■第四十三夜:奪還のために
※
「大丈夫か、トラーオ」
「は、はい。すこし、楽になってきましたっ」
ノーマンの問いかけに、背負われた格好のままでトラーオが返す。
強がっているのがまるわかりの声色で。
トラーオたちは、ノーマンが立案した作戦に添って、トラントリムの海岸線を南下する。
トゥーランドット河河口付近は、切り立った岸壁ばかりの沿岸地域のなかで、唯一といっていいほど広い砂地になっている。
国土を蛇行しながらつらぬく大河が、長い時間をかけて岩肌を削り取ったのだろう。
そこから運ばれてくる土砂が堆積し、あるいは流されて、潮の流れの緩やかなところに溜まり、ところどころに小さな砂浜を形成する。
河の流れと打ち寄せる波が彫刻した奇岩が、アーチや大伽藍、尖塔を思わせて林立する。
砂浜から垂直に突き出たそれら岩場は、要塞化され外敵を撃退するための要害として使われていた。
そう、〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉が怒りに狂い、相争うものすべてを水底に沈めるまでは。
それ以来、この周辺の要塞は、有事を除いて最低限の岬守たちが管理するのみだ。
大規模な常駐戦力を配しておくことができるほど、豊かではないのが、現在の世界のありようだ。
領土から得ることのできるエネルギーの総量が、国家の人口と、動員できるマンパワーと厳密に比例していた時代のことである。
たとえ、どこかから奴隷を引き連れてきても、事情はさして変わらない。
かつての統一王朝:アガンティリスのように、広大な領土を支配下に治め、穀倉地帯からは潤沢な収穫を、植民地からは労働力を、というわけにはいかないのだ。
例外的に商人の国であるディードヤームだけは、この条件に当てはまらなかったが、干潟に浮かぶ本国の人口で約十万人。本土と呼ばれる対岸の植民地的エリアを含めても、最盛期で四十万人に届くかどうか。
これは必死に戦力をかき集めても、自国では四千人程度の軍事力を捻出するのが関の山だ、ということだ。
小国同士の国境を争う小競り合いが数人から、数十人規模で行われる一方で、アラム教界の雄:オズマドラ帝国の軍事遠征が十万人規模であることを考えれば、この時代の流れ、数字の意味は理解できるであろう。
ましてや、そのディードヤームに人口でも領土でも劣るトラントリムの軍事力は、せいぜい数百から、ふりしぼっても一〇〇〇というところである。
すでに強大な専制君主国家が成立している世界情勢で、これは貧弱と一蹴されるべき数字であった。
小国は立ち回り方を考えなければ生き残れない時代がきていたのである。
それでも高台の見張り台を兼ねる奇岩に立てこもり、縄ばしごを引き上げてさえしまえば、相当の時間を持ちこたえることができる。
角笛やのろしを使って有事を伝えることができれば、友軍が到着する。
そして、そこにはトラントリムが誇る白魔騎士団、すなわち、人類のために戦う夜魔の騎士たちがいる。
むしろ、二十名に満たぬこの夜魔の騎士たちこそ、トラントリムの戦力と見積もるべき存在だった。
なるほど、ユガディールの掲げる“血の貨幣共栄圏”構想に、国民だけではなく、周辺の都市国家が賛同するのも無理からぬことだったかも、しれない。
もちろん、その細かい事情までをトラーオたちは、知らない。
理性的な統治で人心を掴み、しかし、敵に対しては冷酷極まりない、そして、祖国の地形を知り尽くして変幻自在の戦術を持って戦う男たちが率いる国家、というのが印象である。
特に、議会制を敷くトラントリムのリーダーは、山岳戦・森林戦を得意とし、押し寄せるアラムの軍勢にゲリラ戦術を持って抗しつづけてきたという。
だが、それだけだ。
それほどにとるに足らぬ、辺境の小国家群、そのひとつ、と目されていたのだ。
きっと、いま胎動する巨大な時代の変化が訪れなければ、歴史の教科書に名を残すこともなく消え去ってしまうはずの国だったはずだ。
だから、トラーオたちは、トラントリムの内情をほとんど知らない。
ここ数日、船のなかで慌てて情報を詰め込んだのである。
いや、それは自分だけなのかもしれないが。
迷いなく足を進めるノーマンや、地図から正確に位置を割り出すバートンを見ていると、己のふがいなさに涙がにじむ。
ともかく、いま、トラーオたちの眼前にそびえ立つ岬を回れば、その光景が見えてくるはずだった。
「トラーオ、岬を回れば奇岩地帯だ。そのまえに、ここで、わずかだが休息を取ろう。おあつらえ向きに、ちいさいが砂浜がある」
呼びかけるノーマンの声に、トラーオは同意する。
するしかない。
心は逸っていたが、現在の自分は急ごしらえの背負子(注・木材と縒りヒモなどで作られた道具)に揺られ、脱力しているしかない。
意見など、言えるはずもない。
ノーマンは驚くべきマンパワーを発揮し、バートンを抱きかかえ、トラーオを背負い、海面を歩き続けてきたのだ。
無論、歩けそうな箇所はバートンは降りて歩く。
しかし、通常は個人の移動能力を保証する異能であるはずの《ムーブメント・オブ・スイフトネス》で、都合二名の超過分を支えているのだ。
石で舗装されたアガンティリス期の街道を走るかのように海面を疾駆できるはずの異能を使ってさえ、現在のノーマンの歩みは、泥土のなかをすすむがごとしだ。
バートンにトラーオの体重、装備品の重量を支えてのことだ。
総重量で一〇〇ギロスは悠々とある。もしかしたら一五〇ほどもあるかもだ。
常人には到底不可能な歩みである。
不屈の力と訳される《インドミタブル・マイト》で、骨格と基礎筋力を強化してはいても、支払う代償はノーマンの肉体を損耗させていく。
それなのに、だ。
もともといかめしい顔つきは変わらないが、口元にはどこか余裕を感じさせる笑みすら浮かべて、ノーマンは歩いてきた。
トラーオは畏敬の念を新たにする。
だからこそ、その言葉には従うほかない。
岸まで数メテルのところまで迫れば、バートンが見事な跳躍を見せた。
まず、ノーマンの負担を軽くしよう、というわけだ。
実際にヒトひとりの加重が降ろせれば、それだけで随分と楽になる。
それまで、ぬかるみに足を踏み入れていたがごとき、ノーマンの足取りが途端に軽くなった。
三人は、おそらく潮の流れによって岬のむこうから流されてきたであろう砂が形成した浜にあがり、休息と食事を取った。
「すまないが、火は使えない。だいじょうぶか、トラーオ」
「だいじょぶ、ダイジョブですよ。これで、休憩が終わったら……いける、と思います」
「無理は禁物だぞ。だが、間に合うなら、ためらうな」
船から持ち出した食料品──大判のビスケットをかじりながら、トラーオが荒い息をついた。
強烈な消耗に肉体が捻じ切られるように軋む。
肉体のいたるところから必要な代償を徴収されているようで、ずくんずくんという鈍痛とともに軽い痙攣が起こる。
まちがいなく、異能の行使による代償、そして、消耗であった。
ただし、行使したのはトラーオではない。
それはノーマンの技であった。
異能の教授を可能とする、秘奥中の秘奥。
すべてを一瞬で奪い去る〈アーマーン〉の逆転的使用と、ノーマンの才能が結びついて、ようやく使用可能な奥義であった。
すなわち《インストラクト・アーツ》。
対象に、己が習得する技をひとつ、強制的に学び取らせる異能である。
だが、効能だけ訊けば万能に見えるこの技には、当然だが、厳しい制約があった。
まず、第一に、通常は長い時間をかけ開発、習得していく《スピンドル能力》とその発露である技は、人体にそれ専用の道を造り上げることで使用可能となる。
その過程とは《スピンドル伝導》のための回路を、人体に《意志》というインクでもって、すこしずつ彫り込んでいく──入れ墨のようなものだと理解してもらえればいいだろうか。
当然、すさまじい苦痛と反復によってしか完成を見ない。
特に焦点具となる道具や、《フォーカス》の助けを得られないことが多い基礎能力強化系、《ムーブメント・オブ・スイフトネス》や、夜魔の《影渡り》などの超常的移動手段などにおいて、それはいっそう顕著となる。
手本さえあればひと月の修練で新たな技を習得してしまうノーマンや、下手をすると戦いの最中に新たな技の開花に辿り着いてしまうアシュレが、いかに例外中の例外か、という話だ。
いや、ノーマンの場合は、身に降りかかる苦痛をさえ、噛み殺しきって修練に励むことができるだけ、ともいえるが、それはそれで才能だ。
そのプロセスを、すべて、一気に省略して、結果だけを授けようというのが《インストラクト・アーツ》の正体なのである。
肉体に強制的に道が通されていくのは、全身に針金を突き通される感覚に近い。
気が狂わんばかりの苦痛。
そして、その道のための建材、すなわち代償は、当然ながら肉体から徴収される。
激しい消耗。
そのうえで、さらに、適性者でなかった場合、突貫工事の《スピンドル回路》が暴走を引き起こし、肉体を破損。
最悪の場合、対象者を死にいたらしめる。
そのため、この技は数名の師範級《スピンドル能力者》による審査と、場合によっては、ダシュカマリエの予言による精査の後にしか、振うことを許されない秘技だったのである。
伝え聞くところによれば、エクストラム法王庁にも、数名この技の使い手とそれを可能とする《フォーカス》があるということだが、ここ数百年で使用された実例は、わずかに四度だけだという。
なにしろ、希少な《スピンドル能力者》をいたずらに消耗してしまうかもしれない、危険すぎる賭けなのだ。
だが、それにトラーオは賭けた。
習得に望んだのは《ムーブメント・オブ・スイフトネス》の異能である。
海上からの侵攻、その後に、要塞化された奇岩群を相手取るとあれば、これはもう戦術上必須の能力であったからだ。
「いや、従騎士位でありながら、すでに《スピンドル能力者》として覚醒を果たし、《オーラ・ブロウ》だけでなく、《インドミタブル・マイト》などの強化技も習得しているオマエだ。可能性は大いにある。適性があるのだ」
そして、《インストラクト・アーツ》の行使を望んだトラーオに対し、ノーマンはそう請け負ってくれた。
なにより、セラフィナを想う心が、《意志》となり、オマエを支えてくれるだろう。
真顔で言われれば、うなずくしかないトラーオである。
そして、その胸にノーマンから技の伝達を、文字通り捩じり込まれたトラーオは、激痛と消耗に苛まれながらも、なんとか、生きのびている。
「すみませんな。ほんとうであれば、ここらでもう一度、あたたかい食事を差し上げたいところですが」
いまは、これが精一杯です。
バートンが食料を差し出してくれる。
これが最後の備蓄だ。
堅焼きのやたらとボソボソ喉に詰まるビスケットを、水でふやかすようにして飲み下す。
「たくさんはいけないが、すこしくらいは入れておかんとな。消耗しすぎていては、戦えん」
と言いながら、ばりばりとビスケットを噛み砕くノーマンを、まるで異世界の生物のように眺めながら、トラーオはそれでも懸命に、うまくないそれを飲み下す。
「これ、ほんと、うまくないですよね。そうか、これがエスペラルゴの海軍の糧食なんだ」
「我がカテル病院騎士団の食事がどれほど充実しているか、だな。長い航海になると、このビスケットにウジが湧くらしい」
なにがおかしいのか、ふふ、と笑うノーマンに、トラーオは喉を詰まらせた。
食事中、それも頬張っている最中に、その話題はない。
「だいじょうぶか?」
いったいだれのせいで、こんな状況に陥っているのか、ほんとうにわかってない様子で訊くから、よけいにむせる。
「ところで」
と涙目になったトラーオに、こんどは真顔でノーマンが訊いた。
「セラフィナを見初めたのは……いつだ?」
ぶはーッ!! とこんどこそトラーオは一気に咀嚼中のブツをノーマンの顔めがけ吹きつけてしまった。
げへんげへへん、とむせ返る。
ノーマンがゆっくりと、掌で顔を撫で、飛び散った粥状の物体を除去した。
「なんだ、それほどに好いていたのか」
それから、なにごともなかったかのように、質問を続ける。
このひとわー。トラーオは、自由の利かぬ肉体のうちで、かあっ、と血潮がうねるのを感じた。
「で、いつからなのだ?」
ほんとうにまじめくさって、主人を待つ忠犬みたいな顔で言うから、トラーオは困ってしまう。
「い、いや、かなり昔から、です」
「ひとめぼれか」
「だ、だから、ですね……」
あーもー、この朴念仁ッ!! トラーオは思う。
さきほどまで抱いていた敬意はどこへやら、だ。
「そうか。それほど想っていたのにも関わらず、気がついてやれなかったな。すまないことをした」
さらにはなぜか、殊勝に頭を下げたりするではないか、朴念仁が。
トラーオは困ってしまう。
「しかし、できたら、相談してほしかったな。先達として」
いや、他のことならばともかくも、決して、貴方に恋愛相談だけはだれもしないと思います、とは、まさに思ってはいても声に出せないトラーオである。
「ちなみに、先達としては、どういうアドバイスをなさいましたかな? もし、相談を受けていたのなら」
どういう話の流れか、不味そうにちびちちびりと、しかし不平を漏らさずビスケットを噛っていたバートンまでが参戦を表明した。
「やはり、正面から、堂々と、名乗りをあげて、だな」
「トラーオ、この男のいうことは、無視しておきましょう」
敵陣中央なら食い破ってもかまいませんが、それでは乙女心を食い破るだけですな。
バートンは、ノーマンの恋愛観を一蹴して、トラーオに向き直った。
ノーマンは、といえば、ぽかん、と口を開けている。
「こんな朴念仁に付き合いきれるのは、ダシュカマリエさまのような、奇特な聖女だけですぞ。参考にはなりませんな」
その淡々とした酷評がおかしくて、ぶはっ、とトラーオは笑ってしまう。
そして、それに対処できないノーマンがおかしくて、また笑う。
「ふふ、よいことです。笑えるほどに回復したのなら、戦える」
そんなトラーオを見てバートンが言い、ノーマンも苦笑する。
気がつけば、気のせいか、いくぶんカラダが軽いではないか。
「そうか。オレを……気づかって、それで、あんなことを」
「ふふ。そういうことにしておきましょうかな。大人はいろいろと、気を回すもの。前途ある若者たちの将来には、ですな。そうでしょう、ノーマン」
「いや、わたしは、単に、純粋に、」
「とにかく、いろいろ台無しにしそうなマンの話は、おいておきましょうかな」
しかし、地図を御覧なさい。とノーマンを封殺し、バートンは地図を広げた。
だまらっしゃい、と言外に言われたノーマンは、神妙な顔つきでアゴを撫でる。
「この岬を回れば、トゥーランドット河の河口です。そして、時刻はもうすぐ払暁……意味がわかりますか?」
「意味?」
「仕掛け時、ですな。ひとことでいえば」
「どういう、ことです?」
バートンの言葉の意味が飲み込めず、トラーオは聞き返す。
「もし、歩哨がいて、一晩中、目を光らせていたのなら、夜明けは交代のための時間です。砦から降りてくる。そして、この時間帯こそ、人間の集中力がもっとも低下する、魔の時間帯。砦を攻めるなら、まさにいま、という刻なのです」
「そして、それは」
バートンの言葉を受けて、ノーマンが続けた。
地図をのぞき込むように、巨体をかがめて。
「そして、それは、この河口付近に漂着したであろうエスペラルゴの皇帝たちが、この難所を切り抜けるなら、日が昇る前だろう、ということだ」
「なぜならば、横から日の光を受ける朝日と夕日の時間帯は、影が長くのびますからな」
「敵の目に否応なくつく」
「かといって昇りきれば、こんどは交代に現れた活きのいい見張りが、陣取ってしまう。それに陽の光のなかでは、闇に紛れようもない——〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉とイリス様の和解を邪魔したあの巨躯……オウガの鏖殺具足に相違ないでしょう。姿を隠すには大物過ぎますからな」
「と、なれば、この時間帯——東からの光を、断崖絶壁が遮るこの地の利点が活かせるうちに、仕掛けるだろう」
「自分たちが仕掛ける側だと思っているならば、とくに、ですな」
「当然、後ろが甘くなる」
「まさに千載一遇のチャンス」
「ジゼルがむこう側だとは思わないのか?」
「そうかもしれませんが、一枚岩ではありえませんな。そもそも、それならば、知らせにくる道理が、ないですしな」
スラスラと作戦を並べるふたりに、トラーオはたじろくばかりだ。
このひとたちは、そんなとんでもないことを考えていたのか
「つまり、向こうは自分たちを攻め手だと考えている。そういう相手ほど、奇襲の効きやすい的はない。背後から襲いかかり、一気にセラフィナを奪還するのだ」
そして、それにはオマエの覚悟と戦いが鍵となる。
やれるか、とノーマンが訊いた。
「やります」
トラーオは答える。数秒、己に問いかけたあとで。




