■第五十二夜:決闘者の条件
一騎打ちを申し込む──。
その言葉が、潮騒と剣戟と魔獣の断末魔が入り乱れる戦闘音楽を切り裂いて修羅の庭と化した砂浜に響きわたったとき、爪牙と刃を交えていたすべての者の動きが止まった。
もし、状況がこれほど決定的でなければ、だれもその言葉には耳を貸さなかったかもしれない。
けれども、その意味でトラーオの仕掛けたタイミングは、まさに千載一遇のチャンスをモノにした格好だった。
なにしろ、いま一撃を放てば大将首どころか、エスペラルゴの皇帝を仕留めることができたはずのタイミングで、トラーオは名乗りをあげたのだ。
ズシリッ、と命を賭ける戦場の天秤に決して他のものでは贖えない貴石が載せられたのを、その場にいたすべてのものが直感的に理解した。
おそらく、いちばん動揺したのは名指しを受けたエスペラルゴ皇帝:メルセナリオ、すなわちメナスに違いなかった。
ひとつには、まったく予期せぬ場所と相手から、指名と挑戦を受けたことに。
ひとつには、それによる戦場の空気の激変を嗅ぎ取ったトラントリム側の指揮官、すなわち、奇襲の効果を信じて正面突撃を命じ、思わぬ反撃によって三頭までのインクルード・ビーストと数十名の部下のほとんどを失った男が、獣の背に騎乗するや転進、逃走に移ったのを目の端にとらえて。
そして、その最たるものは、横合いからメナスを殺害する決定的チャンスであったにもかかわらず、堂々と姿を現し名乗りをあげた男の若さと、愚直さに──うたれて。
そのつぎに、心揺さぶられたのがだれかは、言うまでもないだろう。
虜囚の辱めを受け──いや、なかば望んでメナスの手に堕ちてしまったセラ以外にだれがあるだろうか。
心臓を刺し貫かれるような痛みと、胸乳を握りつぶされるかのような甘さ、そして、胸中を吹き荒れる感情の嵐に、自らを失う。
おもわず口元を押さえた両手から血の気が失せる。
引きつけを起こしたように、うまく呼吸ができない。
かくり、と膝が抜け、砂浜にへたり込む。
意志の伴わぬ肉体の反応が、思いがけず、メナスの腕からセラを逃した。
「いやあ──オイオイ、これってさあ、あのヘッポコ司令官に一丸となってでも追いすがって、トドメを刺さなきゃならん状況じゃねえのかなあああ?」
己の喉元に狙いを定めたトラーオの照準をハッキリと感じながらも、横目で戦況をちらちらと見やり、軽口めいてメナスが言った。
その戦況分析は、おそらくいま、この戦場にいるだれよりも正しい。
逃げ去った指揮官は、さらに上位者へ、あるいはトラントリム正規軍へと、すべてを報告、あるいは周知してしまうだろう。
ここで確実に連絡を絶つことで得られる時間的猶予は、もしかしたら僅かかもしれないが、そのわずか数刻あまりが大きく運命を変えてしまうのが戦場だ。
それは、命を落とすのに一秒とかからぬ場合がある、という事実を持ち出すまでもなく自明のことだ。
けれども、約一名を除いて、自らの意志で動けたものは、もはやこのフィールドには存在しなかった。
すなわち、名乗りをあげ一騎打ちを申し込んだトラーオ以外に、だれにそれができただろう。
「武器を選べ、メルセナリオ。勝負だ。セラ、いいや、セラフィナを賭けて」
全身を冒す恐懼とそこに起因する震えを押さえ込んでいるからだろう。
少年には不釣りあいに押し殺した声で、トラーオは告げた。
なるほど、正しい決闘の流儀では挑戦された側に、いかなる形式での戦いかを選ぶ権利がある。
カッ、とトラーオの実直ぶりに、メナスは自嘲ぎみに笑った。
「挑戦、ときたぜ。泣かせるね。坊や、戦場はそんなに甘くはない。どーして、物陰からオレを撃たなかった? ん? この状況なら、できただろう?」
「知れたことだ、メルセナリオ。オレは騎士を志す。卑怯者ではない。オマエのようには、な」
「カーッ、ステキに断定してくれるじゃないかよ、トラーオ。平民出にしとくのがもったいねえ騎士ぶりだ。立派だよ、おたく。ええ、違うかい、カテル病院騎士団筆頭:バージェスト卿?」
口を横に引いたまま、腹話術めいてメナスが言う。
むろん、話を振られたノーマンからの応えはない。
「だがなあ、こちとら大人だかならあ。いくらなんでも、ついこないだまで、嫁さんの──おっといけねえや、偽装結婚だっけか?──の、おっぱいのしたに隠れてたような坊やを相手に、命を取るようなマネをしちゃいけねえよな。やめとけ、無理すんなよ、坊や」
メナスがしれっと揶揄を飛ばす。
それはもちろん、本気で決闘を思いとどまるよう促しているのではない。
これは実際にそうなったときのための前哨戦。
心理的揺さぶりにすぎない。
「ムダだ、メルセナリオ。オレに挑発は効かない」
目を据わらせて言い切るトラーオに、メナスはヒュー、と口笛を吹いた。
「おー、こわいこわい。本気なんだ、坊やは。でもなあ、オレに勝っても、いいことはあんまりねえぞ? というか、目的はなにさ。黙って見逃してりゃ、オタクらカテル病院騎士団にしてみたら、おいしい状況だったんじゃねえのかい?」
それ以前に、どうやってこの速度でオレたちの居場所を特定できたもんか、そこを知りてえんだがな、総司令官としては。
ついでのことのようにメナスはつぶやき、太い息をついて、呼吸を整える。
「それなのに、また、なんで一騎打ちなんて勝算のない賭けに出たのさ」
「言ったはずだ。その娘──セラフィナを返してもらう、と」
間髪入れず、即座に切り返してきたトラーオの言葉を、ハッ、とあからさまな侮蔑をこめてメナスは笑い飛ばした。
「いんやあ、そいつは難しいんじゃねえのかなあ? オレを倒したところで、セラが戻りたがるとは、限らんぜ? カテル病院騎士団の見習いくん」
なんたってさあ、と意味深に、しかし、ハッキリと意図を感じさせる様子で笑みを広げてメナスはトラーオに正対した。
「オレとセラは、ほら、婚儀の契りを交した関係だから、サ」
ぶるりっ、とその言葉に身を震わせたのは正対するトラーオではなく、セラフィナのほうだった。
知られてはならない秘密、トラーオだけには知られたくなかった秘密を、声高に暴露されてしまったのだから。
トラーオの瞳に一瞬にしても動揺が走ったのは、間違いなく狼狽しきり、メナスとトラーオの間で視線を行き来させるセラを見たからだった。
予期したこととはいえ、その衝撃はやはり激しく多感な少年の心に突き立ち、かき乱したのだ。
それでもなお、トラーオは暴れ出しそうな感情の手綱をとって言う。
「それがどうした」
「おー。どうした、とはまた、お言葉だ。意味わかってんのか? 夫婦の契りを、だな、」
「それはオマエが死ねば無効になる」
教会での誓いを経ず、正式のお披露目を経ない婚姻に、効力などない。
理屈をトラーオは捏ねる。
へ理屈でもかまわなかった。
心理戦には心理戦。
敵の誘導には乗るな、とはやはり教練での教えだ。
「いんや、だからといって、ふたりの間に結ばれた関係は、簡単には、だな」
「それはオマエの心配することじゃない。オマエを倒したあと、オレたちが考えればいいことだ」
「……おたく、そんなにイイ男だったか? なにがあった?」
ことごとく話を遮られ、怒りを見せてもよいはずのメナスが逆に感心して訊いた。
むろん、トラーオからも応えはない。
ノーマンと同じく、トラーオもまた、宗教騎士団の男なのだ。
なぜ、この境地に至ったか、などと話すことはない。
ただ、いま、己がそういう存在であることの証明は、行いによってのみ証明するだけのことなのだ。
「やっぱ、やりにくいわ、おたくら」
あまりの頑なさに、あきれ返ったという様子でメナスがぼやく。
「でもさあ、こんくらいは答えろよ。このセラって女は──おたくにとって、なになのさ」
メナスの言葉に、セラは思わず胸を押さえてしまった。
会話というか、心理戦の糸口をことごとく断ち切られたメナスが追いつめられて発したように見えるこの言葉こそ、じつは最大の罠だったのだ。
それは、ひとつ間違えれば、たとえ一騎打ちに勝利を収めたとしても、決してセラを取り戻すことはできない──いや、場合によっては、その一騎打ちのさなかに取り返しのつかない事態を引き起こしかねない地雷だったのである。
けれども、数秒の間をおいてさえ、トラーオは答える。
「オレの大事な女だ。生涯の伴侶となるべき、女性だ」
ぶっ、とそのあまりの思い切りのよさと重さに、メナスが吹いた。
だが、息を飲んだ者もいた。
ほかにだれがいるだろうか。
セラである。
なんの臆面もなく言い切られたことで、トラーオの本気が伝わる。
ぼろぼろ、と理由のわからない涙がこぼれた。
「だーかーら、あのな、もう、そういうのができないカラダに、セラは、」
「それを決めるのはオマエじゃない、と言っているんだ。メルセナリオ」
武器を選べ。
言外にそう詰め寄られて、メナスは初めて頬をひきつらせた。
このガキ、と舌打ちし、口中で悪態をついた。
だが、口を開いた瞬間には、もういつもの調子を取り戻して言った。
「じゃあ──早撃ちにしようか。おたく、得意そうだもんな」
もちろん、オレは、この魔銃:ギャングレイを使う。
ただし、レギュレーションはおたくにあわせるぜ?
つまり、一発勝負だ。
それが運命を分ける決闘の条件だった。




