対象の間に縁をつながなければならんだろうが。エルマならともかく、わたしはオマエの味さえ知らんのでだぞ? ほら、唇を出せ」
……と、その先に行われたことをアシュレは断片にしか思い出せない。
思い出してはならない。いろいろまずいのだ。
ただ、エレがその胸乳にアシュレの頭を抱き寄せながらささやいたことまでは、忘れてはいない。
「イズマさまが、オマエのことは弟も同然だとおっしゃっていた。そうであれば、これはわたしにとっても同じではないか。助けるのは当然だし、もっと甘えてもらってよいのだぞ。それに……わたしはその弟と、弟の想い人に非道を働いた女だ。罰したいというのなら、オマエにはすくなくともこの遠征の間くらい、わたしを自由にする権利があるのだからな」
こうして、胡蝶蘭の香りそっくりのエレの《スピンドル》を嗅ぎながら、アシュレは意思疎通のための回路を通された。
一部始終を見ていたアテルイが乱入してきたり、なぜか体内に埋め込まれた魔性の具:ジャグリ・ジャグラがシオンの胸元から飛び出して、大混乱が巻き起こったのだが、すまない、詳細については割愛する。
ともかく、そんな修羅場を潜ってアシュレは、いま、ここにいる。
『おい……おい……聞こえているのか、アシュレダウ。もう接敵するぞ。右側面から二頭、左からも回り込みつつある』
一瞬、記憶にはまり込んでいた。
もしかしたらこれも夜魔の特性に引きずられていたのかもしれない。
アシュレは、エレの声で我に返り、手綱を引く。
ふわり、と口元で、今日も出がけにたっぷりと交された口づけの味が甦った。
回路を維持するためだというそれは、十分ほども続いて、シオンとアテルイをやきもきさせたものだ。
まぼろしの胡蝶蘭の香りが、鼻腔に抜けた。
「了解。各個に撃破するッ!」
アシュレは雄叫びをあげ、甘い追憶を振り払った。
腕のなかのアテルイを庇うように抱き、戦闘機動に移る。
ここからは騎士の戦場だ。




