■第三十五夜:断章
墨を流し込んだ水が浄化されるような不思議な光景が、ノーマンの背後から、その戦いを追い抜くように展開した。
そして、光に包まれた箇所だけは、まるで周囲の荒れ狂う海こそが虚構であるかのように、次第に凪いでいくのを、ノーマンは見た。
奇跡。
この光景をそう呼ばずして、いったいなにを、呼ぶのか。
迫り来る高波と暴風が、その輝く球状フィールドに阻まれ、雲散霧消していくのを眺めながら、ノーマンは油断なく眼前の〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉を睨めつける。
怒り狂い荒れ狂う大海蛇はそれでもなお、巨大な水柱や高波、霹靂(※注:稲妻のこと)を繰り出してきたが、イリスの発する光の障壁──後光とでもいうのか──に触れると、それらは途端に勢いを失い、前線を守るノーマンの下に辿り着く頃には小さな波に、あるいはかすかな煌めきに変わってしまうのだった。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな……」
ノーマンは振り返ることなく、畏敬の念にうたれ、聖句を噛むようにして繰り返した。
いま、振り返ってしまったら、そのあまりに偉大な光景に自分は目を焼かれてしまうだろう。
そう思ったのだ。
そのとき、背を向けたまま敵と対峙するノーマンは知らぬことだったが、牙を剥く暴威=〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉に対して、舳先にまさしく 船の守護者として立ったイリスは両手を広げ、まるで触れ合いを求めるかのように両手を広げていたのだ。
対話を求めるかのように。
そして、ノーマンは驚愕の現実を目のあたりにすることになる。
徐々に、繰り出される攻撃が減じ……いつしか、大海蛇の怒りに燃える瞳からは狂的な光が失せ、背びれがたたまれ、それどころか、自ら進んで光の球の内側へと進み、歩み寄ろうとする──そんな現実を。
まさか、と驚愕し、眼を見開くカテル病院騎士の眼前で、しかし奇跡は圧倒的に現実であった。
さらには、まさしく驚嘆すべき事態に、ノーマンは直面することになる。
進み出た〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の頭頂に、女がいた。
妙齢の、美しい女。
凛、という音で表すのがもっとも正しいだろう、ひとりの巫女。
蛇の一族は女系であり、その巫女が長として一族を治めていくのだという伝承が脳裏を過った。
で、あれば、その女こそ、ヒトとしての化身:〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉本人に違いない。
すっかり静けさを取り戻した船の周囲へと障壁を超えて入り込む〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の進路と、いまだ戦闘態勢を解かぬノーマンのそれが対面でぶつかる。
ノーマンはまっすぐに頭上の巫女を見上げた。
巫女としての〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉は、感情の感じられぬ視線でノーマンを見下ろしていた。
「ハーヴェイ卿」
声は、やはり背後からだった。
もはや争うことは、ないのです──そういう思念が、そっと手を添えるように働くのをノーマンは感じた。
『これが、これこそが聖母としてのイリス、いやイリスベルダさまの御力なのか……』
ふたたび、畏敬にうたれ、ノーマンは両手を下ろす。
そのさまに、小さく〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉までもが頭を垂れた。
まるで礼をするように、感じられたのは気のせいだろうか。
ノーマンは、〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉が己の脇をしずしずと通過していくのを、驚愕の面持ちで眺めた。
それから自らがそれを許してしまったことに、さらに驚いて。
──しかし、見送ることしかできなかった。
それは、ひとこと、神秘的としか形容しようのない光景だった。
けっして対話など成り立たぬであろうはずの人類と、その仇敵たる魔の十一氏族のうち、竜にも匹敵する言われた大海蛇が、黒曜海沿岸諸国にその名を轟かせた一柱:〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉が、これほど穏やかに対面することなど、これまでの歴史のなかであっただろうか?
寡聞にも、ノーマンは知らない。
オレはいま、まさに、本物の奇跡に立ち合っているのだ。
知らず、ひざまづき、ノーマンは祈りを捧げる。
ノーマンが送る視線の先に、後光を発する存在:イリスベルダがいた。
そして、圧倒的な力を誇る〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉さえ、その神々しさに、敬意を持って対話に臨もうとしている。
これが奇跡でなくて、なんだというのか。
ノーマンは、震える心と同調した肉体もそのままに、この世のものとは思えぬ光景を見ていた。
「イリス……われらが再誕の聖母:イリスさま」
そして、船上で祈りを捧げる男たちのなかに、トラーオがいた。
イリスの登場は突然で、だから、それはほとんど──“降臨”と言ってよかった。
その光景に完全に虚を突かれ、唖然、呆然としていた男たちだったが、誰彼と、申し合わせたわけではないのに膝をつき、イクス教の聖母:聖マドラの名を唱えはじめた。
船長からして型破りなテラメリオ号の乗組員たちであったが、その船籍はエスペラルゴ帝国、つまり、原理主義的と言ってもよいほど厳格なイクス教徒の国だ。
ふだん、どれほど放埒な海の男としてふるまっていたとしても、いや、そういう海の男たちだからこそなおいっそう、信心には篤いのかもしれなかった。
一切の前置きも説明もないままに、彼ら海の男たちに畏敬の念を抱かせ、ひざまづかせ、祈らせる。
イリスの神々しいとしか表現のしようがない姿に、トラーオは例えようのない誇らしさと、自らが信じ、ともに歩むカテル病院騎士団の理念の正しさを再確認するのだった。
けれども、その光の清らかさ、正しさに──どうしようもない恐れを抱く者もいたのだ。
セラは船長室のぶ厚い扉の鍵穴から、その光景を見ていた。
シーツだけを纏った全身から、どうしようもなくメナスの匂いがする。
室内は嵐によって掻き回され、ちょうど現在のセラの心境のように、ひどいありさまだ。
書類の束が散乱し、インクとワインがぶちまけられ、調度の類いで固定されていない品物はことごとく弾け飛び、転がるか割れてしまった。
炉から飛び出した埋み火が、まだ燻っている。
その夜も、セラは部屋を抜け出し、メナスの部屋を訪った。
いけないことだとわかっていた。
こうして逢瀬を重ねるたび、罪を重ねていることはわかっていた。
自分で自分を、メナスの玩具へと貶めているのだと、わかっていた。
それなのに、求めることをやめられない。
激しい罪悪感と羞恥に苛まれながら、その夜も、メナスを求めた。
そこでこの世の終わりなのではないかと思えるような嵐に遭遇した。
それが、〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉という怪物の巻き起こしたものであることを知った。
しかし、その嵐と強大な暴威の到来がセラに抱かせたものは、恐怖ではなく、むしろ許しに似た安堵、これで自分をなかったことにできるかもしれない、という終末への期待だった。
抗いようのない圧倒的な暴威の前に倒れたなら、それは自らの背徳と背信をも同時に洗い流し消し去ってくれるのではないか。
そう期待したのだ。
天の國でもなく、地獄でもなく、決して目覚めることのない眠りへ。
暗い水底へ、〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉が連れて行ってくれるのではないか、とそう期待したのだ。
イクスの聖典に綴られた教えより、圧倒的な現実の《ちから》がすべてを打ち、無に帰してくれるのではないか、と。
だが、セラのその後ろ暗い期待は、突如差し込んだ清浄な光によって打ち砕かれた。
その光の主:イリスベルダの温かな波動と優しい輝きに、男たちはおろか、嵐と地震と津波を司る大海蛇:〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉でさえ頭を垂れ、恭順の仕草を見せようとしていた。
美しかった。
清らかだった。
それはひとことで言って地上に降臨せし奇跡:“聖なるもの”だった。
あらゆるものがひれ伏し、彼女を崇めるのは当然のことであろうと思われた。
祈りを捧げる男たちのなかに敬愛と崇拝の眼差しで、イリスを見上げるトラーオの姿があった。
当然だ、当然だと……思った。
イリスベルダさまは“再誕の聖母”なのだ。
カテル島の、いや、この世界で業苦に苦しむすべての人々が待ちて望みし光、“救世主”の母君なのだ。
ああ、それなのに──どうしてわたしは、あの方を見て感じるのだろうか。
惨めさを。
自らが汚れて、堕ちて、そして、そこから抜け出す努力を放棄した存在であることを。
ずくずくと下腹が疼き、どす黒い感情が胃の腑で渦を巻くのを、セラは残酷に研ぎ澄まされた感覚のなかで受け止めていた。
覗き込んだ鍵穴から目を離すこともできず、まぶたを閉じて拒絶することもできず、進行する物語のように美しい一場面を凝視したまま《ねがい》を、己のなかにある《ねがい》を、自覚した。
壊れてしまえ。
めちゃめちゃになってしまえ──わたしみたいに。
セラのその《ねがい》は、叶う。
どちらが先であったものか、わからない。
ただ、それは一瞬だった。
黒い影が、すでに互いに触れ合わんばかりだったイリスと〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の間に飛び込んだ。
その姿を正確に捕らえることができたのは、セラと──いまだ海上に留まり続けるノーマンだけだった。
巨躯であった。
一見して巨大な猿のごときシルエットをそれは有していた。
だが、その体表面にあるべき体毛は一本たりとてなく、代わりに金属とも陶器ともつかぬ不思議な光沢を放つ装甲と、その内側から生え揃った無数の獰悪な形状の刃が、鱗のようにそれを彩っていた。
魔物──否、紅く光る眼をもつそれは戦鬼、その戦闘形態である“鏖殺具足”、そのものであった。
「いかんッ!!」
そう叫び、ノーマンが飛び出すのと、セラが己の暗い《ねがい》の実現に息を呑むんだのは、同時だった。
だが、そのオウガの一撃は、イリスに向けられたものではなかった。
振り下ろされる巨大な刃そのものと化したオウガが狙ったのは──大海蛇:〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の命。
そして、その一撃が届くか否か、その瞬間、〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉は覚醒したように動いた。
イリスベルダが共有した理想郷の景色から、現実に目覚めるように。
両方ともが雷光の速度で、だった。
びゅううっっ、と熱く赤い花が咲いた。
けれども、その一撃は〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の命を散らさない。
ただ、その右半身を掠めたのみ。
顔から肉体の表面を、上下に。
シャアアッ、と〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉が口腔を広げ、そこから特徴的な長い牙と舌がのぞいた。
身にまとう衣が切り裁かれて落ちる。
押さえられた右半面からどっと血が溢れ、その赤さに負けぬ眼光が世界を敵と認め──恐ろしい《ちから》がテメラリオ号を打ち砕くのは、ほとんど一瞬の出来事だった。
逆鱗にふれるという言葉は、このときのためにあったのであろう、というほどの破壊が、英雄を求める者たちの頭上から降り注いできた。




