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■第三十七夜:聖別されしもの

         ※

         

 こくりこくり、と喉が鳴った。

 たまらなく旨かった。

 味が、というだけではない。

 欲していた。

 喉を駆け下る熱い液体を。

 ひとくち、またひとくちと飲み干すたび、冷えきり強ばりきった四肢に熱い流れが通っていくのがわかる。

 暗闇のなか、金色に光る道筋が全身に巡るような感覚。

 それでいて、たまらない安らぎに意識が眠りに落ちる──あの愉悦の時間がいつまでも引き伸ばされるような。

 そんな体験をトラーオはした。

「かあ……さん」

 幼少期に家族を失ったトラーオの口から、そんな言葉が漏れたとて無理からぬことだ。

 自分は、死んだのだろうか。

 こんな安らぎに包まれているのだから。

 そんな感慨に囚われた。

「トラーオさん」

 しかし、微睡みに落ちようとするトラーオを呼び止める声がした。

 それは切実な響きを秘めていた。

 トラーオはその声に憶えがあった。

 聞き間違えるはずがない。

 なにがあろうと守り抜くと決めた女性ひと

 かならず守り抜かねばならぬ女性ひと

 イリスベルダ・ラクメゾン──“再誕の聖母”。

 

 鉛のように重たいまぶたを、意志の《ちから》でむりやりこじ開け、トラーオはその姿を確認しようとした。

 

 一瞬、素肌が眼前にあった。

 剥き出しの乳房に、白銀の頭髪が濡れて生まれたてのヒヨコのようだ。

 慈愛をたたえた金色の瞳が、トラーオを覗き込んでいた。

 

 まるで教会の天井に描かれた聖母:マドラそのものの姿で、イリスはトラーオを胸に抱いていたのである。

 青と白の布だけを頭部からかぶった以外は、一糸まとわぬ姿で。

 そして、それは己も同様で。

 目を逸らし、まぶたをきつく閉ざすべきだっただろう。

 トラーオには、できなかった。

 あまりの美しさに打たれ、ただただ、その姿に見入ることしかできなかった。

 そんなトラーオに微笑みかけ、イリスはふたたび己の乳房を含ませた。

 トラーオは理解することになる。

 あの、天上のもののような馥郁ふくいくたる薫りの飲み物が、なにであったのかを。

 理性では、いけないことだとわかっていた。

 だが、肉体が、生存を希求する本能が求めずにはいられなかった。

「よいのです」

 ひとこと、許しを告げるイリスの言葉とトラーオがそれを求めるのは同時だった。

 

 二度目に目覚めたとき、トラーオは衣服をまとっている自分を発見した。

 肉体の節々に痛みがあり、起き上がろうとしたが途端にめまいがして、砂浜に転がり落ちた。

 周囲にあった金属製の食器がつられて落ち、小さな音とともに内容物である真水をこぼした。

 どういうわけか、うまい具合に、偶然にも砕けた船の残骸がまるで壁のように雨風を防ぐカタチを成している場所に自分はいるのだと、トラーオは横たわり、周囲を見渡して気がついた。

 衣装を運搬するためのトランクをいくつか組み合わせ、簡易的なベッドが拵えられていた。

 野外において、体温はまず、地面から奪われる。

 だから地べたに直接身体を横たえることは、危険きわまりない行為なのだ。

 恐ろしく冷えた砂浜からなんとか、トラーオは這い上がろうとしたが、できなかった。

 肉体から熱とともに体力が奪われていくのがわかる。

 だが、そのとき、背後から声がした。


「トラーオさん?!」


 破れた帆布を転用したのだろう。

 下界とこの空間を切り分ける唯一の境界線を越えて現れたのは、他にだれあろう、イリスだった。


「イリス……さま」

「ご無理はいけません、さあ、ベッドに戻って」


 駆け寄ったイリスの肩を借りて、ようやくトラーオはベッドに這い登ることができた。

 情けない、という思いがつぶやきになって洩れる。


「情けなくなどありません。憶えてらっしゃらないのですか? わたくしを守るために、トラーオさんは嵐の海に飛び込んできてくださった──どんなにうれしかったか」


 取り繕うという感じではまったくなく、心からの感謝を込めてイリスが言った。

 手の甲を眉間に当てるようにして仰向けに身体を横たえていたトラーオが、目を瞠った。


「ほんとう……ですか?」

「はい。貴方は、わたくしの命の恩人です」

「そんな……憶えなんて……ない、です」


 トラーオの感想は半分正しい。

 イリスの窮地に即座に反応し、嵐の海に投げ出された彼女を追って一番最初に飛び込んだのは間違いなくトラーオであった。

 けれども、トラーオはイリスに辿り着いたところで力尽きた。

 実際にイリスを救ったのは、イリス自身に垂れられた強力な加護の恩寵、その賜物である。

 超常的な加護が、自動的に、強力に彼女を護る。

 彼女だけを。


「この家……船の残骸は……イリスさまが?」

 トラーオの問いかけに、いいえ、とイリスはかぶりを振った。

「気がついたときには、もうほとんどこのカタチだったのです。トランクは……どういうわけか、あそこから」

 降ってきたのです。

 そう指をさすイリスの指の先に、割けた船倉が口をあけていた。

 

 もし、このときトラーオが外に赴き、外観からその姿を確認できていたならことの異常さに気がついただろう。

 これが偶然などではありえないことを。

 あらゆるものが必然として、イリスだけを守るべく集められたのだということを。


 奇跡──まさしく。

 

 けれども消耗しきったトラーオには、それは気がつけというほうが無理な注文であったのだ。

 横たわったトラーオの隣に、イリスが腰掛ける。

 それだけで、じんわりとした温かさがトラーオを包み込んでくれる。

 冷えはじめていた肉体にそれは伝わり、強張りを溶かしていく。

 イリスのまとう聖なるオーラ、その周囲に張り巡らされた天の恩寵の帳を、トラーオは肌で感じる。

 この方がそばにいたくださるだけで、こんなにも温かい。

 こんなにも安らぐ。

 じわり、と涙が湧いた。

 だが、トラーオの感慨はすぐに強ばることになる。

 こんどは冷気に対して、ではない。

 イリスからの申し出が、そうさせた。


「では──お食事ですよ」

 絵画のなかの聖母そっくりの──青と白の衣装の胸元を解きながら、イリスが言ったからだ。

「!」


 トラーオは言葉を失う。

 制止の言葉めいたものは喉の奥で詰まり、悲鳴のような唸り声のような名状しがたきサウンドを奏でただけだった。

 まさしく走馬灯めいて、脳裏を記憶が駆け巡った。

 そう──まるで幼子のように、イリスからのそれを甘受した記憶、である。


「な、なにか、他のものを! か、乾パンとか! オ、オレにはそれで充分です!」

「いけません、トラーオ。身体が弱っているときに、乾パンはいけない」

「で、でわっ、か、粥を。湯で煮るだけで。オレは、な、なんでも!」

「栄養が足りません。第一、乾パンの樽をわたしは発見できていないのです。木材はすべて濡れて湿ってしまっているし、道具がないから、火は熾せそうにないし」

「ででで、ですが! これわ!」


 会話を続けながらイリスは胸元を解き終え、肌をさらした。

 あふゅへ、と反論を続けようとしたトラーオの喉から、ふたたびのアメージング・サウンドが鳴り響く。


「わがままをおっしゃらないでください。いま、わたくしたちが手に入れることのできる唯一にして、最高の栄養源なのですから。おねがいです」

「だって、だって、そんな、こんなの、いけない……」


 トラーオは両目を右掌で隠し、横たわったまま反論した。

 血の気のなかった頬に、朱がさしている。


「い、いけないとか言わないでください、せ、せっかく覚悟を決めたのに!」

 そのあまりにウブなリアクションに、こんどはイリスが照れはじめた。

 胸元を隠し、両肩を抱く。

「し、しかたのないことですから! 非常事態! 緊急対応! な、なにもやましいことなど、あ、あ、ありません!」


 だいたい、つい先ほどまで、素直に飲んでくださっていたのに!

 イリスが涙声になり恥じ入るにいたって、ついにトラーオは折れた。

 いや、もはや反論する力が残されていなかった、というのが正しいかもしれない。

 声を出すことすら、限界だった。

 

 それに、たしかに、イリスの主張は筋が通っている。

 食事を摂りさえすれば、エネルギーが補給されるというトラーオの考え方は、実は間違っている。

 食物の摂取と吸収の間に、消化というプロセスが存在していることを、思い起こさねばならない。

 さらには、消化にはかなりのエネルギーを消耗するということを。

 たとえば塊の肉を摂取すると体温が上がるのは、この消化にエネルギーが使われている証拠なのだ。

 眠気が襲うのも、根源的には同じ。

 そして、摂取した食物は、消化して、吸収するまではエネルギーとして利用することはできない。

 消化エネルギーの前払いがあって、はじめて肉体は食物からエネルギーを吸収できる。

 これがつまり、肉体が弱っているときに消化に莫大なエネルギーを要する食物を摂取することは──場合によっては危険きわまりない行為なのだという理由だ。

 肉体の疲弊度によっては収支が合わない可能性すら、ありえるのである。

 状況が悪化する、という意味で。

 

 これは治療行為に携わるカテル病院騎士団では必修の知識であり、その構成員たるトラーオは言うには及ばず、再誕の儀式を受ける以前のイリスは助手として学んでいた経緯があった。

 

 燃料の調達の難しい現在、この時点において、温かい乳に勝るものはなかった。

 トラーオは抗えず、これを口にした。

 もちろん、イリスを護った奇跡が、なぜ、燃料と火種を与えなかったのか、ということには考えが及ぶわけもない。


「イリスさま──お許しください。貴女に、オレ……わたしは、邪な気持ちを抱いてしまいました」


 給餌のさなか、トラーオが耐えられないという表情で懺悔した。

 一度目のときは思いもよらなかった、あってはならぬ衝動に襲われたのだと、告白した。

 それに対して、イリスはさらに食事を勧めながら、しかし、頬を赤らめて答えた。


「貴方にそう思われるというのは──女としては気分の悪いことではありませんから、安心してください。むしろ、なんというか……うれしく思います。あと、そういう心と身体の働き。それは、あなたの肉体が生を求めている、ということであり、活力を取り戻しつつある、という証左です。喜びましょう」

「ですが」

「そ、それに、わたくしとしても助かっているのです。倒れ伏し、冷えきってしまったあなたの姿を見たとたんに、こう、いままでにないほど……張ってしまって、破れてしまうのではないか、というほど、ですね。苦しくて……。だから、トラーオは、わたくしを助けてくださっているのですよ?」


 けれども、そう言うイリスの身体は上気し、熱を帯びていた。

 聖女然としたイリスの側面だけ観てきたトラーオの心に、人間の女性としてのイリスが巣くったのはこのときだ。

 端的に言えば、恋慕の気持ちをトラーオは抱いてしまったのである。

 ここに至るまで旅路で、いくども真夜中にすがりつかれたことを思い出してしまう。

 あのときの感触と、熱と、匂いがまざまざと、いや、よりいっそう鮮やかに脳裏を過る。

 いけないことだ、とトラーオは己の気持ちをねじ伏せる。

 この方は、アシュレさまの婚約者なのだ、と言い聞かせる。

 だが、もう、イリスから与えられる恩寵を、あの時のような聖なる気持ちだけで受け入れることはできなくなっていた。

 

 どれほど、聖なる給餌は続けられただろう。

 イリスのそれには、当然だが、特別な《ちから》が宿っていた。

 乳とは血の変じたものである。

 そして、すでにイリスという存在は血肉のすべて、骨にいたるまで聖別されしものである。

 救世を望む衆生の《ねがい》によって洗われた、清らかなるもの。

 そこから受け渡されるものは、すでにこの世のものではない。

 天のくにに属する、まさしく聖餐せいさんなのである。

 その授受が、どのような結果をもたらすものか。

 想像に難くはないだろう。

 

 秘められるべき聖なる沈黙を打ち破ったのは、蹄の音と甲冑の擦れる音だった。

 気がついたときには遅かった。

 潮騒と吹き荒れる風が、砂浜を噛む馬蹄の行軍をかき消していたのだ。


 だから、それはまったく突然だった。

 いきなり、入口の帆布が斬り捌かれ、荒々しく、それが押し入ってきた。

 




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