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■第四十夜:カルドロンの底で


 

 ノーマンは浄滅の焔爪:アーマーンで岩肌をくりぬき、そこに流氷を放り込むと、キンキンになるまで熱した岩を投じ、湯船としてしまった。


「流氷のほうが、海水より塩が穏やかですからな」

 岩風呂を提案したバートンが、そうのたまう。

「なるほど、これはなかなか乙なものだ」

 みずからも湯に浸かりながら、ノーマンが笑った。

「まあ、思いつきはしても、普通は実行には移せないものですがな。人間ツルハシマトックのごとき存在がいなければ、とてもとても」

「ふむん。戦いを終える日が来たら、坑夫にでもなるか」


 人間マトックと言われたノーマンが冗談まじりで切り返す。

 饒舌なのはここがまだ戦地だからであり、バートンを戦友と認めているからなのだろう。


「というか……流氷を削り取ってくるとか……発想がおかしいですよ」


 桁外れの発想と、それを実現してしまうふたりの大人に、トラーオは驚きを通り越して呆れる他ない。

 ともかく、どのように大胆で荒唐無稽に見えても、男たちのサバイバル技術は凄まじかった。

 冷えきっていた肉体が、野外で得られるとは思えなかった湯船に浸かることで、またたく間に温められ、心さえも四肢の強張りとともに解けてゆくをトラーオは感じた。


「さあ、充分とは申せませんが、食事もありますぞ」


 真水は残雪から得た。

 同じく岩をくりぬいた鍋に、雪を詰め、熱した石をいくつも放り込み湯を沸かした。

 グラグラになったところへ、ハードチーズを削り入れ、ナイフも容易には通らぬほど固くなってしまったパン使って粥をつくる。

 三人は貪るように食べた。

 本来はこれも、金属製の鍋を得るのが難しい局面で、木製の容器に水を張り、そこに焼けた石を放り込むことで煮炊きを可能にするやり方なのだが、とにかく、ノーマンのやることは豪快だ。


「オリーブオイルが欲しいですな。北の青みと辛みの強い産地のものが」


 バートンのウィットにノーマンがくすり、と笑う。

 そんなことを言っている場合ではない戦場であると認識すればこそ、軽口を叩く。そういう意味で、気心が知れたふたりなのだろう。

 トラーオはぽかん、と口をあけるしかない。

 いつのまにか世界は夕刻で、すべてが斜陽によって朱に染まっている。

 嵐の過ぎた黒曜海は一転、すべてが嘘だったかのようにおだやかだ。


「つまり、我らが聖母:イリスベルダは、オーバーロード:ユガディールによって、奪取された、というのだな」


 ノーマンが話を再開したのは、焚き火を囲み、ブランデーを酌み交わす段になってからだ。

 のんびりしていたのでは、ない。

 おそらくは、ノーマンにとっては、それこそが最優先事項であったはずだ。

 けれども、あの死地から奇跡的に生還し、消耗しきった少年の心をいたずらにかき乱してはならないという気づかいが、ここまで話を聞き出すことを、ノーマンをして戒めたのだ。


 そして、トラーオとともにその奪還に赴く以上、まず、当人の回復を計ることこそ大事、と判断できる優れた指揮官でノーマンがあったことの証左でもある。

 ふたりの桁外れの発想と行動に毒気を完全に抜かれ、そのついでに絶望までもふきとばされたのだろうトラーオが、いくぶん以上落ちついた様子で応じた。

 こういう場合、情報には迅速さだけを要求してはならない。

 正確さと分析が必要なのだ。


 バートンとノーマンの考えは、正しかったことになる。


「はい。わたしの眼前で……奪われました。ただ、危害を加えるつもりはない、とユガは断言しましたし、おそらく、それを貫くでしょう」

「聖母との対話を望むオーバーロード、とはな……」


 ダシュカマリエに連絡が取れれば、すべてがつまびらかにできるのだが。

 事情を聞き出したノーマンがひとりごち、天を仰ぐ。


 そう、いま、聖母:イリスとカテル島大司教:ダシュカマリエの間には、きずなという言葉だけでは言い表せない、超空間・超次元的なリンクが結ばれているのだ。

 おそらくは、すでにこの状況すら、ダシュカは知り得ていることだろう。

 そして、しかるべく手を打っているはずだ。


 だが、いまノーマンたちがいるこのトラントリムと、カテル島の間には純粋な時間換算で、優に一週間以上の渡航距離が横たわっている。

 即座に手を打ったとて、準備に必要な時間を折り込めば、辿り着くだけで十日はかかるだろう。

 援軍の到着を待っているような余裕はない。

 そしてもし、カテル島の本隊戦力、つまり、カテル病院騎士団が聖母奪回のために上陸する、ということは、すなわちトラントリムとの全面戦争を辞さない、ということだ。

 理由を知らぬ第三国からみればそれは侵略戦争以外のなにものでもない。

 血みどろの戦いがまっているだけではない。

 仮に勝利を収めたとして、諸外国がこの戦争を、どうとらえるか。

 外交というテーブルで行われる賭事の相手に、危険極まりない切り札を貢ぐようなものだ。

 だから、この件は、なんとしても自分たちでケリをつけなければならない。

 そうノーマンは判断する。


「それにしても、聖母に降りていたはずの恩寵がかき消えた、というくだりが気になりますな」

 

 それまで報告を静かに聞いていたバートンが漏らした。

 

「トラーオのいうとおりならば、その直前まではユガディールを圧倒するほどの《ちから》であった、というのでしょう? それがなぜ、突然かき消えたのか」

「イリスさまの御力おちからは本物だ。それは死にひんしていたわたしを救い上げてくださったことからも明白」

「だからこそ、ですな」


 疑問に対しノーマンが答え、それが結果として、さらに謎を深めているのだ、とバートンも返す。

 

 そう。ノーマンは、昨年末のカテル島攻防戦のおり、瀕死の重傷を負った。

 高位夜魔にしてガイゼルロン月下騎士であったヴァイゼルナッハとの交戦において、彼と彼のまとった殺戮さつりく兵器:鏖殺具足スローター・リムによって、である。

 さらにその後に発生した、エクストラム法王庁の聖騎士パラディン:ジゼルテレジアとの戦闘で、“聖泉の使徒”としての異能に巻き込まれ、あふれ返る純水の底に沈み、もはや生還は望めないであろう状況に追い込まれたのである。

 じつは置かれた状況は、バートンも近かった。

 もっともバートンが負った傷は、主であるアシュレの狂言によるものであった。アシュレは聖剣:〈プロメテルギア〉の能力を使い、バートンの肉体に傷を負わせながら瞬間的に治療する、という離れ業をやってのけたのだ。

 それでも、ジゼルテレジアの巻き起こした純水の大瀑布に巻き込まれ、意識を失った。

 その後、ふたりを襲うはずだった死の顎門あぎとを退けたのは、まぎれもなく聖母として再臨したイリスに他ならない。

 ほとんど確実だった死から、イリスはその権能、すなわち奇跡をもって、ふたりを救ったのだ。

 だからこそ、ノーマンとバートン、ふたりの疑問は深刻だった。


「疑いようもなく真の聖母として、あの方に天の加護が降りていることはまちがいのないこと」

「しかし、実際に、その加護が失われ、結果としてイリスさまは強奪されたのです」

「わたしたちは、トラーオの言うことを疑っているのではないのですぞ」


 だが、どういうことだ。

 疑ってはいなくとも、合点がいかぬ、とノーマンはうめく。


「なにか、手がかりはないか」

「そういえば……、ユガディールが奇妙なことを言っていました」

「なんと?」

「はい。まだ……イリスさまは、聖母として未完成なのではないか、と。だからこそ、さらなる理想ねがいを求めているのではないか、と。そのための試練ディシプリンが必要だ、とも……」

「未完成? 理想ねがい? それに試練ディシプリン、だと?」

「自分自身も未完成だ、とも言っていました。ユガディールは」

「では……自身の完成のために、イリスさまを奪い去ったというのか」

「まさか、生け贄──ですか?」


 トラーオは己の言葉におののく。

 まさか、と打ち消そうとする。

 

「わからぬ。だが、どういう方法でかまでは知れぬが、連れ去った、ということはそういうことだと覚悟はしておかねばなるまい。すぐにそれを実行に移すか否か、はわからない。けれども、ユガディールの思惑だけは、はっきりしている」

「己の理想の完成、ですね」

「そうだ」


 トラーオの断言に、ノーマンが頷く。

 直前まで絶望に食われかけた意識のなかで、なんどもなんども、ユガディールの言葉を反復してきたトラーオである。

 その一点を見誤ることだけはなかった。

 うむ、気概が戻ってきたようだな、とノーマンが笑顔を浮かべる。

 目の前の少年が、頼むに足る戦士としての心を、すこしずつ取り戻していっているのを感じて。

 

「けれども、わからないのは、どうして、ボクたちがここに漂着したことを、これほど素早く、正確に嗅ぎつけたのか、ということです」

「沿岸の砦に見張りが潜んでいたか?」

「いや、それにしても、たしかに妙な話ですな。あれだけの嵐のあとです。簡単に漂着地点を割り出せるはずがない。偶然というのは、それこそ強弁が過ぎますな」

「まさか……どこからか、情報が漏れている、と?」

「それは、考えにくいのではないか。なにしろ、この船旅は急遽・・変更された、本来の計画にはなかったプランだ。そして、大海蛇:〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の襲撃は、まさに天災。それも天文学的な確立での、だ」

 そうノーマンが言葉にした直後だった。


「では、それが最初から仕組まれた計画だ、とは──どうして気がつかないのかしら。ふしぎ」 

 

 女の声がした。

 ざあああ、と大きな魚が飛び跳ねるような音がした。

 男たち全員が弾かれたように、いっせいに海面を見た。

 

 果たして、そこには魚影があった。

 弧を描く、おおきな尻尾。

 星明かりを照り返す、豊かな乳房。

 人間のものとかわらぬ腕がすらりと伸びて。

 赤みを帯びた金色こんじきの頭髪と瞳が、波間で笑っていた。

 何人もの、同じ顔をした人魚たちが、躍っていたのだ。

 

 ありえないほど澄んだ、降るような星空を背負って。

 鏡のように凪いだ海面を舞台にして。

 

 そして、その魚影が水面に没したあと、たったひとり残された女がいた。

 

 人魚と同じ顔。

 赤き黄金の頭髪に薔薇ばらの瞳。

 裸身に、巨大な古代の水瓶アンフォラを抱いて。

 

 ああ、それこそは聖なる殺戮の使徒。

 ジゼルテレジア・オーベルニュ。 





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