■第三十三夜:憧憬を駒にして
※
ぐうらり、と静かだった海面に、嫌な感じのうねりが入ったのは突然だった。
「どうした」
剥き出しの上半身に船長を示すコートを羽織っただけのメナスが、舵を取っていた副長に声をかけたのは、そのほとんど直後だ。
「突然、時化てきやがりました。船長、コイツはおかしい。さっきまで雲なんかどこにもなかった。キレイな星空だったんです。そいつが、いきなり……アタシには、雲が船のまわりに湧いて出てきたようにしか見えなかった」
ふたりが、そんな会話を交わす間にも風は勢いを増し、見る見る間に海は荒れ模様となった。
しずかに星空を移し込んでいた水面が一瞬で灰色になり、荒れ始めた。
やがて強風に雨が混じりはじめる。
氷混じりの冷たい雨が、打ちつけるように降り始めた。
この雨が雹に変わるなら、さらなる注意が必要だ。
大人の拳大に成長したそれは、人間を殺傷し、脆弱な建築物の屋根を破壊する。
天候というより、もはや攻撃兵器と呼ぶべきものだ。
「全員、叩き起こせ! コイツは普通じゃねえぞ。この時期の黒曜海がこんな荒れ方するなんてな、ありえねえ。ビオレタに準備するように伝達だ!」
アイサー、と副長は了解を示し、船倉へ駆け込んでいく。
命令を聞くまでもなく事態を察知して飛び出してきた船員たちで、甲板上は騒然となった。
「野郎ども、持ち場に着けッ。帆を降ろせ! 破れるどころか、へし折られるぞ!」
ごうごうと吹きつけはじめた強風に負けじとメナスが声を張り上げる。
「ヘルトマンの旦那ッ、女子供は表に出すなッ。甲板で転んだだけで、充分死ねるぞッ。でけえ雹なんかくらったら、頭がカチ割られちまう! だが、こりゃあ、アンタの出番かもしれねえッ。力を貸してくれッ!」
メナスは恐ろしい力で暴れ回る舵輪を押さえ込みながら、目敏く甲板に姿を現したノーマンの偽名を叫んだ。
呼ばれたノーマンは了解だ、と手を差し上げ、自らはメナスに向かって駆け出した。
船乗りの足、と呼ばれる激しく揺れる船上での足さばきは、簡単に体得できるものではない。
それもこんな悪天候の濡れた甲板上を疾駆できるほどの熟練となると、よほどだ。
それをノーマンは見せた。
メナスが目を瞠る。
「おたく……凄すぎるぜ」
操舵席に駆け上がってきたノーマンを見て、呻くようにメナスは言った。
「この荒れ方、普通ではない」
舵輪に手をかけメナスの負担を肩代わりしてやりながら、ノーマンは己の所見を述べる。
「おたくもそう思うかい……カテル病院騎士団の筆頭騎士さまが言うんじゃあ、こりゃあもう、間違いないな」
「貴君、知っていたのか?」
「カテル島から乗船して、その純白の義手、《閉鎖回廊》を越えてまで行かなければならない女連れの特務に、それからあの足さばきと、これで気がつかなけりゃオレの頭は帽子かけ以下だ。バカだね、そんなヤツがカテル病院騎士以外のだれだってんだい、ハーヴェイ卿=騎士:ノーマン? ちがうかい?」
メナスの軽口にノーマンは凄みのある笑みを浮かべたのみだ。
すべてを認めた上で「これから、なにが起る」とその笑みは簡潔に現状だけを問うていた。
「どういう理由でか、はオレにもまったくわからんし、心当たりがないんだが……そうら、言ってるそばから──おでましだ」
荒れ狂いはじめた冬の海、その白波立つ海原に、突如として起立するものがあった。
それははじめ、塔のように見えた。
周囲に雲をまとった。
月と星とが厚い雲に遮られ、暗闇となった世界に稲光が走り抜け、一瞬白く浮かび上がる視界のなかで、腹の底まで雷鳴が轟く
この世の終わりかと思うような光景のなかに、それは忽然と姿を現したのだった。
虹色の輝く帯が、発光しながらその塔を駆け降りていく。
だから、その塔はこの暗闇と混乱のなかで見ることができた。
そして、それが塔などではないことを、明らかにもした。
それは、蛇であった。
巨大な、天を突く。
周囲を取り囲む雲のごとき物は、彼女の六対十二枚の羽根、そのシルエットでしかなかった。
大海蛇──〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉。
伝説に謳われた黒曜海最大の怪物が、いま一行の眼前に姿を現したのだ。
「舵はまかせる」
轟きわたる怒号と雷鳴のなかで、ノーマンはそうメナスに告げた。
※
突然の暴風雨と叩きつける氷雨。
そして、それをまとって現われた巨大な大海蛇:〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉を眼前に、抗うノーマンとメナス。
彼らを襲う過酷な運命は、しかし、天の采配や偶然ではありえなかった。
そう、そのすべてが──ヒトの手により操作された、仕組まれた罠だったのだ。
すべては、厚い歴史の帳の奥で行われた謀に起因する。
※
「承服しかねる」
いかにオマエの言葉であろうとも、いや、オマエの言葉であればこそ。
幾重にも重ねられた純白の薄絹を、藍染めの紐と紅色の珊瑚の玉で束ねて羽織った巫女が言った。
「もとより、このような申し出に、キミが応じてくれないことはわかっていたよ、シドレ。なによりも平和と静謐を愛するキミが」
そう答えたのは、老齢の男──ビブロンズの文人皇帝:ルカティウス十二世、そのひとである。
そして、シドレと呼びかけられた妙齢の巫女こそ、黒曜海の大海蛇:〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の化身、いや本体であった。
蛇の巫女たちの本来の姿は、このようにヒトに極めて近いのである。
かつて、土蜘蛛の凶手姉妹、その妹の側であるエルマが召喚したヘリオメデューサ:タシュトゥーカも、やはり同様の本質を持っていた、というのは余談だ。
皇帝:ルカの言葉に、当然だ、とシドレと愛称で呼ばれた巫女は答える。
「我らは、我ら自身とその聖域、そして黒曜海の静寂を侵さぬ限り、自ら望んで人類を手にかけたりなどせん……それは、オマエとの約束だからだ。そのことをいちばんよく知るオマエが、どうしていまごろ、そんな話をするのか」
シドレの声は悲痛さを帯びていた。
それが、この迷宮のごとき地下図書館に響きわたる。
この世に一冊しか現存しない貴重な書籍たちがそこには収められ、丁寧に埃や湿気、そして紙魚による侵食から守られて、ここにある。
この大図書館:ビブロンズこそ、同じ名を関する帝国の基礎であった。
アガンティリス滅亡期に失われたとされていた書籍、人類の叡知の結晶の数々がここには収蔵され、歴代の皇帝たちの手によって護られ、受け継がれてきたのだ。
その歴史の重みは、実に数千年分に達する。
この人類の叡知を後世に残し伝えていくことこそ、ビブロンズ皇帝の矜持であったのだ。
「人類の、それも無辜の民の船を、襲撃せよなどと!」
だから、その誇るべき叡知の守護者=皇帝:ルカティウスと、護り語り継がれるべきものたち=膨大な書籍群を前にして、シドレの叫びはいっそう悲痛だった。
「それは、聖域への不可侵と静寂の約定への背信! オマエの曽祖父=ルカティウス十一世との約定を違えることになるのだぞ!」
「彼らを放置すれば、いずれ遠からず、巨大な戦乱の発端となる──いや、すでに、彼らはその最初の、端緒の焔なのだ」
「なぜそう言いきれる! オマエに未来を予見する《ちから》など、そのような異能などあるまいに!」
「シドレ、キミの指摘はまったく正しい。わたしは、無能力者だ。《スピンドル》能力に恵まれているわけでも、キミのように超常の《ちから》を生まれながら持ち合わせているわけでもない。別れたくないと懇願する妻を、敵国に引き渡し、いっときの安寧を贖うような卑怯者だ。だが、これだけは見過ごせない。未来は過去から紡がれる織物だ。彼ら、カテル病院騎士団は、恐るべき計画を進行させている。“再誕の聖母”──イリスベルダを掲げ、この世界を彼らが信じ標榜する天の國にしようと画策しているのだ。それは、明らかなことなのだよ?」
深い憂いの色をたたえた瞳でシドレを見、諭すルカの口調は優しい。
だが、そこで語られる話題はあまりに後ろ暗く剣呑だった。
「それだけではない。法王庁に誕生した少女法王:ヴェルジネスも本質的には同じだ。いや、彼女の理想──《ねがい》はさらに苛烈だ。この世からあらゆる穢れ・汚濁を拭い去り、おろしたてのシーツのように清潔で純白、そして、どこまでも平坦な世界を創り出そうとしている。光臨者と、それ以外という概念しか存在せぬ完全な世界を、だ」
さらには、とルカは告げた。
「いま、この世界に迫りつつある脅威はそれだけではない。東から迫るオズマドラ帝国、その皇帝:オズマヒムは、すでにヒトであることをやめつつある。真騎士の乙女たちが秘蔵する忌まわしき神器、ヒトを根幹から作り替える《フォーカス》=聖櫃:〈アーク〉によって転生を果たそうとしているアレは、真騎士の乙女たちの理想という名のバケモノだ。すなわち、英雄という概念を最上のものとし、それ以外を唾棄する精神性を、弱者の存在を許さぬ規範を、この世界に現実の王国として顕現させようとしているのだ」
つまり、とルカは結論づける。
「彼ら──アセンションを果たした超越者:強大なオーバーロードたちの思惑をこのまま許せば、われわれのビブロンズ、キミたち蛇の一族の聖域、そして、我が友:ユガディールの“血の貨幣共栄圏”──互いが互いを許し合い、譲り合うことで得てきたささやかな平和は砕け散る。彼らの強大な《ちから》と《ねがい》のぶつかり合いの間ですり潰されてしまうことになる」
彼ら、オーバーロードには慈悲心などない。
純粋な理想の体現者であるがゆえに。
彼らにとって揺らぐ心、他者に共感する心根の優しさなど、取り除くべき夾雑物に過ぎないのだ。
わたしには、それを放置することはできはしないのだよ。
シドレはあくまで優しいルカの言葉に、隠しようのない老いと絶望を嗅ぎ取った。
きゅう、と胸の奥が狭くなる。
いますぐこの男を抱き留めて、自らの熱で癒してやりたいという想いに、だ。
その凍えた心を温めてやりたいという衝動に、だ。
だからこそ、シドレは言う。
厳しく。
「未来は推測できても、絶対ではない。互いが手を携えあう世界、その明日を築いていこう──そう言ってわたしに、わたしの心に触れたのはオマエではなかったか! だからこそ、わたしは応じた。異能による一足飛びな解決ではなく、情理と礼を尽くし、言葉と文字と対話とで理想を実現しようとするオマエだったからこそ、わたしは!」
それから、その声が糾弾の色を帯びた。
「だれだ、オマエのなかにそのような疑心暗鬼を育てたものは! どうして、そこまで言いきれる! どうして、世界各地で乱立する理想の代行者たちの、強大な王や聖母たちの思惑が、オマエにわかるというのだ!」
いかに外交の巧者、情報収集の手練だとて、それこそ、オマエのなかで育った妄念なのではないのか。
シドレはそう言った。
その反論に、ルカが浮かべたものは、静かな自嘲の笑みだった。
「なあ、ルカ、そうだろう?」
シドレは、ルカの浮かべた表情に安堵を覚えていた。
その笑みの意味を取り違えていることに気がつかなかった。
きっとルカならば、わかってくれると信じていたからだ。
だが、そうではなかった。
「シドレ、わたしはキミに隠しごとをしてきた。いや、これは歴代の皇帝たちが、この世界から隠蔽し続けてきたことだ」
「隠しごと? 隠し続けてきたこと? わたしに、オマエが?」
なんのことだかわからない、という顔をシドレはした。
この蛇の巫女は、それほどに、ルカを信頼していたのだ。
シドレにルカは背を向け、歩を進める。
その先に、巨大な書架と、そこに架けられた本があった。
桁外れに大きいそれは、ともにヒトの背丈をしのぐほどである。
巨大な本のページは四方を押さえる脚が添えられており、中央上部には柔らかい光をたたえる照明器具。
いや、その器具はよく見れば美貌の女性の彫刻であり、そうだと気がつけば、ページの四方を押さえる補助脚も女性の手足なのだとわかった。
よく見ればその書架の背面から無数の手足がページを押さえ、読み手を補助する、そんな器具なのだと。
そして、さらにおかしなことにシドレは気がついてしまった。
左右に開かれていた書の右ページ三分の二は白紙で──その上を蟲のような物が這い進んでいることに。
立ち止まったルカが、その様を眺めながら言った。
「どうして、世界各地で起る事象、進行しつつある脅威をそれほど正確に把握できるのか、とキミは問うたね?」
語りかけるルカに、シドレは視線を向けられない。
そのページに視線が釘付けになってしまっている。
なぜなら、シドレは知ったからだ。
そのページの上を這い進むものの正体を。
それは、文字だ。
耳を澄ませば、かさりこそり、と文字の刻まれる音が、記述の生まれ出でる息遣いが、聴こえた。
ぶるぶるっ、とシドレは震えた。
大海蛇である彼女を震わせるもの、
それは恐怖ではなく、怒りと、嫌悪だった。
「オーバーロード」
一瞬で、すべてを、シドレは理解したのだ。
これは、この書架と本は──ただの物体ではない。
生きている。
生きている書籍。
それも、強大な《ちから》を持つ超越者:オーバーロード。
「〈ビブロ・ヴァレリ〉──わたしの、いや、我々の帝国の、最初の共犯者だ」
紹介が遅れたね、とルカは言った。
その言葉に乗せられた謝罪の想いすら、いまのシドレには届かなかった。
「バカなッ! なぜだ、ルカ、なぜ取引きした! オーバーロードたちは、超越者だ、慈悲心などやつらにはない。さきほど、オマエ自身が言ったことではないか! けっして人類の手には負えないのだ。いっときはよくても、やがて確実な破滅が待っている。いつだ、いつからなんだ!」
怒りと嫌悪、そしてルカへの明白な好意に翻弄され、動揺した声でシドレが叫んだ。
「いつから、というのは難しい。おそらくは、この帝国が築かれたときから、ずっと。わたしが、というのならば、キミと出会って恋をして想いを告げ愛を交わした、その後だ」
「やめてくれ、ルカ、お願いだ。なんでもする。どんなことでもする。だから、そいつとは手を切るんだ。さもないと、たいへんなことになる──そいつらは極端な理想の体現者なんだ。それと取引きを続けると、いつか人間は破断してしまう。なぜなら、ヒトは、人間は、人類は……わたしたちは、理想のようには生きれないから。理想には成りきることなどできはしないから」
シドレはルカの足下にひざまづき、取りすがって言った。
涙ながらに、髪を振り乱して。
けれども、老人であるルカは揺らがなかった。
ただ、憐れむような視線をシドレに送るのみ。
大人の男が、泣きじゃくる少女に、わかってもらえないことを承知で優しくするように。
「シドレ、これは我がビブロンズ帝国が、統一王朝:アガンティリスから遺産を受け継ぎ、その守護者となった瞬間から、皇帝の血筋に定められた宿命なのだ。キミの言う破断、破局を乗り継いで、我らはここまできたのだ。わたしが、わたしだけが、その桎梏を逃れるわけにはいかないのだ」
ルカは、シドレに背を向け、いまこの瞬間にも書き込まれ続ける記述に目を通しながら言った。
「ここには、わたしが知りたいと《ねがい》、異能の栞を貼りつけた存在の事実が書き連ねられる。その行動の事実が、客観的に書きつけられる。わたしはここに居ながらにして、世界の要人たちの行動の履歴を余すところなく閲覧できる。表向きに行われている外交や、大使、聖職者、医師や交易商人たちを使った情報収集は、たしかに必要だが──この事実をカモフラージュするための偽装工作でもあるのだ」
武力にも財力にも恵まれない落日の帝国が、いままでこうやってなんとかその領土と、護るべき遺産を隠し通してこれたのは、すべて彼女:〈ビブロ・ヴァレリ〉のおかげなのだ。
ルカは淡々と告げた。
「わたしたち、ビブロンズ帝国歴代の皇帝たちは、彼女──ヴァレリの神託をもとに、この帝国と図書館を守り通すべく最善を尽くしてきたのだ」
ルカの、年齢からすれば美しい手が、繊細なタッチでヴァレリと呼ばれたオーバーロードに、すでにヒトのカタチをとどめていない史上最古参の一体である超越者に、触れる。
ああ、と官能的な声がヴァレリのほのかに光る唇から洩れ、ぶるりっ、とそのページが震えるのをシドレは絶望とともに見た。
読書に淫する、そんな表現が脳裏をぐるぐると飛び回った。
見ようによっては、男の前に自らの肉体のすべてを開いて見せる女の姿に、それはそっくりだった。
触れて、読んで、暴いてくれと懇願する。
そんな姿に。
めらり、と激しい嫉妬をシドレは感じた。
愛した男と、その男が隠し続けてきた見知らぬ女との逢瀬を眼前に見せつけられたような、激しい怒り、そして、憎悪。
「シドレ、わたしを裏切り者と謗ってくれ。キミを愛しながら、わたしは、こうやって文字との逢瀬を交わし続け、陰謀と策略を巡らし続けてきた」
キミたちのような長命も異能も強大な肉体も持たぬ、ただの人間でしかないわたしには、こうする他なかった。
しかたがなかった。
多くの男たちがするような、そんな泣きごとを、しかし、ルカは一言も漏らさなかった。
ただ、自らの信じる最善を尽くすのみだ、とその背が語っていた。
そんなルカを、シドレは責められない。
悔しくて恨めしいはずなのに、愛しさばかりが募ってしまう。
だが、だからこそ、言った。
「オマエはお前の立場と信念を貫けばいい。そのかわり、わたしはわたしの信念を貫くのみだ。オマエの要請には応えられない」
「ボクの個人的なお願いだ、と言ってもかい?」
ルカの呼びかけが、とつぜん、初めて出会ったあの頃のものに戻った。
一瞬、シドレは息を呑む。
ずるい、と思う。
「だめだ、いくら、オマエの頼みでも、これは聞けない」
それでも拒絶できたのは、蛇の巫女としての矜持からだった。
ルカは、己の行為、シドレの好意につけ込むやり方に恥じ入るように目を伏せた。
きっぱりと断った自らの判断は正しかったと、シドレは確信し、すこし安堵した。
ルカが、書架の前に広げたままにしてある、これも巨大なチェス・サーヴィスの台に宝珠を抱く見事な蛇の駒を置くまでは。
「ルカ?」
それは、かつてシドレがルカに渡したものであり、そして、彼女の一部であったものだ。
シドレの肋骨、その一本。
彼女自身が自らの胸を断ち割り、取り出し、彫刻して、ルカに捧げた。
蛇の一族は、婚姻に際して、その真心の証として己の肉体の一部を、切り分け、加工して捧げる風習を持っていた。
力ある蛇の一族の肉体は竜のものと同様、しかるべき手順で加工すれば、内臓や血肉にいたるまで、それだけで素晴らしい宝飾品、あるいは強力な武具の素材となる。
危険極まりないと知りつつも、蛇を捉えようとする狩猟集団が存在するほどなのだ。
無加工の鱗一枚が金貨十枚に、細工されていればその十倍にもなる代物だ。
一頭仕留めたなら、それだけで城が建つ。
そのおかげで、下位種にあたる水生型亜人種たちまでもが、密漁の対象となっている。
シドレが戦を憎み、聖域の不可侵を絶対とするのは、このような背景もあったのだ。
そして、もちろん、シドレは己の差し出したそれに対して、ルカに見返りなど求めなかった。
それは、彼女の純粋な愛の証のはずだった。
けれど、ルカがチェスの盤上にそれを置いたとき感じたものは、その甘やかな感情の昂ぶりではなかった。
ぞくり、と悪寒が背筋を走った。
いけない、と叫ぼうとした言葉は声にならなかった。
かわりに、シドレは両手を床につく、屈辱的な姿勢を強いられた。
身体ごと這わされぬように耐えるので精いっぱいだった。
なんだこれは──そんなシドレの思考を先回りするかのように、ルカが答えた。
「〈オラトリオ・サーヴィス〉。ここの盤上に、その対象の一部を加工した駒を置くことで、相手を支配下に置く──《フォーカス》だよ」
「ば、かな」
「わたしは《スピンドル能力者》ではない、とキミは言うんだろう? そうとも、その通りだ。だが、なにも支配の《ちから》を振るうのが、わたしである必要はない。わたしはただ《ねがい》、盤上の駒を動かせばいいだけのこと」
ルカは言いながら、そのボードの横に並べられた個性的な駒たちを並べはじめた。
シドレは戦慄する。
これは、この強制力の強大さは──オーバーロード=〈ビブロ・ヴァレリ〉のものだと気づいて。
「ル、カ……」
「シドレ、キミには働いてもらう。我が帝国と、人類の叡知のために」
シドレの双眸から涙が止めどなく流れ落ちる。
眼前の《フォーカス》:〈オラトリオ・サーヴィス〉は心までは縛れない。
操ることができるのは肉体だけ。
それがいっそう残酷で、なにより、ルカを想う気持ちが止められなくて。
だめだ、ルカ、そんなことをしてはいけない。
シドレの悲痛な叫びは、しかし、もう届くことはなかった。
永遠に。




