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■第二十六夜:落日の皇帝・永劫の騎士


 小国家トラントリム、《閉鎖回廊》への陥落。

 

 その言葉を聞いた瞬間、ガタリッ、と一斉に男たちが席を立った。

 トラーオ、メナス、そしてノーマンまで。

 男で反応しなかったのはバートンだけだ。

 女性でもセラが立ち上がりかけて、机の下でバートンに制止を受けていた。


 なるほど、とふたたび、ルカは頷いた。

 

「《閉鎖回廊》──この言葉に反応するものはいずれかです。支配階級、《スピンドル能力者》、あるいは学者などの研究者。民の多くは、その脅威が顕現してはじめて、それを認識する。逆説的に言えば、その脅威が秘されたものであれば、気づくことも、それについて考えることもない。いや──」


 考えることさえできない、というのが正しいのですかな?

 その場にいた全員が、決定的な楔の打ち込まれる音を幻聴した。

 

「そうでしょう、親愛なる我が友、バントライン?」

「親愛なる皇帝陛下:ルカティウス、いったいなにを、我々に望まれます?」

「わたしは、良き為政者たろうとずっと自らを戒めてきました。そして、わたしの治世は……おそらく、そう悪いものではなかったのではないか、と考えています。たしかに国土は縮小の一途を辿っている。だが、それでも民はわたしを慕ってくれるし、わたしも民を愛している。そんな為政者が望むことなど、ひとつきりです」

「それは?」

「国家の存続」


 ──それだけです。


 尊いものを見るようにルカの瞳が細められた。

 その目に映っているのはいまや、テーブルを囲むバートンたちではなく、彼が愛した郷土の風景だった。

 

「そのためには、どのようなことでもするのが、王、皇帝というものなのです。そうであると信じたい」

 ですから、どうか、バントライン、あなた方の目的を、このわたくしめに教えていただきたい。

「お願いです」

 静かにそう言い、ルカティウスは頭を垂れた。


 長い沈黙のあと、バートンはその口から、自分たちの本当の目的地がトラントリムを越え、怪物と魔の氏族が跋扈ばっこする危険極まりないハダリの荒野へ赴き、そこを貫くトラドール回廊を抜け、アラム世界との陸路の中継貿易都市であるジラフ・ハザに至ることである、と告げた。

 そこで、離れ離れになってしまった仲間と合流しなければならないことをまでも。


「なるほど……合点がいきました」

 年末にカテル島を襲った異常気象と、ガイゼルロン公国・夜魔の月下騎士団による襲撃、それに法王庁の施設船団のこと。

 屹立する光の御柱を、わたしも見ました。

 ルカが言った。


「ことによると、そのことにあなた方の行動は起因している?」

「あるいは」

 そうかもしれません。

 バートンは明言は避けつつも認めた。

「そう考えれば、思い当たるお名前もございます」

 ルカはもう一度、全員を見渡して言った。

 

 いや、ルカティウスはすでにそのことを知っていた。

 この場にいるすべての人物の氏素性を完全に把握していた。

 そうでありながら、バートンの口から、それを認めさせる言質を引きずり出したのにはわけがあったのだ。

 理由はひとつ。

 まだ来ぬ未来を見通すこと。

 そして、その運命に関与し、それを偏向すること。

 そのために。

 

「じつは、ついこの間、わたし宛ての書簡がエクストラム法王庁から届けられました。エクストラム正教の新法王から、我ら東方教会:アガナイヤ正教の法王宛てに、です」


 イクス教にはいくつも分派がある。そのなかで、正統の法王と認められている人物はエクストラムの法王、そして、ここヘリアティウムの皇帝でありアガナイヤ正教側の法王を兼任する二者だけだ。

 統一王朝:アガンティリス滅亡から数千年。

 そのとき袂を分かたれたふたつのイクス教は、表立った対立を起こすことなく、しかし、決してひとつとなることもなく、ここまで来たのだ。

 ルカは、イクス正教側の現法王:ヴェルジネス一世の送ってよこした親書、その一節を抜きだし、そらんじてみせた。

 

「我、各地での天変地異、異変に人心、大いに揺らぐを見、また、そこに終末を見いだす民草の心に、“預言者”、“救世主”、“聖母”の誕生と救済を願うを聞く。

 しかるに、この機に乗じ、いたずらな流言飛語、また、天上にまします我らが主のお言葉に、そして、その地上代行者である我ら・・法王の認定によらず、あたかも己がそうであるかのごとく“預言者”、“救世主”、“聖母”を名乗り、振る舞い、成りすます者の胎動と専横を知るに至り、恐懼きょうくと深い憂慮ゆうりょの念に駆られるものなり。

 我ら法の守り手として、これら煽動者の跳梁ちょうりょうを断じて許さず。

 それゆえ、これらすべての偽装者・煽動者──すなわち“舌がかり”に対し、我、エクストラム正教法王:ヴェルジネス一世は断固たる態度で臨むこと、その決意を表明するものである。

 アガナイヤ正教の法王の座におわしますルカティウス猊下におかれましては、なにとぞ、おなじく歩調を合わせていただきたく──」


 これは、まだカテル病院騎士団が入手していない極秘の、最新の情報である。

 やはりエクストラム法王庁は動いていた。

 水面下で包囲網を形成しつつあったのだ。

 

 そして、この決定的な情報を、まったくの一存でルカが話したこと、これは公式の場であれば国際協定にもとる漏洩行為だ。

 いまこの瞬間をエクストラム法王庁に察知されたなら、即座に敵対行為の言質を取られたも同じほどのリスクが、そこにはあったのである。

 そのような秘密を明かしたということ。

 これは、それほどのリスクと引き換えにしても構わないとルカが判断した、ということでもある。

 ごくり、と誰かが唾を飲み込む音がやたらと大きく響いた。

 

「これを理由に、エクストラム法王庁は、審問官を各地に送り込んでいるようです。もちろん、我が国では入国はやんわりと拒否しました。教派が違うのですから当然です。ただ、こうも返しておきました。独自の体制・方法で、この局面には対応していく、と」

「独自の体制・方法、とは?」

 バートンが聞いた。

「わたし自身が、その真贋しんがんを見極める、という方法です」


 東方教会:アガナイヤ正教の法王。

 もうひとりの“神の代理人”として。


 バートンには話のスジが見えてきた。

 今日、入港するなり、私邸に招かれた理由も。

 どうして、その正確な日時まで察知できたかは、あいかわらず不明だが、ルカティウスという男は自分以外の人間の目にバートンたちカテル病院騎士団といまや“再誕の聖母”となったイリスの動向が露見することを恐れたのだ。

 それで保護と軟禁を兼ねて、招いた。

 そういうことであろう、と。

 

「それで、我々を試した──その結果は?」

「正直、わかりません。わたしは、“預言者”、“救世主”、“聖母”、あとは“聖人”ですか──の条件とは、奇跡以前に、まずその行動にあると思います。

 行いを見るのです、言葉ではなく。声高に『我、聖人なり』と宣う者をわたしは信用しません。ですが、そうでない者のなかに、本当の聖性が隠されていたとき、どうやって判断するか。

 これは試練に立ち向かう姿を見て判断していく他ない。その内にある聖なるものの発露を見守るしかない」

 

 わたしにできることは、その小さな介添え、手助けになることだけです。

 

「そして、今宵、試してみたい、と思える方々にはじめて出会った」


 ルカティウスは微笑んでいた。 

 これは重大な発言である。

 イクス教世界を二分するアガナイヤ正教の法王が、その行いによってはカテル病院騎士団の掲げる御旗=“再誕の聖母”:イリスベルダを認定する、と断言したと取ってもよい言葉だったからだ。

 わたしはあなた方を見守りたい、と言ったのだから。

 

「さあ、食事を続けましょう」

 告げるべきことを告げ終えたルカティウスは、皆に食事に戻るよう促した。

 せっかくの料理が冷めてしまいます、と。

 それから、旅は船をお勧めしますよ、とも付け加えた。

 

「もちろん、その手配は、わたしが請け負います。秘密裏に、ゴールジュ湾を抜け、黒曜海へ。北端はまだ流氷に覆われていますが、ギリギリまで北上して、アラム教圏側からトラドール回廊へ入り、中継都市:ジラフ・ハザを目指してください」


 わたしにできる、ささやかな介添え、です。

 ルカティウスがささやく。


「ちょちょちょ、ちょいまち、話がまるで見えねーんだが」


 まとまりかけた話に、ちょっといいか、とメナスが割り込んだ。 

 当然だ。

 事情を知るカテル病院騎士団側とルカには通じる話も、肝心の部分が秘されたままのため、メナスにはなんのことだか、わからないのだ。

 

「つまり、こういうことかい、バートン老。あんたら、ほんとうはワイン商なんかじゃねえ、ってこと?」

「申し訳ない。ご指摘の通りだ。メナス、貴君を騙すような真似をした。謝って済むことではないが、謝罪させて欲しい」


 即座にバートンが立ち上がり、深々と頭を垂れた。

 

「さらに礼を欠くことに、いまこの期に及んでも、我々は貴君に正体をお話しできない」

「……夢だと思って、忘れろってことかい?」


 謝罪を終え、頭を上げたバートンの瞳を覗き込んで、メナスは言った。

 驚いたことに、怒り出していいはずのメナスの顔に浮かんでいたのは悲しみ──いや、寂しさだった。

 

「たしかになあ。オレはただの船長だし、充分な船賃はすでにいただいてる。契約は履行済みで、いまさら騙すの騙したのと騒ぐもんでもない。それにお偉いさんがたの思惑に、下手に足突っ込んだ一般人がどうなるかは、歴史が証明してるしなあ」

「港に残したままの商品は、こう言ってはなんだが──無礼の謝罪に受け取っていただければ、うれしい」


 バートンの腹を括りきった態度に、メナスは大きく溜息をついた。

 怒りではない。

 諦念めいた響きがそこにはあった。

 

「そこまでして、この危険な旅に、アンタたちを向かわせるだけのものがある。そのジラフ・ハザで合流すべき仲間たちには命を張る、その価値がある、ってアンタは言うんだな」


 メナスの問いかけに、バートンは視線を合わせたまま答えなかった。

 だが、ある意味で人生の修羅場を潜り抜けてきた男たちのあいだには、それだけで通じるものがあったのだろう。

 

「わかった」

 折れたのはメナスだった。

 どっかと席に腰を下ろす。

 それから、左手を差し上げながら言った。

 

「だがなあ、やっぱり船が入り用なんだろう? それなら、その船はオレが出してやる。荷はいますぐ、皇帝陛下に全部買い取ってもらおうじゃねえか。もちろん、こっちの言い値でな? かまわんだろ、陛下? 

 流氷の海を渡るなら、船は軽いほうがいい。流氷ってえのは水面下、見えない場所のほうが、ずっとずっとでかいんだ。どてっ腹に重たい荷を積んだままじゃあ座礁しちまう」

 唖然あぜんとするバートン、そしてカテル病院騎士団の面々に、メナスは照れを隠すようにぶっきらぼうに言った。

 

「もちろん、正体の詮索なんざしやしねえよ。このことは他言無用だ。ただなあ──興味を持っちまったんだよ。おもしれえ、ってなあ大事なことだぜ? アンタらが血眼になって探してる連中ってえのにも興味が出てきちまった。なんだよ、馬鹿なんじゃないか、って眼をやめろよ。

 ああそうだ、馬鹿なんだよ、オレは。だが、性分なんだ。やめられねえんだよ」

 

 それによ、仲間と合流しても、アンタら帰りの船がいるんだろう──我らが親愛なるルカの言葉を信じるなら、当分陸の交易路は使えねえ。

 つまり、このルートを独占できりゃあ、ちょっと面白いことになりそうじゃねえか?


 照れを野心と不敵な笑みで噛み殺そうとするメナスに向けるバートンたちの視線が柔らかみを帯びた。

 カタチは違えど、己の信念を貫こうとする男の生き様に騎士たちは共感を覚えたのかもしれなかった。

 ただ、イリスだけが、最初からことの成り行きを信じていたかのように微笑んでいた。

 

「どうやら、キマリらしいな」

 場を占めようとしたメナスのセリフに、大きくビオレタの溜息がかぶる。

 やれやれ、また悪い癖が出たよ──そんな愚痴ぐちが聞こえてきそうな音だった。


          ※


 一行が食事と、その後に振る舞われた菓子とチーズ、それにバートンたちが持参した甘いワインを飲み干し、それぞれにあてがわれた自室へ帰り着いたのは日が変わってからだ。

 仕事を終えた給仕たちに先に休むように命じたルカティウスだけが、まだ赤々と火を灯し続ける暖炉の前に備えられた椅子へ身体を預け、ゆっくりと蒸留酒をくゆらせていた。

 

 す、と室内にわだかまった闇のなかに、なにものかの気配が生じたかのような感覚をルカティウスは感じ取った。

 なにものかの視線、とそれは言っても良いだろう。

 

 室内に光源は、暖炉の炎だけ。

 豪雨、暴風の夜、それも真夜中である。

 よろい戸が閉められ、邸内は限りなくソリッドな闇に近づいている。

 そこに、忽然と気配だけが生じていた。

 

 眼。

 一対の。

 それがじっと、ルカティウスを見つめている。

 

「友よ、あれでよかったのかね」

 その気配に向け、ルカティウスは言い放った。

「尽力を感謝する──古き友よ」

 闇が応えた。

 いや、それは闇ではなかった。

 ずい、とその闇が盛り上がり、漆黒の帳の内側から純白の騎士があらわれた。

 

 波に洗われた遺骨のように白い甲冑をまとっていた。

 その装甲をコウモリの被膜を思わせるマントが覆っていた。

 そして、そうであるのに、その騎士の歩みにその甲冑は擦れて鳴ることもなく、甲冑と肉体の重量を受け止めているはずの床板が軋みをあげることもなかった。

 

「ユガディール──君ならば、これほど手の込んだ策を労せずとも、本懐を遂げられたのではないかね?」


 だが、突如として室内に現れた奇怪な騎士に、ルカティウスは動じた様子もなく呼びかけた。

 その名を呼んだ。

 そして、純白の騎士は応える。

 さも、当然のように。

 

「親愛なるルカ──君が警告したことで、彼らは船旅を選ぶだろう。それが結果として、トラントリムへの航海になったからといって、だれも君を疑う者はないだろう。トラントリムが《閉鎖回廊》と化していることを、半端に道中で悟られたなら、彼らは必ず対策を講じただろう。

 それに、あのカテル病院騎士:ノーマンとその《フォーカス》:〈アーマーン〉は厄介だ。肉体を一足飛びで消滅させられてしまったら、いかに夜魔とて再生できない。場合によっては正面対決の可能性さえあった。それは避けねばならない。運命を操作し、あの一行のなかから“再誕の聖母”だけを選び出し、我が地に招くには、どうしても必要な手順だったさ」

「親愛なるユガ──夜魔の王にして、すでにオーバーロードへの昇華アセンションを果たした君に、なにを恐れることがあるのか?」

「恐れは止まぬよ。十字軍とそれを迎え撃とうとするオズマドラを中心としたアラム勢力の激突、その交錯点に我々の国家はされようとしているのだからな。我らが祖国を戦火に蹂躙じゅうりんさせてなるものか。“血の貨幣共栄圏”の悲願を、ここで潰えさせてなるものか」


 語る騎士の言葉に感情の抑揚は感じられず、しかし、それがかえって彼の決意の強さを物語るかのようだった。

 だが、オーバーロードと成り果てた男を動かすものは《意志》ではありえない。

 多くの人々の《ねがい》。

 器としてのユガディールという存在に注がれた《ねがい》が、その強さを生み出しているのだ。

 だから決して《ねがい》の通りには生きられぬ人類として──ルカティウス十二世は、言ったのだ。

 

「君は理想に殉じたのだな、ユガディール。かつて、若き日、わたしと語り合った夢を君は貫き通した。その結果の姿──美しいよ」


 一瞬、若き日の口調に戻ったルカの顔に、青春の輝きが戻った。

 眩しいものを見るように。 

 だが、それは雲間からのぞいた沈み行く陽の光、その残照の最後の一片のようにすぐさま陰り、また老いの帳が降りる。

 それなのに、わたしはこうしておめおめと、人間の生にしがみついている。

 自嘲して、ルカが言う。


「違うさ、ルカ。君がまだヒトであったればこそ、彼ら──“再誕の聖母”をはじめとしてあの一行は、君を信じたんだ。それに、もし君がオーバーロードとなったとき、はたして、わたしと同じ《ねがい》のもとにあるかどうかは、わからんことだろう?」


 その器に注がれる《ねがい》がどのようなものかは、君を精神的支柱と見なす者たちの“心のカタチ”による。つまり、このくにの民の心に、よる。

 そのとき、わたしたちがどのような関係になるかは、さらにわからないことさ。

 

「そうだろう?」

 ユガディールの色素の失せた唇がかすかに笑みのカタチを取った。

 

「そうだったな。だが、だからこそだよ、ユガディール。よくぞ、そのカタチに《ねがい》を研ぎ上げた」

 己以外の民の心に訴えかけて。

「そう言ってくれるのは、友よ、ルカティウスよ、もう、君だけになってしまったな」

 それにもう、君も知っていることだろうが、オーバーロードとなりしこの身には“想う心”など、ないのだよ。


「我はすでに、民草の《ねがい》の体現者ゆえに、想うことも、患うこともない」

「それなのに、巨大な動乱に蹂躙じゅうりんされる祖国の未来に恐怖し、そうでありながら“再誕の聖母”を望むのだな」

 なぜだね、とルカが問うた。

「共犯者であるわたしに、その理由を教えてはもらえまいか」

「聞いてどうする?」

「今後の参考に、だよ。ユガ。もし、仮にわたしが──オーバーロードになる決意を固めるときがきたなら、そのときのために」


 数秒の沈黙が訪れた。

 それは答えるべきかどうかに悩んだというよりも、どこか、ルカの身を案じて言い淀んだことのように思われた。

 だが、それでもオーバーロードとなりし純白の騎士:ユガディールは言葉にした。


「理由はふたつ、ある」


 ひとつはもちろん、“再誕の聖母”に、来るべき真世界の、輝かしき未来の王を宿した方に、我々の悲願を打ち明けともに歩んでもらうために。

 そして、もうひとつは、わたしの胸に突き立ち責め苛むこの記憶を──わたしを不完全なものに留めているやじりを、粉々に打ち砕き、完全となるためだ。


 ユガディールは、傷ひとつない己の胸甲を撫でる。

 象牙のようなその胸板を、厚い装甲で覆われた指先が撫で、ちょうど心臓の位置で止まった。

 外傷など、どこにもない。

 傷は、ユガの心──もう動くはずも揺らぐはずもない心に、ある。

 ユガが、その紅玉ルビーのごとき瞳を閉じる。

 あまやかで、しかし、切ない痛みを幻覚して。


「アシュレダウ、そして、シオンザフィル」

 この言葉、この名前、この記憶──それが、わたしを惑わせる。

「わたしは、それらを超越する。完全体となる。この記憶、わたしにそれを刻んだ者たちを、この世から完全に消し去って」


 そう宣言するユガディールを見つめるルカティウスの瞳には、いいようのない感情の光がある。


 だが、この老練な王が、その想いを口の端にのぼらせることは、ついになかった。




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