■第三十六夜:ポイント・オブ・ノーリターン
甘く熱のあるものが、口中に押し入ってきた。
それは、とろりとした口当たりのなかに柔らかくも弾力を秘めていた。
甘味だけではない。
酸味。
ヘーゼルナッツのコク。
スパイスの刺激。
最後に──忘れようもないシガーの薫り。
セラはそれを貪るように求めた。
「おお、気がついたか? 愛しの姫君」
目覚めたセラは、男の腕のなかにいた。
打ちつける波の音。
吹きつける風の音。
切りつけてくる冷気。
申しわけ程度に外気と内側を隔てる外壁は、破れてしまった帆布を転用したものに違いなかった。
トラントリム沿岸に開けたネコの額ほどの砂浜。
そこに奇跡のように打ち上げられた帆船の残骸に、いまやふたりは身を寄せていた。
「どこ? ここ、どこなの? わたしは」
混濁した意識から一転、鮮烈な外気の洗礼を受けて覚醒したセラの唇を、またも男のそれが奪った。
こんどは、熱い液体が流し込まれる──たっぷりの砂糖を加え、ハーブ類を入れて、アルコールを飛ばして、煮出した赤ワイン。
身体のなかにひとすじ、熱い道ができるのをセラは感じた。
涙がでるほど美味しかった。
肉体の欲求に拒絶できず、いくども繰り返される口づけに逆らえない。
「ダメ、これ以上はダメ」
そう拒絶を言葉にできたのは、もうさんざんワインを飲み干したあとだった。
「つれないねえ、ずっと温めてやってたのに」
「離してッ、卑怯者ッ!!」
「まちなさいって、まだ繋がってんだからさ!」
そう言われてセラはやっと気がついた。
いま、自分が置かれた状況に。
「あ、あ、あ、」
「冷えきってたからな?」
温まっただろ?
屈託なくそう言い放つメナスはやはり、どこか常軌を逸した男なのだ、とセラは理解した。
いや、彼自身が言うように本当にエスペラルゴの皇帝なのだとしたら、そして、そうであるにもかかわらず、こんな場所に自ら赴いてくるような人物が、普通であるはずがなかった。
全部が、これで精算されると──怒り狂う〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉が帆船に襲いかかり打ち壊す瞬間を思い返してセラは泣いた。
決定的な破滅を望んだ。
みんな、めちゃくちゃになってしまえ。
そう望んだ。
だから、あの一瞬、セラの胸中を満たしていたものは、恐怖のなかに詰め物として射込まれた暗い希望の愉悦だった。
それなのに。
それなのに──助かってしまった。
それもまた、この男に囚われてしまった。
自覚した途端、あらがえない衝動の波に翻弄され、セラは泣いた。
その様子に、メナスは低く笑う。
セラの剥き出しの鎖骨に唇を這わしながら。
「いいねえ。心の砕ける音。心の壊れるときの薫りは。甘美だねえ」
「おねがい、おねがいします、もう、もうやめて」
「なんでさ。いま、ここにはオレとアンタしかいない。考えようによっちゃ、こりゃあチャンスだぜ?」
「チャンス?」
「そーさ。過去を一気に清算できる。アンタのお仲間──カテル病院騎士団の連中は、アンタが死んだかもしれないって思ってるかもじゃないか。どうせ帰れないんだから、選んじまいなよ、オレを」
セラの耳朶を噛みながら悪魔のようにメナスは囁く。
「えら、ぶ?」
「忘れたのかい? オレの妃になりなって話さ。こう見えてオレは約束は守る男なんだぜ?」
それにアンタ、自分で気づいてないかもだが、かなりイイゼ? 外見だけじゃなく、内側も。
「そんな、そんなの……」
含まされたワインには、そのような薬効が仕込んであったのだろう。
口中に押し込まれたあの甘い食べ物がチョコレートであったのなら、やがてあの耐えがたい衝動が襲いかかってくることは必然だった。
いや、ほんとうはそう思いたかっただけなのか。
くらりくらり、と薬効によるものか疲労と消耗からのものかわからぬめまいに、ふたたび朦朧となりながら、セラはメナスの言葉の意味を考えた。
もう、わたしは死んだと思われているかもしれない。
どのみち、もう、あそこには帰れない。
居場所なんてない。
許されるはずがない。
ううん、自分が許せない。
それなら──妃になってしまうのも、ありなのではないか。
この男と「正しい関係」になってしまっても、よいのではないか。
いや、それしかないのではないか。
正しさの側に留まるためには、もはや、それしか。
己の内側で精神を規範に責められ、外部ではメナスに翻弄され、セラにはそうとしか考えられなくなっていた。
だが、それでも──セラを踏み止まらせたものは、唯一、恐怖という感情だった。
それも唯の恐怖ではない。
異能への。
圧倒的な超常者としてのイリスに対する畏れが──そうさせた。
「ダメ、ダメ、できない、できないよ。無理だよ」
「できないって、どういうことさ? アンタ、頷くだけでいいんだぜ?」
「見つかる、見つかってしまうもの! 逃げられない、イリスさまと、ダシュカマリエさまからは──逃げられないんだ!」
「ああ? あのすげえ後光を放つ──あのヒトがそうかよ! で、イリスベルダから逃げられないって、どういうことだい?」
怯えて取り乱すセラをなだめながら、メナスは訊いた。
「おふたりは、精神的に結ばれているって聞いたもの。本物の預言者であるダシュカマリエさまとリンク関係にあるイリスベルダさま──おふたりの《ちから》から逃れるなんて、無理だよ。どんなことでも予見してしまわれる。知られちゃう、知られちゃうよ」
どうしようどうしよう。
己の生存を、居場所を、そして背信を。
セラはそこまで思い至り、狂わんばかりになった。
だが、その腰を深く抱き寄せ、メナスは静かに言った。
「詳しく話してくれねえかな……その話」
肉体に加えられた強い衝撃が、皮肉にも錯乱し壊れそうだったセラを引き止める役割をした。
長く尾を引く悲鳴のあと、糸の切れた人形のようにメナスにもたれかかり、セラは一部始終──預言者:ダシュカマリエと“再誕の聖母”:イリスベルダについての一部始終を、問われるまま、あらいざらいメナスに話してしまう。
ポイント・オブ・ノーリターン。
二度と家路を辿れぬ分岐点。
それが、ここだったと、後になってもセラは気づかない。
「ははあ、なるほどなあ。“再誕の聖母”ときたか。預言者としてのダシュカマリエという女は知っていたがね……。そのふたりは、超常的な手段で繋がっている、と。そりゃあ厄介だなあ」
そりゃあ、つらかったなあ。
壊れたように涙をこぼすセラの頭を撫でてやりながら、メナスは言った。
己がセラに振った所業など、どこ吹く風という調子。
しかし、いまのセラにとってメナスは唯一の理解者、味方だと思えた。
なぜなら、セラの独白を聞き終えたメナスは誓ってくれたのだ。
「わかったぜ……オレがアンタを自由にしてやる。思った通りに生きることのできる道を作ってやる──そのクソ忌々しい神様の影を引き摺る二匹のバケモノを、ぶっ殺してな。いま、他の生存者をビオレタたちが探しに行っている。ソイツがいたら、キッチリ、消し去るよう、もう命じてあるんだ」
あああ、あああ、とセラは泣く。
どうしてわかってしまうのだろうと。
わたしの心がこの男には。
そうだ、怖かったのだ。
神様の影が。
セラのまわりにいた男たちのだれひとりとして、そんなことは思いもよらなかっただろう。
こんなセラの告白に、こんなふうに応じてくれなかっただろう。
だが、この男は違うのだ。
「かならず、かならずこの世界からやつらを取り除いてやるよ。アンタの居場所を、その生死を、探ったりできないようにさせてやる。人間はどこに行くのも自由なんだって、教育してやる。ヤツらに」
だから、セラ、アンタはひとこと、誓うだけでいいんだ。
「オレのモノになると──妃として」
そして、セラはその申し出に頷いてしまう。
なります──そう誓ってしまう。
貴方のモノに。




