■第三十八夜:聖母の略奪
奇妙な槍と携え、その容貌は風変わりな兜に覆われ、確認できない。
花弁を思わせるような独特なシルエットを、その兜は持っていた。
なにより、その騎士の異形を際立たせていたのは、その馬身と一体となった姿である。
絶滅したと言われる伝説のケンタウロスを思わせるような姿であった。
人馬一体という騎士の理想を体現すればこうなる──そういう姿をそれはしていた。
決して落馬しない、永劫に戦い続ける騎士。
もしこの場にアシュレか、シオン、あるいはアスカが居合わせれば、即座にその正体を言い当てただろう。
これこそ〈ログ・ソリタリ〉の化身にして端末=かつてユガディールと呼ばれた男の成れの果てだと。
そして、携える異形の槍こそ、時間停止の《ちから》を秘める魔槍:〈ロサ・インビエルノ〉だと。
だが、いま、このときこの脅威と相対するふたりに、それは叶わぬことだった。
それどころか、給餌に夢中になるあまり、ふたりは危険の到来に対して完全に無防備だったのである。
「なに者です!」
前を隠しながら、イリスが叫んだ。
右手が短剣を探る。
「無礼を謝罪しよう──“再誕の聖母”よ。しかし、ことは火急であった。許されよ」
「なに者かと聞いているッ!!」
なるほど、これは気丈なことだ。
そう騎士の甲冑に覆われた顔が笑ったように、イリスには思えた。
「ユガディール・アルカディス・マズナブ。トラントリム侯国の現領主……“血の貨幣共栄圏”の盟主と断言してよいのかどうか、にはためらいがあるが」
「!」
恥じるところのない、しかし、己の立場については正しい手続きを持ってかどうかはわからない、という戸惑いを感じさせる名乗りに、息を呑んだのはイリスだけではない。
「ユガディール・アルカディス・マズナブ……トラントリムの──オーバーロードッ!」
どこにそれほどの力が残っていたというのだろうか。
トラーオが毛布がわりの衣類をはね飛ばし、イリスを護るように砂浜に転び出た。
右手にはすでに抜き放たれた短剣が握られている。
「イリスさまッ! おさがりください! わたしのうしろにッ!」
憔悴を隠せない眼窩に、しかし、燃え盛る炎を宿し、圧倒的に強大な存在を睨みつけ、トラーオは一歩も引かぬ気概を見せた。
それは騎士としての意地である。
同時に、敬愛するイリスを守り抜くことができるのは、いま、自分をおいて他にない、という覚悟でもあった。
だが、対する永劫の騎士:ユガの反応は冷ややかであった。
「どきたまえ。キミには用はない。若い身空で、無駄に命を散らすことはない。わたしには、弱者をいたぶる趣味はない。それが特に、キミのように誇りと気概を持ち合わせる少年であれば、なおのことだ。将来を大事にするべきだ」
ユガの口から出た「少年」という言葉に、皮肉るような調子はなかったはずだ。
オーバーロードと成り果てたとしても、騎士の理想を注がれて降臨したユガである。
弱者をいたぶることはない。
それどころか、将来ある若者を案ずる、分別ある大人の男。
そして、己という脅威に勇敢に立ち向かう騎士に敬意を払う。
ああ、だが、だからこそ、トラーオは激しく侮辱された、と感じた。
己の未熟に自覚があればこそ。
そして、イリスから施された聖なる給餌の一部始終を知られたと感じたからこそ。
幼子のようにその胸乳にすがりついていた自分と、眼前に現われた、敵であるにも関わらず畏敬の念を起こさせるほどに研ぎ上げられた、永劫の騎士の気高さ、そのあまりの差異に。
「おおおおおおおおおおおおおおッ!!!!」
雄叫びが返答となって、トラーオの喉からほとばしり出た。
いや、あるいは、不意打ちにも似た攻撃に、この咆哮でユガが気がつけば、己は許されるのではないか、という心の動きがそこにはあったかもしれない。
ビュ、と短剣から光刃が、槍のごとく伸びる。
トラーオは恐怖に駆られた雑兵がやみくもに刃を振るうような愚を、犯さなかった。
刃を寝かせ、柄頭に左手を添える。
体を浴びせるように、相手の甲冑の隙間を狙う必殺の刺突。
短剣の間合いと油断した相手は、とつぜん、一足分も伸びてくるそれに瞬応できない。
トラーオにしてみれば、騎士の礼に則らない奇襲戦法は、恥じるべきものであっただろう。
だが、それよりもいまは、己の背後にいる護るべきヒトのために刃を振るった。
いいや、ほんとうはそれは口実にすぎなかったのかもしれない。
後になって、トラーオはそう思いいたる。
ともかく、そのとき、トラーオが抜き放ち、食らわせた突きはユガの肉体を捕らえた。
異能:《オーラ・ブロウ》──もっとも基礎的な技だが、このような状況で振えば起死回生の一撃となる、それを。
たしかに。
殺った、と、
ギャヒイイッ、と鳥肌の立つような音とともに火花が飛び散り、短剣の切っ先がユガの体表面を滑り、そして、砕け散った。
傷ひとつなかった。
小揺るぎもしなかった。
いや、それどころか、ユガは眼前に迫る危機に対して、生物が起こすであろう当然の、反射的な防御行動の一切すら、しなかった。
ユガの肉体は魔鎧:〈シュテルハウラ〉とすでに一体となっている。
なまはんかな攻撃は通じない。
けれども、そのことと、防御しないというのは、まったく別だ。
委細無視するとは、まったく別のことなのだ。
ユガはしずかに小首をかしげた。
それから、ゆっくりと、まるで、行き過ぎた悪戯をした息子を、優しい父親がしずかに諭すように、トラーオを地に這わせた。
どうやってそうされたのか、わからない。
ただただ、気がついたときには、その足元にトラーオは伏していた。
ドッ、と背中から心臓の真上に石突きが置かれた。
たったそれだけで、もう立ち上がれない。
魔槍:〈ロサ・インビエルノ〉。
その切っ先ではなく、石突きでもってユガは若き騎士の無礼を諌めたのだ。
トラーオにはわかった。
ユガがその気になれば、石突きが己の胸郭をやすやすと打ち割り、そのなかでいま恐怖に早鐘を打つ心臓を、叩きつぶせるということを。
圧倒的な武人としての格の違いを。
リアルな死の恐怖に全身がすくみ、鳥肌が立つ。
雪辱と義務感、もしかしたら恋心を抱いてしまった女性に己を誇示したいという慢心が冷え、純粋な恐怖が砂浜の冷たさとともに、這い登ってきた。
「おやめなさいッ!」
だが、その怯えは一喝に切り割かれた。
己が命を賭けて護るはずだった女性のひと声によって。
青と白に染め抜かれた布地によって申しわけ程度に隠した肌に恥じることなく、その女性はオーバーロードであるユガに正対した。
まるで幼子を翼のしたに匿う親鳥のように。
「一部始終をご覧になられたはずだ。“再誕の聖母”:イリスベルダ。わたしは、まだ(・・)、なにもしていない。ただ──貴女を迎えに来ただけだ」
たったいま、致命の一撃となったかもしれぬ刺突を平然と受け流したユガは、同じく冷然と用件を告げた。
小さく蹄を組み換える音だけがする。
「迎えに……来た?」
「いかにも。貴女の理想、目指すものと、わたしの目指すところ。それはとても近い場所にある、と感じている。だから、貴女の話がうかがいたいのだ。そして、わたしの話を聞いて欲しい」
語り合いたい、と申し出ているのだ、端的に言えば。
ユガは驚くべき内容を淡々と告げた。
聖女の言葉、聖女との語らいを欲するオーバーロード。
そのようなものを、トラーオは知らない。
「い、いけませんッ! イリスさま! コイツの、コイツらの言葉に耳を貸してはなりませんッ! コイツは、オーバーロードたちは、怪物なんです。人間とは決して、決して相いれない。ヒトの心など持ち合わせていないんです!」
震える声でトラーオが叫んだのは、矜持からだったか。
いや、もしかしたらそれは、母親や恋人を、だれか別の男に取られてしまうかもしれない、という幼くも原始的で、だからこそ強い心の働きだったのかもしれない。
「キミがいま生きているのは、その怪物の慈悲心によるものだとは、気がついているか、少年」
ぐい、と心臓の真裏にかかった圧力が、トラーオを黙らせる。
「その方を放しなさいッ!」
「もとより、わたしはなにもしていない。“再誕の聖母”よ。ただ、貴女がわたしとともに来てるれるのであれば、彼にはもう、指一本たりと触れない、と約束しよう」
「い、いけ、ない。イリスさま……いけません」
ちいさくトラーオがうめく。
「考えはわかりました。トラントリム侯爵:ユガディール・アルカディス・マズナブ。ですが、わたくしは、オーバーロードに与したりは、決していたしません」
「気丈な方だ。わたしが、この少年の命を取引に使う、とは考えないのか?」
イリスの拒絶に、ユガディールの唇が綻んだ。
「弱者をいたぶる趣味はない、とあなたは自分で言った」
「己に注がれた理想のためであれば、どのようなことでも行う。それが我々だ」
「いいえ。あなたは、決してそのような卑怯をなさりません」
ふ、と頭上で聞こえた声が、ユガの苦笑だと気がつくのに、トラーオにはしばらくの時間が必要だった。
「では、交渉は決裂だということかな?」
「交渉もなにも。あなたは性急すぎるし、わたしは決して応じません」
断固たる拒絶に、もう一度、ユガは笑った。
「貴女の言葉は、わたしのなかの人間性に働きかけるようだ。認めざるをえない。自らの未熟を。未完成であることを」
自嘲の微笑みを広げ、ならば、とユガは言った。
「ならば、実力で奪うのみ。闘争の根源に立ち返るのみ」
「現しましたね。本性を」
「いかようにも、なじられよ。だが、どうあっても、貴女には理解してもらわねばならぬのだ」
我が理想を。
「そして、わたしを完成させるためにも」
トラーオは己の上から石突きが外されるのを感じた。それは、続く一撃、心の臓を穿つひと突きのための予備動作であったか?
否、そうではなかった。
ユガディールはもう、トラーオのことなど眼中に置いてなかった。
路傍の石ほどにも気にしていなかった。
鎌槍のカタチに変形した〈ロサ・インビエルノ〉の弧が、その内側にイリスを捕らえたのだ。
「貴女を虜囚とする」
「できますか、ユガディール? わたくしは“再誕の聖母”ですよ」
「未熟な心が、恐懼に震える。だが、それと、わたしが成さぬ、ということにどのような因果があると思うのか? 理想に殉ずる、とはつまりそういうことだ」
轟、と一瞬で高まった互いのオーラの激突に、トラーオは弾き出されてしまった。
互いが放つ強大な存在感が物理的圧力に変じてドームを形成し、それがぶつかり合うさまは、どこか聖堂の壁画に描かれた聖典の一節のようで。
「おそろしくは、ないのですか?」
金色の瞳の奥から、この世のものではありえない光を放つイリスが、喉を震わせる音声ではなく、訊いた。
もし、トラーオが彼女が“再誕の聖母”として覚醒したカテル島最深部、儀式の間での最後の戦いを目にしていたなら、それがイリスの内に秘められた本性だと気がついたことだろう。
アシュレやノーマンが死力を尽くし、結果として巨大な転移を引き起こした、あの日の、世界が裏返ったあの日の再演だと、気づいただろう。
「おそろしい。けれど、それを踏み越えられぬものが、どんな理想を実現できると思うのか」
ああ、それなのに。
騎士の理想を貫く男は、一歩、踏み出すのだ。
ぎしり、めしり、と強大なイリスの圧力が、トラーオの渾身の一撃を受けてなお無傷だったユガディールの肉体を、紙細工に力を加えるように、歪ませていく。
だが、それでも。
それでもなお、ユガは足を止めない。
「わたしに注がれた理想を、どれほどのものだと思うのか」
恐ろしい重圧にひしぎながら、言い放つユガの姿に、イリスの瞳が揺らぐ。
魔槍:〈ロサ・インビエルノ〉が、ゆっくりと、引き寄せるようにその腰に伸びる。
だが、肉迫すればするほど、近づきがたき存在である実証のように、重圧は《ちから》を増す。
強大無比の《フォーカス》ですら、その刃をねじ曲げられる。
その光景に、トラーオが畏敬の涙を流した。
次の瞬間だった。
唐突に、重圧が、イリスを護る不可視の防壁のすべてが、かき消えた。
驚愕したのは、トラーオとイリスだけではない。
闘争を仕掛けたユガディールこそが、ほんとうに驚いていたのだ。
「どう……して?」
聖母の《ちから》を失い、イリスは独白した。
ただの人間として。
「拒まぬのか」
訊いたのは、ユガディールだった。
「そんな、なぜ?」
混乱するイリスの腰を、〈ロサ・インビエルノ〉の鎌が捕らえた。
もちろん斬撃など加えない。
細心の注意をもって、壊れやすい卵を引き寄せるように、ユガはイリスを掌中にした。
「は、はなしなさい!」
「それは話が逆だ、“再誕の聖母”よ。貴女が本気ならば、それは容易なはず」
「いや、はなして!」
そうか、読めたぞ。
カタチばかりの抵抗をするイリスに、ユガは深い理解を示す。
「貴女もまた、未完成だ、ということなのだ。“再誕の聖母”よ」
「未完成?」
「つまり、まだまだ、貴女も理想を必要としている、ということだ」
世界を救おう、とそういうのだろう?
貴女がいま懐胎する存在こそ、この世を絶対に救う“救世主”だと、そういうのだろう?
「その完成には、もっともっと、研ぎ澄まされた理想が必要なのだ」
そして、理想を研ぐのは、なにか?
「それは試練に相違あるまい」
ははは、と声をあげてユガディールは笑う。
「そうか、そうか、読めたぞ、“再誕の聖母”よ! 貴女は、貴女こそは、まったくこの世で真に恐れるべき存在だ! いま、貴女が我が掌中にあるのは、《ちから》を、加護を、失ったからではない! これこそ、真に貴女が望まれたことだからだ。天の思惑は果てなきかな!」
いいだろう、その思惑に乗ろうではないか。
そして、わたしはそれを打ち破る。
「そのときまで、貴女は、イリスベルダ、わたしの囚われ、だ」
歓喜に謳い、竿立ちになってイリスを略奪してゆくユガの姿を、トラーオは見送ることしかできない。
ただ、ただ、己の無力に打ちひしがれながら。




