■第三十九夜:絶望を打ち破るもの
※
眼前に広がる光景は、あまりに虚無だ。
鈍色の空と、同じく押し寄せる、鉛色の波。
トラントリム東沿岸の風景は、どうしようもなく荒寥として、寂寞だ。
それはトラーオの心象風景の投影、そのものだ。
猫の額ほどの広さしかない砂浜に、どういうわけか奇跡的に辿り着くことができたトラーオは、そこですべてを奪われた。
信頼する先達、頼るべき仲間、恋をした少女──そして、己の命に替えても護り抜く、と誓った聖なる存在さえ。
彼は無力だった。
そして、敵はあまりに、違いすぎた。
技量が。才能が。《ちから》が。
いや、覚悟が。
人類の敵:オーバーロード。
唾棄すべき、吐き気をもよおすほどの邪悪に染まったはずの存在であるオーバーロード:ユガディールは、しかし、己の身をひしがせる圧倒的な聖母の《ちから》のまえにさえ、ひるむことなく進み出て立ち向かい、これを手中に収めた。
『わたしに注がれた理想を、どれほどのものだと思うのか』
絶対敵であるはずのユガディールが告げた言葉を、トラーオは忘れない。
私利私欲など、そこにはなかった。
己の権力と利権にしがみつき、欲望のまま専横的に振る舞う僭主の姿など、そこには一片たりとなかった。
ただただ、己の信じる道と、期待をかけてくれた“だれかの理想”に純粋たろうとする騎士の姿しか、そこにはなかった。
それが、すでに聖女であるイリスの護り、聖なる加護の御簾を退けたのだ。
そうトラーオは理解に及んでいる。
結果として、“再誕の聖母”は、その虜囚となった。
そして、ユガディールは、トラーオのことなど歯牙にもかけなかった。
いや、それどころか気づかわれた。
将来ある有望な若者を、傷つけたくない、と。
情けをかけられたのだ。
だから、まだ自分は生きていられる。
そのことが、トラーオの心を打ちのめす。
強大無比の存在であるオーバーロードに、技量や《ちから》で負けたことは、しかたがない。
けれども、決して負けてはならぬもので、トラーオは敗北した。
それは覚悟だ。心だ。そして、理想で、だ。
『未熟な心が、恐懼に震える。だが、それと、わたしが成さぬ、ということにどのような因果があると思うのか? 理想に殉ずる、とはつまりそういうことだ』
“再誕の聖母”としての権能を振い、オーバーロードたるユガさえ圧倒する《ちから》を見せつけるイリスベルダという聖女に相対したときの、ユガの言葉がリフレインする。
恐怖に震える、ということと己が成さぬことの間には、なんの関係もない、とユガは言ったのだ。
口先だけではなく、行動でそれを実証した。
男としての格の違い。
比較するにはあまりにも別格の存在と、その実在に触れ、トラーオは深く恥じた。
オレは、あんなふうにはなれない。
あれほど苛烈に生きることなどできはしない、と。
それは人間としては当然のことだ。
なぜならば、オーバーロードとは人々の理想、《ねがい》の化身なのだ。
強大な《ちから》に変換されたそれを注がれて、転成はなる。
注がれた《ねがい》が、オーバーロードたちを確立する。
強固に、強靭に、狂おしいほど純粋に。
だが、そのからくりと意味を知らぬトラーオには、正対した結果としてのユガディールだけが比較対象だった。
そして、騎士に求められる生き方とは、つまり、極論すれば“理想の追及”に他ならない。
トラーオはその理想の体現者を直視してしまったのだ。
至純の輝きは、まぶしく、ひとの眼を焼き、同時に比べられたものの影を強く映し出す。
それはもしかしたら、幼なじみの従騎士:セラが、聖母:イリスに見出した怖れと、同質のものであったかもしれない。
それは比較が生み出す恐怖。
己への失望。
狭い砂浜の波打ちぎわに彷徨い出て、トラーオは流れ着いた流木にもたれかかり、座り込んでしまった。
切れるように冷たい潮風が頬をなぶるが、もう、痛みも感じられない。
これが、挫折なのか。
これが、絶望だというのか。
いままで懸命に積み上げてきた騎士への道、理想の存在へといたる己の努力のすべてが無駄だったように思えて、トラーオは虚脱してしまう。
波にさらわれる浜辺の砂のように、いっそ、己も身を任せてしまおうか、とさえ思う。
いや、そうしよう。
そう思いいたり、立ち上がったときだった。
「トラーオ!」
そう己を呼ぶ声を聞いたのは。
幻聴であろうか、と最初、トラーオは思った。
絶望のあまり、自分はおかしくなったのか、と。
大海蛇:〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の巻き起こした暴風雨は、トラーオと仲間たちの乗った中型帆船:テメラリオ号を、木っ端みじんに破砕した。
流氷すら漂う冬の、それも城塞に匹敵する高波が荒れ狂う海に落ちて、生き延びるなど、奇跡でなければありえない。
だからこそ、“再誕の聖母”であるイリスと、彼女に護られた自分は生きていられたのだ。
だから、隊は全滅したものだと、自然にトラーオは考えていたのだ。
どうしたって、ただの人間では、いや、たとえ、《スピンドル能力者》であろうとも、あの状況では、生きているはずがない。
しかし、トラーオは間違えていた。
奇跡ではなく、己の《意志》と不屈の精神によって、その不可能を可能にした者たちがいたことを。
トラーオ! ともう一度、声がした。
呆然と、トラーオは声のしたほうを見る。
騎士がいた。
その身に帆布をまとい、抱きかかえていた老人を浜辺におろしてやりながら、こちらに向かって叫ぶ男がいた。
「ハーヴェイ卿……」
叫び返すことはできず、トラーオはつぶやく。
しっかりとした足取りで砂浜を踏んだ老人とともに、男は力強く歩いてくる。
カテル病院騎士団が誇る最強の男:ノーマン・バージェスト・ハーヴェイは、その身に帯びる《フォーカス》、浄滅の焔爪:アーマーンによって最強なのではない。
決して諦めぬ男だったのだ。
※
「よく生きていた!」
純白の義手:アーマーンによって、トラーオは抱きしめられた。
岩肌を想起させる胸板の奥に滾る熱い血潮と、赫々と脈打つ力強き鼓動は、男の精神そのものを、なによりも雄弁に物語っていた。
「ハーヴェイ卿!」
その熱さに、凍えていた感情が融け、叫びになった。
「自分は、自分はッ! いえ、そんなことより──イリスさまがッ!!」
「いいんだ。いまは、いい。まずは、冷えた身体を温めろ。まず、とにかく、よく生きていた。それでいいんだ。それだけで、すでに任務をひとつ、果たしたのだ」
なにも訊かず、ノーマンはトラーオの頭をかいぐった。
「まずは、これを。温まりますぞ」
力強き腕から解放されれば、つぎには魔法のようにブランデーが振る舞われた。
ノーマンが抱きかかえ、異能によって洋上を歩くという離れ業によって運んできた老人こそ、バラージェ家執事:バートンだったのだ。
「バートンさま」
「なにを腑抜けた顔をしとる! しゃんともたんか、ゴブレットを!」
涙と鼻水でくしゃくしゃになってしまったトラーオを、父親役のセリフでたしなめて、バートンは笑う。
木製の長細い樽の蛇口を捻り、琥珀色の液体を注ぐ。
たまらない芳香を漂わせる琥珀色の液体は、カテル島のブランデーだった。
強さにむせながら、飲み干せば、身体のなかに一筋、炎の通り道が生まれた。
「おいしい」
イリスから施された聖なる食事とは真逆の、荒々しい男性的な洗礼が、逆にこのときのトラーオにはうれしかった。
「ともあれ、まず、陣をこしらえましょうな」
その様子ににやり、と不敵な笑みを広げ、荷を解いたバートンが、手慣れた様子でテントの設営を始めた。
「ほら、トラーオ、しゃんとせんか! それでは風に負けてしまうぞ!」
「いえ、あの。テントに頼らずとも、あの船の残骸で雨風はしのげます! 衣類もあるし! すこしは道具も!」
吹きつける風にまけじと叫ぶバートン。
トラーオも怒鳴り返すが、バートンはしきりに首を振るばかりだ。
「どう思われます、ハーヴェイ卿」
「ダメだな、あれは」
そうして、問いかけられたノーマンはといえば、否定したくせに、ひとりそちらへ向かって歩いていくではないか。
「ハーヴェイ卿! わたくしも参ります!」
「トラーオ、お前はここで待て。バートンを手伝って、テントを張れ」
「でも、でもっ」
「衣類があるのだろう? 持ち出せるものは持ち出そう」
帆布をはためかせながら、そう言ったノーマンが、さきほどまでイリスとトラーオの仮の宿りであった船の残骸へと潜り込んで、五分とたたぬ時だった。
みしり、めきり、と不吉な音を立てたかと思うと、ぐしゃりべきり、と轟音を響かせ船体が崩落、崩壊するのをトラーオは目撃することになる。
なんということだろうか。
あの不自然な船体の傾きが維持されていたのまでも、イリスに与えられていた恩寵によるものだったのである。
そのことをトラーオは、この瞬間、悟ったのだ。
「ハーヴェイ卿ッ!」
だが、悲痛なトラーオの叫びに対し、バートンは冷淡だった。
「だから、いかん、と言ったのです。大丈夫。あの程度のことでどうにかなるようでは、覚悟も技量も運気も、到底、オーバーロードには太刀打ちできない。こんなところで終わるような男ではないでしょう。ノーマン、という男は」
そして、その言葉通りに、ノーマンは生還するのだ。
その肩に衣類と装備を担ぎ、展開させた右腕で瓦礫を消し去りながら。
「よし、これで衣類は問題ない。薪にも苦労せずに済むな」と、のたまいながら。
造作ない、という様子で。
底抜けの度胸、己の技量と《ちから》に対する絶対的な信頼。
そのどれもに、トラーオは圧倒されるしかない。
だが、呆れにも似た感情の動きは、絶望とは違う種類のものだ。
途方もない器の大きさ、桁違いの胆力が呼び起こすものは、笑いと希望なのである。




