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■第二十七夜:掛け違えてしまった未来


 メナスを船長に頂く船が、ビブロンズの首都:ヘリアティウムから出港し北へと進路をとったのは、この会談から五日後のことである。

 すでにカテル島を出立してから、十日が過ぎようとしていた。

 

 急ぎの旅としては、いささかゆっくりとした旅の再開だが、これにはもちろん理由がある。

 ひとつには春の先触れでもある冬の嵐が、なかなか立ち去らなかったこと。

 もうひとつは、寄航できる港が極端に制限されていたことである。

 

 カテル島からヘリアティウムを結ぶファルーシュ海は内海、そこからシルベリオ海峡を挟んだゴールジュ湾も、さらにそこから繋がる黒曜海も、すべてが内海である。

 そこを航海する船はいわゆる外洋航路とはまったく異なり、数日、場合によっては毎日のように寄航を繰り返し、補給を受けながらの航海が常識だった。

 水も食料も、すぐ寄航できる最寄りの港にあり、内海航路の船は比較的以上に清潔で、食事も陸上でのものと遜色がなかった。

 といっても、そこはプロの船乗りたちである。

 充分な食料と水さえあれば、一ヶ月程度の船旅など平然とこなしてしまう。

 

 だから、今回の問題は食料と水の確保と積み込み──つまり一月分の船旅に耐えうる準備が必要だったのだ。

 中型帆船とはいえ、総員数二〇〇名以上の人間が飲み食いするのである。

 

 飲料水だけで一日、最低四〇〇ギットレル。

 それが少なくとも三十日分。

 それらを調達し、積み込まなければならなかった。

 

 一月分以上の食料と、水の積み込みは嵐のなかでは簡単な仕事ではない。

 

 だが、なぜ、これほどの準備をしなければならなかったか。

 それは、黒曜海の現状に起因していた。

 

 ビブロンズ帝国と国境を接する小国家群を抜けると、黒曜海の西廻りの航路は、三つある寄港地のすべてがトラントリムとなる。

 そして、ここはすでに他でもないルカティウスの口から《閉鎖回廊》に堕ちていることを警告されていた。

 かといって、東廻りの航路は一転、アラム勢力側であるか、亜人種──魔の十一氏族の跳梁跋扈するハダリの野が飛地のように点在する危険領域である。

 

 大戦の機運高まるこの時期でさえなければ、イクス教徒であっても交易を受け入れる都市国家はいくつもあった。

 だが、緊迫高まるこの情勢下、それも秘密の任務を帯びている現状では「危険極まりない賭け」と判断するべきだった。

 寄航回数は少ないほうが良い。

 寄港しないのなら、それが最上。

 つまり、ジラフ・ハザへの直航路。

 それが理想であった。

 

 そうでなければ、東西関係の緊張を理由に、アラム側からの強硬な臨検を強いられる可能性は、大いにあった。

 そもそも、黒曜海は東西文化のちょうど中央に存在する内海であり、古代より交流と貿易、そして海戦の舞台となった場所である。

 

 特にこのとき、伝統的に海軍戦力をあまり重要視してこなかったオズマドラ帝国とアラム諸国では、海軍戦力を海賊を取り込むことで補強しようという動きがあったのだ。

 対アラム勢力で有名なノーマンたちカテル病院騎士団は、海賊行為を戦闘行動の主たる活動内容としていたし、原理的な解釈によって厳格化したエクストラム正教の教義を掲げ、アラムを完全に敵対視するエスペラルゴ帝国は、その海軍提督に青髯のガラベリアムを就任させていた。

 

 不正規戦力である海賊を自軍勢力として取り込む動きは、ある種、この時代のトレンドでもあったのだろう。


 そして、黒曜海のアラム側、つまり東沿岸はハダリの野に設けられた異種族の拠点を奪い取った海賊たちが、その住み家とした古代の砦が乱立していたのである。


 この状況下で、ビブロンズ帝国と、その北側、つまり黒曜海西沿岸地域に隣接する小国家群がその独立を保てたのには、彼らの団結と涙ぐましい政治的立ち回りの他に、大きな理由があった。


 の存在である。

 それも、ただの蛇ではない。

 六対の翼ある蛇──〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉。

 この世界の嵐と地震を司ると言われた蛇の氏族、そのうちの一柱がこの黒曜海にはその勢力を保っていたのである。

 黒曜海中央に点在する島々と、その周辺の海域は海生リザードマンと蛇の眷族であるマーメイド、そして〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の聖域であったのだ。

 

 巫女である〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉を首長に頂くこの一派は、その聖域を侵すものには容赦なく、そしてまた海上で聞き苦しい騒音を奏でる相手に対して容赦なく襲いかかることで有名だった。

 

 たとえば、黒曜海での海戦。

 たとえば、西側沿岸を攻めるアラム勢力の軍船。

 それらが奏でる白刃と砕ける木片と雷轟と断末魔の戦争音楽を、蛇の巫女:〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉は心底憎んでいるようだった。

 

 全長五十メテルを超えるその巨大な肉体から繰り出される一撃は、荒れ狂う嵐と壁のごとくのしかかってくる波頭そのものであり、多く海戦が、蛇の巫女の介入によって決着したのである。

 

 ただ、聖域を侵さず、死を賭けた乱痴気騒ぎを起こさぬ限り、彼女が一般の船に襲いかかったという事例はほとんどない。

 また海洋でこのような大型生物を仕留めることは鯨を捕獲する以上に困難であり、一種の不可侵、聖域となっていたのである。

 

 このようにゾディアック大陸で現在把握されている内海ではファルーシュ海に継ぐ規模を誇る黒曜海ではあったが、流氷を含む海流や暗礁海域を考慮に入れると、事実上、取りうるべき航路はトラントリム沿岸地域、その鼻先をかすめる方法しか残されていなかった。

 

「いくらなんでも、海は領域外だろうよ」


 鼻先と言ったって確実に五キトレル以上は離れてんだし、この海は〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉の領域だからな? 

 対岸の領土=トラントリムを治めるという夜魔の騎士:ユガディールについて、メナスが言及した。

 

「いくら、オーバーロードと言っても、うかつに手は出せまい」


 メナスの言にノーマンが頷く。

 理解の及ばぬ人外の生きもの=大海蛇:〈シドレラシカヤ・ダ・ズー〉だったが、今回ばかりは彼女のおかげで事無きを得られそうだった。

 

 それに、どれほどの困難が待ちかまえていても、一行は向かうしかないのである。

 腹は決まった。

 その決意を祝福するかのように、出立の朝は快晴だった。

 風は北風が弱まり、横風となったがこれは帆船には最高の条件である。 

 メナスを船長とする船:テメラリオ号は滑るようにヘリアティウムの港を出港。

 黒曜海を目指し、ゴールジュ湾を北上し始めた。


「テメラリオ……どういう意味ですか?」


 メナスにそう訊いたのはイリスだった。

 船名についての質問である。

 メナスはそのイリスの手を取り口づけしながら答えた。

 

「大胆、という意味ですよ、レディ。テラ・スゴイ、ほどの意と取っていただいても結構。そして、あなたはわたしを大胆にさせる──聖母のように清楚で、そして咲き誇るる百合の花のようにっ、」


 歯の浮きそうなセリフをメナスは最後まで言えなかった。

 通りすがりのビオレタの踵が、思いきりその爪先を踏んづけていったからだ。

 オギャー、かウギャー、か判然としない悲鳴が天まで届く勢いで打ち上げられた。


「て、てめっ、ビオレタッ、いまのわざとだろがっ」

「波でよろけたのよ。それに、間違ってるわ、あなた、メナス」

「へ?」

「テメラリオは『大胆』じゃない──『無謀』よ」


 え、えっ、あああ??? 言いながら艦首に刻まれた船名を覗き込み、メナスがまた吠えた。


「うっそーん。じゃ、これ?」

「そう。そうよ。この船は『無謀号』」

「い、いつから?」

「最初からよ、キャプテン。この船名決めたの、アンタでしょ?」

「オオオ、オギャーッ!!」


 だから辞書は引こうね、と言ったのに。

 呆れ返ってビオレタはそのまま行ってしまった。

 イリスはころころと笑う。メナスはしょぼくれてうなだれている。

 すこし雰囲気がイズマに似ているな、とイリスは思う。

 ただ……なんというか目の前の彼のほうが野心を剥き出しにいている感じがある。

 精力的、といえばいいのか。


 そういえばイズマの道化ぶりは、どこかその奥に癒しがたい寂しさがあるようにしか、イリスには思えなかった。

 巨大な喪失を過去に幾度も体験し、擦り切れてしまった《魂》。

 とりかえしのつかない、深い深い奈落の淵に立ってなお、踏み止まる道化役者アルルカン

 だからこそ、あれほどひょうげていられる。

 だれかが笑ってくれるなら、じぶんが笑われていたとしても、そのほうがマシだという思いを体現してしまった男。

 もし、アシュレに恋をしていなかったら、イズマに魅かれていただろう。

 そんな告白を、すこし前にしたことがある。

 それはきっと、イリスのなかにある空虚──アシュレに愛されていることがわかっていても、その愛の証が自らに宿っているとわかっていても、荒漠としたがらんどう・・・・・が、イズマのそれと響くからだ。

 イリスはそう認識している。


 一刻も早くアシュレに再会し、その腕で強く抱きしめられないと、己が、心が、漂泊としてどこかへ飛ばされていってしまいそうな孤独感、寂寥感に不意に襲われるのだ。

 それはイリスベルダという存在が『《ねがい》を受け止める器』として完成しつつある証拠なのだが、そのことをこの場に居合わせるだれも──イリス自身ですら認識できずに、事態は進行する。

 

「あ、あの、イリス……風に当たりすぎると身体に障るから……船室キャビンにもどろう」

 悲嘆に暮れるメナスを尻目に声をかけてきたのはトラーオだ。

 目が赤い。充血している。寝不足なのだ。

「はい、あなた」


 その申し出にイリスは輝くような笑顔で答える。

 あの筋書きの役割分担はまだ続いていたのである。


「わたしはともかくも、無事合流を果たすまではその役割、演技は続けられるべきでしょうな」


 というルカティウスの助言に従ったカタチだ。 

 人間はどこにでもいるし、その耳目は、なにを聞いているかわからないからだ。

 それで、トラーオはあの晩からずっとイリスの夫として同じ部屋で眠るハメになったのである。

 もちろん、それはカタチだけで同衾どうきんなどとんでもないことなのだが……。

 そう思っていたのだが。

 

「恐い“夢”を見るのです」


 イリスはアシュレとの間を《ねがい》を打ち込む《フォーカス》:〈デクストラス〉によって成就された“愛の呪い”によって、深く結ばれた存在である。

 それがアシュレの不在によって、ときおり暴走した。

 その肉体も心も、そのすべてがアシュレの温もりなくしては維持しがたいものに、イリスはなっていたのだ。

 正確には、アシュレから注がれる《夢》が必要なのだ。

 まるで、夜魔が血からそれを摂取するように。

 そうでなければ、渇き、飢えるように。

 再誕の儀式、その余韻が薄れるとともに、この驚くべき事実が明らかになりつつあった。

 アシュレの存在を関知するという能力も、この呪いとそれがもたらした希求の副産物に過ぎなかったのだ。


「添い寝してくださいませんか?」


 その申し出を初日はとにかく固辞したトラーオも、彼女がうなされ、冷たい汗でびっしょり濡れて震えながら起きるのを目にしたとき、考えをあらためた。

 

「て、手を縛ってください。その……間違いなど犯さぬように!」


 そうやって、トラーオは身代わりのクマのぬいぐるみよろしく転がったのだ。

 抱きつかれた。

 胸の谷間に沈められた。

 自らの手を布で縛ったまではよかったが、それによってその体勢から逃げられないという事態が発生することまでは考えが及ばなかった。

 うわごとのようにアシュレの名を呼ぶイリスに、トラーオは答えた。

 アシュレとして。

 使ってください、と懇願こんがんされカチコチに固まった。

 君臨してください、と哀願され血が逆流するのを味わった。

 奪ってください、とすがりつかれ、霊魂が離脱するのを感じた。


「しぬ、しんでしまう」


 どこから話が漏れたのか、この事情はセラに知られた。

 夜、一睡もできていないトラーオの机の引き出しに安眠を促すアロマオイルを忍ばせてくれたのは、セラだと思う。

 彼女の香りにそれはそっくりだったから。

 だが、話しかけようとすると怒ったように無言でそっぽを向かれる。


「どうした。そんなことでは任務を成し遂げることなどできんぞ」


 大部屋で眠るノーマンとバートン、それから布一枚を挟んでセラの部屋に逃げ込み、ついにトラーオが弱音を吐いたのは船旅初日の晩である。

 寝不足からくる体調不良に船のうねりが加わり、トラーオはまた激しい船酔いに陥ったのだ。


「隊長、自分は、自分はもう、もうだめであります!」

 言いながらトラーオは壺に頭を突っ込んだ。だめだ。もう吐くモノがない! そういうモーションである。

「そんな惰弱に育てた憶えはないぞ、トラーオ・ガリウス従騎士」


 ノーマンが一喝した。

 トラーオは口元を拭いながら、返す。

 

「辛いのも、痛いのも、苦しいのも、オレは耐えます。耐えて見せます。ですが、ですが、あの方は──美しすぎる。可憐すぎる。このままでは、身体ではなく、心が壊れてしまいます! 隊長ォオオ!!」


 これまで、訓練でどれほどの苦境にあろうとも、決して弱音を吐いたことのないトラーオである。

 戦災孤児の過去がそうさせた。

 その男が、初めて口にした弱音である。

 少なくともノーマンは他を知らない。これはよほどだった。


「恋をした、とそういうことか? イリスさまに?」


 だが、さすが朴念仁。

 フルメタル・イクスプリースト、とイズマに評させた男である。

 訊き方が真っ向唐竹割りであった。

 

「い、いやっ、そんなっ、そそそそっ、そんなんじゃありませんッ」


 トラーオは全力で否定した。バカ丸出しで。

 じゃあ、なにに追いつめられているんだ? という顔にノーマンはなり、バートンは苦笑してかぶりを振るばかりだ。

 そんなとき、セラが帳の向こうから現れて船室を出ていった。

 大股で、靴音高く。

 トラーオはその顔が泣いているのを見た。

 まなじりを固め、口元を引き結んではいたが、こらえ切れない涙が次々と目の端からこぼれ落ちそれを隠すように拳で乱暴に拭うのを見た。

 

 あまりのことに声をかけることすらできなかった。

 呆然とふたりの先人=ノーマンとバートンを見上げると、顎で指図された。

 バカモノ、追え、と。

 そうしてフラフラになりながら甲板に上がったところで、イリスを見つけたのだ。

 

 船の甲板上は危険だ。特に高速で駆けているときはなおさらだ。

 波で大きく揺れるし、おそろしく重いロープや帆のロワーヤードが風に煽られ横合いからぶつかってくることもある。

 不意の落下物だってある。

 潮を浴びて濡れた滑り、転倒して頭部や腹部を打ったら──いまのイリスには問題がありすぎる。

 騎士としての任務をトラーオはこのとき、個人としてのそれよりも優先させたのだ。

 

 イリスを誘導して安全な船室に戻ろうとしたとき、トラーオはだから、その様子にショックを受けたように立ちすくむセラを見出した。

 そして、セラはトラーオが声をかける前に、走り去ってしまった。

 

 トラーオには、もちろんイリスを放り出すことはできない。

 船室に彼女を送り届け、慌てて戻ったとき、そこにセラの姿はなかった。





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