■第三十二夜:鈍色の風景
船はゴールジュ湾を抜け、黒曜海へ。
メナスは、じつにうまく風と波とを捕まえた。
天性の勘というものがあるのだろう。
あの飄々としたいつもの態度からは、とても想像できないような働きぶりだった。
だが、順調に旅を進めていられたのは、最初だけだった。
トラントリム洋上を北進する船の進路を阻むものが現れた。
流氷である。
厳冬期を過ぎつつあるとはいっても、北方の気温は、まだまだ真冬のそれだ。
しかし、日照量は確実に増していて、それが日中の間に、氷を溶かす。
そうして、細片になった流氷が海流と風の力で、南側へ流されてきているのだ。
もちろん細片とは言ってもそのサイズは、海上に露出した部分で数メテル、その十倍の容積・質量が海中にはある。
接触でもすれば、それは岩塊にでもぶつかるようなものだ。
商用中型帆船では、大惨事を引き起こしかねない。
できるかぎり積み荷は軽い方がよい、というメナスの言を裏付けるカタチだ。
慎重に進まねばならず、じりじりと時間が過ぎた。
小国家:トラントリム沿岸の風景は、ひとことで言えば荒涼としている。
一言で言えばそれは長く続いたアラム勢力との抗争と、海賊たちからの侵略を、この地が防波堤になり守り続けてきた歴史ゆえである。
ところどころに築かれた砦には長い長い槍が差し込まれており、その尖端にボロ切れのようなものが、いくつかまとわりついていた。
そして、それはよく見れば風化した死体なのである。
警告、見せしめ、威嚇として生きたまま串刺しにされさらされた者たちの、なれの果てだ。
ノーマンも、トラーオも知るよしはなかったが、これこそトラントリムの僭主にして、いまやオーバーロードとなった夜魔の騎士:ユガが駆使した、治世の技術である。
アシュレとシオンも目にすることのなかった、外敵の侵略から祖国を守る君主としての側面である。
洋上から、その姿を遠眼鏡で確認して、胸の悪いものを見たかのようにトラーオが顔を逸らした。
「どうした」
「死体です。やりかたが残酷すぎる」
吐き気をもよおしたという表情で顔をしかめたトラーオを、ノーマンはやんわりとだが諌めた。
「トラーオ、戦争とは、闘争とはいずれ残酷なものだ。自ら好んでそうする必要はないが、やりかたは学んでおけ。いずれ、カテル島があの砦のような状況に陥ることがあるやもしれん。そのとき、見せしめひとつで敵の戦意が削げるなら、躊躇しているヒマはないかもだ。ちがうか」
ノーマンの静かな言葉に、トラーオは背筋を正した。
トラーオたちは、流氷の監視に借り出されている。
いや、なかば自発的に参加した。
この船旅は、カテル病院騎士団が立案した当初の計画には存在しない、いわばオプショナルツアーだ。
自分たちの身分詐称を知りながら、メナスは危険な時期の旅に船と船員の運命を賭けてくれた。
トラーオたちは、その依頼主=当事者なのだ。
のんべんだらりと、客室で過ごすわけにはいかない。
「すみませんッ! ご指摘の通りでした!」
「謝る必要はない。トラーオ、オマエの指摘はヒトとしてもっともな、正しい感性のものだ。だが、戦場ではそれを捨てろ。さもないと、まっさきに死ぬことになる。ただ……それは徐々に学べばいいことだとも、オレは思う。オマエはまだ若い。オレがオマエの歳だった頃には、槍の使い方も知らぬ、どうしようもない若造だったものだ」
武骨だがノーマンは優しい。
カテル島で平時において、ノーマンはその両腕の《フォーカス》=破滅の力を司る:〈アーマーン〉を身につけていない。
だから、そんなとき、ノーマンの手足となりに少年少女たちが付き従う。
だれが強制したわけでもない。
自発的な子供たちの、完全な善意だった。
つまり、ノーマンは子供に慕われる気質なのだ。
しかし、このときのトラーオには自分が子供扱いされたように思えたのだろう。
「でもっ、バラージェ卿は──アシュレダウさまは、オレとたった四つしか違わないのに、もう聖騎士で、サガに謳われるほどの武勲をいくつも成し遂げられて。それなのに、オレはまだ準騎士位で、《スピンドル》もあんまりうまく扱えない。考えもたりなくて、弱くて、ふがいない」
泣き言を並べたトラーオの胸ぐらをノーマンの腕が、《フォーカス》のそれが掴んだ。
「トラーオ、騎士として謙遜の徳を示すのは、いい。だが、それと己自身を卑下することを同列に並べるのはよせ。オマエはこの任務に選抜された戦士だ。オマエが、いまここで己の無力や無学を恥じるということは、オマエを選んで送り出した人々の意志と決断をも侮辱したと同じだ。いいか、トラーオ、よく聞け。信頼され、選ばれてここにいる、とはそういうことだ」
頬を叩かれたかのように、その言葉はトラーオには感じられた。
オレは、なんてことをしたんだ。
そういう後悔がまず湧き、それから、その思いに屈してはならないと諭されたのだと気がついた。
「もう、二度と泣き言は並べません!」
そうやって震える膝を意志で律しながら必死に背筋を伸ばすトラーオに、ノーマンは微笑んだ。
あの厳めしい普段の表情から、どうしてこう人好きのする笑顔が生まれるのか。
うわべではない優しさが現れるのだ。
「トラーオ、逆だ。泣き言は言ってもかまわない。だが、決して成すべきことを見失うな。百万回の泣き言も、一回の達成のためなら許される。人間は完全ではない。完全であるはずがない。だから、逃げてもいいんだ。むしろ、戦局を見極めたなら、積極的に逃げろ。ただし、それは真に戦うべきとき、もう逃げないために、だ」
「騎士:ノーマン、おうかがいしても……よろしいでしょうか」
「いいとも」
「バラージェ卿も……、やはり、同じでしょうか?」
その問いに、バートンはうむ、と唸った。
「オレの知る限り、あの男はいつも悩んでいるよ。泣き言や、懺悔などしょっちゅうだ。逃げ出したくてたまらない、という感じだ。おもに女性関係で、だが──」
ぷ、とトラーオが吹き出した。ノーマンも笑う。
「だが、戦場では違う。決して後ろを見せない。行動とその背中で、騎士とはなにかを体現する男だ」
これ以上は、オレの口から語ることはない、とノーマンは言った。
「その男を迎えに、オレたちは行くんだ。あとは本人に訊け」
ノーマンらしい、宗教騎士団の男らしい物言いだった。
はいっ、とトラーオは答える。
女性関係で悩むアシュレの姿を想像して、救われた気持ちになる。
トラーオは遠目にしか見たことがないが、アシュレダウという男は、夜魔の姫にさえ慕われているという。
しかもそれは、聖母:イリスベルダ公認の関係であるという。
だが、そんななかで、アシュレダウという男は、己のなかの倫理観や道徳と板挟みになって、ひどく悩むことがあるのだ、とノーマンが教えてくれた。
雲の上の存在だと思っていた男の背中が、急に身近に感じられた。
同じ人間なのだ。
たぶん、いま自分が抱えている悩みも、きっと彼ならわかってくれるだろう。
再会できたなら、思いきって相談してみよう、とトラーオは思った。
※
逃げ場のない羞恥と罪悪感と、そして狂ってしまうような恋慕にセラは責め立てられている。
あの日以来、一日と間を空けず、セラはメナスを訪う。
メナスはあの日、恋慕を植え付けた以外、なにひとつ強制しなかった。
肉欲と恋慕の想いに負けたのはセラだった。
決定的な懇願をしたのは、セラだった。
メナスはそれに応じた。
束の間、身の内を焼く炎が遠のいたとき、ベッドの上で正気に帰ったセラは青ざめ、動転して震えた。
自分のしでかしてしまったことに、そして、自分がすでに二重、三重の刻印を打たれてしまっていたことに。
ひとつは、メナスの異能:《サイレント・ソビング》によって、幾度も幾度も深く打ち込まれた恋慕の槍。
ひとつは、マリアテレジアを名乗る尼僧に持ちかけられた試練。
そして、最後のひとつは、メナスの婚姻の申し出を受ければ仲間を、これまでの自身の人生のすべてを裏切ることとなり、もし受け入れなければ、それは敬虔なイクス教徒であるがゆえに、罪を認めなければないという烙印だった。
そのうえで、メナスはなにひとつ要求せず、セラを自室から送り出した。
自らの正体を口止めさえしなかった。
からだのあちこちで燻る恋火に焼かれながら夢現で聞いた、その計画についてさえ。
部屋に帰り着いたとき、セラを案じる全員の前で出た言葉は、
「突然、ひどい船酔いになって、それで、メナスさんと、ビオレタさんに、介抱してもらっちゃって。そのまま、ベッドで眠り込んじゃって……ごめんなさい。ご心配をかけました」
すらすらと、そんな嘘が口から流れ出た。
ホッと安堵の溜息を漏らした面々に申し訳がなく、セラは逃げるように帳の後ろに逃げ込んだ。
罪悪感で、皆の前に立っていられなくなったのもある。
だが、それよりも、全身に残る昨夜の行為の残滓がずっとセラを責め立てていた。
なにより、あの尼僧:マリアテレジア=ジゼルに課せられた試練が。
フラッシュバックのように体験が襲いかかってきて、意志とは関係なく肉体が震えた。
そして、心が平衡を欠きはじめた。
偽りの愛と、それに抗えずメナスを受け入れてしまったこと。
それが、いままで押さえ込んでいたトラーオへの愛を、皮肉にももっとずっと鮮やかに、残酷なほど際立たせてしまった。
トラーオにこうして欲しかったんだ、とわかってしまった。
愛しくて愛しくて、どうしようもない。
そして、そんなときに限って、トラーオは優しい。
「セラ、ちょっといいか。あの、その、ごめんな。なんていうか、オレ、オマエの気持ちを傷つけるようなことをしてるんだよな。してきたんだよな」
帳の向こうから、トラーオが声をかけてきた。
ノーマンとバートンは、見張りを手伝っている。
理由は違っても、消耗しているふたりに、気を効かせてくれたのだろう。
「昨日、オマエの態度に気づかなかったオレが悪かった。──許してくれ」
胸が潰れそうになった。
身を切られるような痛みを感じた。
きっと、昨日までのセラが、いまの心持ちであれたなら、いますぐトラーオを帳のこちらに迎え入れ、告白していただろう。
幼少からの愛を。
ずっとずっとあなただけを見てきた、と。
だが、もう、それは不可能な選択肢だった。
潰えてしまった夢──愛だった。
「そっちへ行っていいか? その……オマエの顔が見たいんだ」
堪えきれない涙が、ぼろろっ、とこぼれた。
「ダメッ」
それだけ言うのが精いっぱいだった。もしいまトラーオと顔を合わせたら、愛しさと申しわけなさ、そして収まりのつかない愛欲に翻弄されて、なにをしでかすか自分でも、わからなかった。
ただ、そうなったとき待っているのが決定的な破局、そして破滅だということだけはわかっていた。
なにより、いま、セラの肉体には尼僧:マリアテレジアの試練が、課せられてしまっている。
それは言い逃れできない、決定的な証拠だ。
「じゃあ、一目だけでいい、顔を見せてくれ」
どうして、どうして、いままでそんなこと言ってくれたことなんてなかった。
どうして、いまごろ、いまになって。
セラは枕を噛み、声を殺して泣いた。
それから、やっと言い返した。
「いまは、ダメ。ひどい顔してるから」
「……そか、わかった」
嘘だった。
逢いたくてたまらなかった。
抱きしめてほしくてたまらなかった。
愛を告げてすべてを捧げたかった。
できなかった。
かわりに、見張りを手伝いにトラーオが部屋を空けた瞬間をついて、セラはメナスの元へ走っていた。
そして、それがセラの日課になってしまう。
セラは負けたのだ。
課せられた試練に負けたとき、感じたのは、どこまでも堕ちていくあの感覚とともに、狡い安堵だった。
「なにしに来たんだい?」
メナスは決まってそう聞く。
つれない態度で、海図と航路の確認、日誌をつけ、副長からの報告と相談を交わしながら。
もう、ここには来ないほうがいいんじゃないのか、とそんな口調で。
「わ、わかってるくせにっ」
退室を命じられた副長が出ていった扉を慌てて施錠し、急き込んで言うセラに、メナスはさっぱりだ、と肩をすくめて見せる。
「オレは忙しいんだ。船の安全を守らなきゃならない。謎かけなら、またにしてくれないか?」
なんでっ、とセラは激高しかかる。
わたしを、こんなにしたのはアナタでしょっ、とそういう怒りが口をついて迸り出そうになった。
「言いたいことがあるなら、さっさとしてくれ。ないなら、船室にもどるか、見張りを手伝ってやってくれ。そうすりゃひとり、ローテーションが空けられる。ここは平和なファルーシュの海じゃない。一瞬の油断が全滅を招く」
オマエのことなどなんとも想っていない。
そう言われたようで、セラは心臓を、冷えた靴底で踏みにじられる痛みを、また味わった。
がくがくがくがく、と膝が震え、この世の終わりが来たような心持ちで目の前が真っ暗になった。
嫌われるのが、冷たくされるのが、こわいのだ。
「要件を早く言ってくれ」
事務的な言葉が胸に突き立った。
「あなたが、ほしい」
追いつめられ、ついにセラは言ってしまった。
限界だった。
まだ課せられたままの試練が、肉体と心を責める。
「いけないことなんじゃ、ないのか? オレたちは敵同士なんだぜ?」
それに、とメナスは言った。
「求婚の返事をまだ聞いていない。そうでないのに、肌を重ねることは許されてはならない背徳だ」
そうだろう。
問い詰めるメナスに、セラはルールを理解した。
これは調教なのだ。
セラの心を踏み折り、貶める。
ヒトの心を操る手練手管。
だが、わかっているのに、いや、わかったからこそ、セラは抜け出せなくなってしまった。
「求婚は受けるのか?」
「そ、そんなこと、で、できるわけないっ」
「そうだな、それは仲間への裏切りだ。では、自室に帰るほかないだろう。昨日のことは、忘れるしかないな」
「わ、忘れられないようにしたくせにッ!!」
「つまり?」
「つまり……その、アナタには、わ、わたしを、わたしを」
「愛する義務がある? 婚姻は交わさず? それはいけないことだろう?」
くっ、とセラが唇を噛んだ。
肉が取り返しのつかないほど、ぬかるんでしまっている。
暴れはじめた本能が、理性の手綱を引きちぎる。
どんっ、と身体ごとぶつかって行った。
強引にメナスに抱き留められるカタチをセラは作った。
「殺してやるっ、殺してやるっ、殺してやるんだからっ」
泣きじゃくって言いながら、しかし、セラは行動でメナスを求める。
「いけない子だな、セラは。その様子じゃ、試練にも負けたのか?」
そこまで決定的な行動を起こされて、ようやくメナスは応じるのだ。
セラを抱き寄せ、敗北の決定的な証拠である試練から、解放してやる。
「いけない子だ」
そうささやかれ、セラは震える。
「認めるか?」
「は、はい」
くすくす、と意地悪くメナスは笑う。
心を責めて、肉体は助けてやる。
セラの窮地を救ってやる。
こうして、セラは逢瀬を重ねるたび、心と信念を丁寧に踏み折られていく。
いけない子なのだ、と馴致されてしまう。
とても口にできない秘密を、いくつもいくつも作られてしまう。
そして、これらすべてが計略なのだと知りつつも、依存をやめられない。
それは異能ではなく、メナスという男のカリスマ──人心掌握の暗黒面だ。
これがヒトを駒として調教し、用いる、“黒の帝王学”なのだ。
善というくびきから、完全に自由になった者だけが獲得しうる《ちから》。
だれにも相談できぬ闇が、セラのなかで濃さを増していく。




