■第三十一夜:あやまちの階段を
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「で、その後始末に、わたくしが呼ばれたわけですか」
分厚い船長室の扉をくぐり、入室してきたのは驚いたことに尼僧だった。
このような交易船に女性がいること自体が、まず非常に珍しい時代のことである。
稀に傭兵として、さらにごく稀に《スピンドル能力者》が乗船することもあるし、カテル病院騎士団のような例外は、たしかに、あるにはある。
にしても、尼僧の、それもとびきり美貌の、となればこれはあまりにも特異すぎた。
頭髪をすべて覆う被り物をしていてそう感じさせるのだから、この美は魔性のものといってもいいだろう。
「いやあ、ちょっとやりすぎちまってね。いきなり深く入れ過ぎちまった、というか」
ここまで罪の意識で自分を責めちまうとは、思わなかったもんで。
上半身裸で、下衣を腰骨にひっかけるようにして履いただけのメナスが、苦笑いで彼女を出迎えた。
いそいそと上着を羽織る仕草が、いかにも、たらしっぽい。
だが、男の寝所を兼ねる個室に足を踏み入れ、男の半裸を目にしても、尼僧の態度は小揺るぎもしなかった。
ただ、じゃらり、とその両手首、そして首筋に嵌められた特徴的な装飾品が音を立てただけ。
「マリアテレジア師なら、罪の意識に押しつぶされそうな迷える仔羊を救済してくだされるのではないか、と思いましてね。お越し願ったってわけです」
「しらじらしいこと。それならば、そもそも男よ、貴男のほうが 間違いを犯すな、とイクス様は仰っておいでです」
「いやー、その、まあなんというか。ほら、過ちこそがヒトの本質であり、それを赦すことにこそ主とその使徒の行いがある、とも言いますし。男を惑わせるのも女のサガとも」
それでも、さすがに言いわけには後ろめたさが隠せない。尼僧、それもどうやら賓客である彼女を前にしてさえも傲岸不遜を貫けるほどには厚顔無恥ではないらしく、ぽりぽりと頭を掻きながらメナスが釈明する。
「ともかく、扉を閉めて、施錠してくださいますか……なんてこと。かわいそうに、こんなにされては……女のコなんですよ?」
メナスの釈明を聞いた様子もなく、ベッドに横たわるセラへと歩み寄りながら、気づかわしげに尼僧が言った。
歩むたびにかちゃりかちゃり、と音がする。
それは彼女が、両手首に嵌められたものとよく似たデザインの足環をしているせいなのだ。
長いスカートの裾から、ときおりそれがのぞいて見える。
「だいじょうぶですか、あなた。お名前は」
馴れた手つきでセラを抱き起こし、枕元の水差しからその口へ、柑橘類を割り入れた水を含ませてやる。
壊れたように虚ろだったセラの瞳に、徐々に光が戻り、焦点が結ばれた。
「あ、あ、あ、」
「だいじょうぶ。だいじょうぶですよ。なにひとつ、問題はありません」
どこか悟りじみた、空疎な、それでも最低限は丁寧さを維持した──そういう言葉づかいでマリアテレジアと呼ばれた尼僧が呼びかける。
もちろん、諸兄は、お気づきであろう。
彼女こそ“聖泉の使徒”との誉れ高き、エクストラム法王庁が誇る聖騎士:ジゼルテレジアそのヒトである。
だが、その正体までをも完全に把握しているものは、いま現在、この場にはだれひとりいない。
セラはともかく、エスペラルゴ皇帝であるメナスも、そのパートナーでありオウガの血統:ビオレタさえも。
それには理由がある。
あの聖なる夜の密約において、場に同席した侍従とともにこの船に乗船した尼僧が、メナスにさえ、ジゼルテレジアだと認識できなかったのには理由があるのだ。
なぜならば、聖騎士としてのジゼルは、昨年末のカテル島攻防戦において、精神崩壊を起こし、廃人として廃兵院送りとなった、と公式発表があったからだ。
そして、それは事実であった。
帰還を手助けした聖遺物管理課のリーダー:ラーンベルト・スカナベツキ枢機卿からの詳細な報告書と証言が、それを裏付けている。
なお、後世において廃兵院とは戦争で負傷し大病を患ったり、不具となった兵士たちのための終の住み処として機能した施設をしめすが、この時代のエクストラム法王庁においては意味合いが異なった。
それはいわば、特殊隔離病棟である。
強大な敵、特にオーバーロード級の存在と渡りあう聖騎士たちは、その戦いにおいて精神侵入や汚染、あるいはあまりに激しい戦場での体験により、心を病むことが、ままある。
そういう彼らを一時的に隔離、あるいは永久に世俗と隔絶させるための施設こそ、この時代の廃兵院の意味するところであった。
特殊な訓練を施され、心を病んだ者たちに奉仕するためだけに育てられた尼僧や侍従たちと、それら精神の平衡を欠いた《スピンドル能力者》を鏖殺するだけの《ちから》を秘めた使い手に囲まれた閉鎖世界。
さいわいなことと呼ぶべきか、懸念される《スピンドル能力》は、能力者が正気を失うと途端に弱体化するという性質を帯びていた。
これはあくまで、困難な現実から逃避せず、踏み止まって戦うときに限って、最大の高まりを示す質のエネルギーであったのだ。
なるほど、《意志》の顕現とは、この特性を指して言うものであろう。
狂気によって、すなわち壊れてみせることで、現実と相対せずとも良いという免罪符を得てしまった途端、それは弱まる。
逆をいえば、たとえ狂気であってもその質によっては、《スピンドル》は維持されるのであるが、それはまた話を別とする。
ともかくそこに、ジゼルはたしかに収監された。
もはや、法王の許可なくしては二度と現世に戻れぬ厳重な封印を受けて。
つまり、公式には社会的存在としてのジゼルは、死んだのである。
余談を語れば、バラージェ家現当主:アシュレダウとの婚姻も破棄された。
その彼女がまさか、あの聖なる夜の晩餐に出席し、そしていま、エクストラム法王の特使として、乗船しているなどと、かつての上司である枢機卿:ラーンベルトはおろか、エスペラルゴ皇帝にして、テラメリオ号の現船長であるメナスでさえ、考えつきもしない真実であった。
まして、最大の秘事である「心砕かれた者が、なぜ、このように常人として振る舞えるか」という謎については。
「さあ、あなた、おなまえは? そうセラフィナ。わけを話して御覧なさい。あなたを責めさいなむその罪を、わたくしに告白してみなさい」
ただ、そう考えれば辻褄が合うように、彼女の声は虚ろだった。
それにセラは安堵した。
虚ろだからこそ、あらゆる罪を受け入れられる。
底なしの穴だからこそ、どのような穢れを投げ捨てても、だれからも咎められることはない。
無関心だからこそ、すべてのあやまちを赦すことができる。
そういう種類の慈愛を、ジゼルの声はたたえていた。
なにより、敬虔なイクス教として、結婚から始まる男女の契りを神聖視するグレーテル派の準騎士として、許されざる罪を犯してしまったと壊れそうなほど震えるセラにとって、それこそが、いまいちばん必要とされるものであったのだ。
しがみついた。
嵐に怯える子供が、使い古した毛布にそうするように。
溺れるものが、救助におもむいた者を、しゃにむに掴むように。
告解。
罪を告白することで赦されるというシステムを、イクス教は持つ。
いわゆる、懺悔である。
「語って御覧なさい。あなたの罪を」
ほとんど自動的、あるいは機械的ともいえる抑揚のないジゼルの言葉が、だからこそセラの壊れかけた心には強く響いた。
決して親身になってはくれないからこそ、告白の内容を、すぐにも忘れ去ってくれるであろうという信頼。
ヒトの心とは、なるほど不思議なものだ。
寄り添おうとすればするほど、拒絶される。
そういう種類の感情もあるということだ。
だから、セラは話してしまう。
自らの犯した罪と、ふしだらな己の肉体について。
「まあまあ。なるほどなるほど。汚れてしまった、とあなたは思っているのですね。もう決して純潔だった自分には戻れないと」
「はい。だって、だって……もう、わたし……刻印されて……しまったのです」
「ふむん」
眠たげに目を細め、ジゼルは唸った。
「じゃあ、治してしまいましょう」
あっけらかんと言い放つが早いか、ジゼルは治療の異能を振う。
「おい、ちょっ、まっ」
慌てるメナスが押しとどめる間もなく、セラの下腹に手を添えると、それを行使した。
グッ、と《スピンドル》が励起し、礼拝時に使われる香の匂いが立ちこめる。
かすかな燐光が放たれ、セラは下腹に熱を感じた。
それはわずか二、三秒のできごとだ。
「はい。これで、セラフィナの傷はなくなりましたよ。万事解決」
「えっ、だって、そんな」
「もうだれがしらべても、あなたは純潔です」
なにか問題が? にこりともせず、ジゼルが言う。セラの戸惑いに対しても、まったく揺るがないのは、ほんとうに、そんなことは大した問題ではない、と考えているせいなのだろう。
「治療系の異能って代償が、バカほどいるんじゃ……」
「たかだかこの程度、うす皮一枚となにがちがいますか」
こちらも、うめくメナスに平然とやりかえす。
「それにしたって、軽率でしたね」
「ごめっ、ごめんなさい、シスター」
「ちがいます。言っているのは、このヌケサクにです。もうちょっと考えなければダメでしょう。初めてのコをこんなにしては」
怯えるセラに一瞥を与えると、気のないようすでジゼルがメナスを叱責する。
「いやあ、あんまり可愛らしくて、つい、本気に」
「純潔と婚約を尊ぶグレーテル派の俊英さんなのですから、キチンと気を使わなければいけません。別の場所をつかうとか、いろいろあるでしょう?」
「別の」
「搦め手的なほうです」
「あーそれは気がつかなかったなああああ」
セラにはなんのことだかまったくわからない会話で、しかし、ジゼルとメナスは合意したようだ。
そのうしろで、なるほどな、とビオレタも感心したようにうなずく。
「とにかく、証拠が残るようなことはいけません。イクス様も見ておられます」
証拠、イクス様という言葉にびくりっ、とセラが身を震わせた。それはすでに肉体に馴致された、子が怒れる親に対し抱くような種類の恐怖である。
「だいじょうぶ。あなたは心からの懺悔をわたくしにしましたし、であれば、それはイクス様がお聞き届けになられた、ということです。証拠も失せました。あなたさえ秘密を守れるなら、もう、だれもあなたを疑いなどしません」
「でもっ、でもっ、わたしわたし、イケないことをしました」
「それは、このクソ野郎のせいです。やい、クソ野郎、ちゃんと手続きをふんだのですか?」
メナスが羽織りかけたシャツの首根っこを捕まえて、尼僧姿のジゼルが凄む。
ちなみにやる気はまるで感じられない空疎な様子で、だ。
「いあ、ええと……ちゃんと、お嬢ちゃんさえその気なら、妃にするって約束したし。な、したよな? ビオレタも聞いてたよな? 誓って本気だぜ?」
「なんですって? それじゃあ、よけいに問題ないじゃないですか。婚姻を前提の営みにまで、口を出すような野暮を我らがイクス様がされるはずがない」
問題なし。軽々しく断言して、ジゼルがセラを見た。なにを怯えているのですか、という不思議な生き物を視るような目だ。
「わたくしだって、かつては上司とのイケない恋に身を焦がしたことだってあるから、わかりますが、ぜんぜんセーフですよ。むしろうらやましい。ちゃんとした手続き後じゃないですか。婚約後、でしょう?」
セーフとアウトの基準がよくわからないが、ジゼルはともかく、セラを赦そうと言う。
けれども、どこか壊れてしまった大人たちの論理と、セラが信じてきた教理は違う。
もっと清らかで輝かしく、一片の染みもない、後ろめたさのない──そういうものが理想の恋だと信じてきたし、信じたいと願ってきたセラなのだ。
「ダメです、わたし、こんなんじゃ、戻れない。もう、戻れない」
自罰的になり、抱いた自らの両肩にツメを食い込ませるセラを見て、ジゼルはどこから取り出したのか、画家の使う小さな絵具用カバンほどの木製ケースを差し出しながら、小首を傾げた。
「つまり、あなたは、罰されなければ赦されたと思えないタイプ、ということですね?」
ハッとなって顔を上げたセラに頓着する様子もなく、留め金を外し、中身を披露する。
「わたくしは、単に罰されて赦されたい、という考えには同意しかねます。しかるにただで赦されてはいけない、というあなたの考えもわからないではない」
それではどうでしょう。なんの痛痒もない、淡々とした言葉でジゼルは続ける。
「試練を課しましょう。それに耐えることができれば、あなたはもう決してあやまちを繰り返さない、真の純潔者として生まれ変われる。どうですか? ちなみにこれは聖騎士たちが、魔の走狗と成り果てた人類の敵、端的に言えば、魔女と罪なき人々を仕分け、魔女からは自白を引き出すのに使う道具たちです」
いかがですか、我が妹:セラフィナ。
あなたの強い《意志》を、わたくしたちに示し、潔白を証明しませんか?
ジゼルの提案に、セラは眼前に披露され、つぎつぎと披歴されるそれら道具たちの使い方と意味を聞きながら、同意してしまう。
戻りたい、と思ったのだ。
取り戻したい、と。
トラーオの隣にいて恥ずかしくない存在でありたいと、願ってしまったのだ。
間違っていた。




