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■第二十四夜:落日の帝国と皇帝(1)

         ※


「うつくしい」


 トラーオは思わず、つぶやいてしまう。 

 ルカティウスの私邸に到着した一行は、まず入浴、次に着替えを勧められた。

 全員がすでに冷たい雨と波しぶきで、濡れ鼠であったからだ。

 加えて、イリスは身重である。

 カラダを冷やしてよいはずがなかった。

 屋敷の主の申し出を断る理由など、どこにもない。

 

 さてそれにしても、である。

 男たちのことはあっというまに済むかもしれないが、女性陣の入浴や着替えは、やはりなんのかんのと時間がかかるものだ。

 そんなわけで、バートン、トラーオ、そしてメナスの三名は、廊下に設けられたソファで女たちが仕度を終えるのを待っていた。

 給仕が注いでくれたお茶が芳香と湯気を立てている。

 真っ白な岸壁とエメラルドグリーンの海、そして、レモンの樹の生い茂る絵が、一幅かけてある。

 風の吹き渡るハーブの草むらを、真っ青なワンピースを着た女性が行く。

 そういう絵だ。

 西方世界の王侯貴族であれば、家紋の格や伝統を示すための自画像、血統の由来となった伝説などのモチーフ、私邸となれば愛人の裸婦画などが、かかっていたりするものだ。

 畏怖にうたれるものもいるかもしれないが、バターの塊を口中いっぱいに押し込まれたような気分を味わうこともすくなくない。

 裸婦画であれば、まあ、どう感じるかは任せる。

 だが、彫刻だけはしっかりと手が加えられていながらも、落ち着いた雰囲気の額におさめられたこの絵は、風景からして、おそらくヘリアティウム近郊で描かれたものだ。

 潮風とともに、レモンの葉擦れや、ハーブの香りが薫ってくるようで、また、そこに描かれた女性の気品ある後ろ姿に、清涼な印象だけが伝わってくる。

 なるほど、絵とは、持ち主の精神を表す。

 それは今宵、用意された衣装にも、同じことが言えた。

 

 バートンにあつらえられたのは深い赤に、ところどころ切られた隙間からベージュのシャツがのぞき、そのいずれにも手のかかった刺繍の縫い取りの単衣。

 枯れがけの男の魅力を鮮やかさと豪奢ごうしゃが引き立てる趣向。

 

 逆にメナスのものはフロックコート風のスッキリとしたデザイン。

 光沢のないほとんど黒に近い紫の裏地に合わせられた山吹色が、野性味のあるメナスの相貌を引き立てる。

 両者とも総髪をなでつけ後ろに括る貴族めいたスタイル。

 

 いっぽうで、いぶし銀の光沢を持つジャケットにサーモンピンクとベージュのストライプシャツにピーコックグリーンのスカーフを合わせ、脚はこれまた空色とベージュのストライプのタイツという若々しいいでたちのトラーオだけは、衣装に着られるという様相で、やや居心地が悪そうだ。

 

「しゃきっとせんか」

「だって」


 バートンの一喝に、トラーオが思わず反論しかける。

 ちょっと派手過ぎですよ、これ、と。

 それを聞いて、メナスが苦笑しながら言った。

 

「女とおなじさ。ちゃんと組み敷かないとな、衣装は」

 言いながらゆっくりとタバコをくゆらす。

 年季の入ったキセルで、だ。

 海の男たちはタバコをたしなむ者が多いが、メナスも例外ではない。

 

「船長の言う通りだ、トラーオ。そんなこっちゃ、衣装の尻にも敷かれるぞ」

「まあ、それがたまらなくよくなるヤツ・・・・・・も、いるらしいがね」


 メナスは言いながら、同じくパイプを取り出したバートンに火を貸してやる。

 バートンも馴れた様子で応じる。

 両側を人生の先達に挟まれ、たじたじとトラーオが汗をかいていたときだ。

 

 通路の向こうから正装を終えた女たちが、召使いに伴われ歩いてきた。

 トラーオはそのさまを見るなり、立ち上がっていた。

 あまりにも美しかったからだ。


「うつくしい」

 心の声がそのまま、音になって転がり出た。


 セラがいた。

 程よく焼けた小麦色の肌に、青い草色のドレスが映えていた。

 ハチミツ色の頭髪を頭部に結い上げ、うっすらと化粧したその様に、トラーオは見惚れた。

 オレはこのに、惚れているのだ。

 わかっていた。

 

 だが、こんな彼女を見たことがなかった。

 身に付けた銀の宝飾品は貴石の類いをあしらったものではなく、細工の見事さで魅せるものだった。

 それがまた、少女を脱し成人したばかりの彼女によく似合った。

 

 その隣に対照的にも、妖艶な美を放つものがあった。

 深い襟ぐりと同様、大胆に背中を切られた恐ろしくタイトなドレスを、なにひとつ恐れることなく堂々と着こなしていた。

 鍛え上げられた褐色の肌と純白の衣装のコントラストに、燃え立つような赤い髪が鮮烈な印象を与える。

 大振りなサファイヤをいくつもあしらった首飾りと対の腕輪が、その美を引き締めている。

 切れ長の瞳と同じ色。

 その瞳に射貫かれたトラーオは背中に美しきジャガーに遭遇したような、そういう種類の官能が走るのを感じてしまった。

 メナスの同伴者:ビオレタの艶姿だった。

 

 そして、それらの美に囲まれながら、なお圧倒的に光を放つ存在があった。


 鮮やかな深紅のドレスが、純白の染みひとつない肌を覆っていた。

 頭髪はまだ耳を隠すこともできぬほどの長さだったが、その程度のことは、彼女の美を減じる原因にはなりえなかった。

 すべてを見通すような金色の瞳がトラーオを見ている。

 

 妊婦であるとはとても思えぬ均整の取れた肉体に、張りのある豊かな胸乳がゆっくりと波打つのがわかる。

 ついさきほどまでその谷間に押し当てられていたトラーオの頬が、イリスのかすかに桃とミルクを思わせる体臭を思い出して、火が着いたように熱くなった。

 その乳房に乗せられた、大きなルビーのネックレス。

 宝飾品は、それだけで充分だった。


 女たちは男たちの前まで来ると、そっ、とドレスの裾を持ち上げ会釈した。

 

「目移りするよな美人ぞろいだな、おい」

 ヒュー、とメナスが口笛を吹き、まったくだとバートンが同意した。

「いやあ、トラーオの若旦那、こりゃ羨ましすぎるぞ」

 歩み寄りながらビオレタの手を取ろうとしたメナスのスカーフを、予告もなくビオレタが引っつかみ、その深い襟ぐりに肉迫させた。

「いや、オマエのもりっぱだよ。きれいだよ。相変わらず。だからその手をはなしてくれねえかな」


 そんなやりとりにも、バートンは迷わず、セラのもとに歩み寄っていた。

 

「おお、花が咲いたように美しいじゃないか」

 設定ではセラはイリスの妹であるから、エスコートするのは当然バートンが筋だ。

「そんな。照れます。いままでこんなカッコしたことないから、わたし……ぜったい変だ」

「なにを言う。なんとも愛らしく、可愛らしい。男どもが放ってはおかんぞ」

「そんなこと言ってくれるのバート……おとうさんだけだわ」

 ちくり、と頬を紅潮させっぱなしだったトラーオの胸を、セラが放った針が穿った。

「な」

 ——オレだって、綺麗だと思ったよ! と反論しかけて、トラーオは眼前へと差し出された手に、言葉を飲み込まなければならなかった。

 

 シルクの長手袋に覆われた右手。

 それはイリスのものだった。

 はっとして顔を上げれば、垂れ目がちな瞳がトラーオを見つめていた。

 

 どきりっ、とたったそれだけで心拍数が跳ね上がる。

 そうだった、オレはいま、この方の夫なんだ。

 エスコートしていただけますか、あなた、と差し出された手の意味を捉え違うほど、トラーオは鈍感でも不作法でもなかった。

 

 準騎士位としての礼儀作法は、幼少から徹底して躾けられる。

 カテル病院騎士団では十二歳を迎えた段階で、従者となる少年・少女たちは騎士や貴族の晩餐の給仕を努めるのが習わしだったからだ。

 そうやって礼儀作法は教育されていく。

 礼節は、まず、サービスの現場から、というわけだ。

 サービスを提供する側から学べば、翻って、己が招待を受ける身分になったとき、どう振る舞えばいいかが、自然にわかる。

 なるほど、自明の理であろう。

 なにごとにも実践を尊ぶカテル病院騎士団の気質が如実にうかがえる教育方針である。

 

 トラーオは、無言のうちにその手を押し頂くようにして取る。

「似合って、いませんか?」

 がちがちに緊張した顔を勘違いされたのだろう。

 イリスが不安げに訊いてきた。

「とんでもないっ。きれいで……だよ」

 事情を知らぬ者たちの耳目のある場所で妻相手に敬語はまずい。

 トラーオは慌てて言い直した。


「うれしい」

 屈託なく微笑むその背後に光背ハロウが生じるようなイリスの存在に、トラーオは魅了され圧倒される。

 

 この聖なる存在を伴侶とするアシュレダウという騎士のことを思う。

 自分と四つしか違わない。

 それなのに十七で騎士位を、十八のときにはすでにエクストラム法王庁の聖騎士に叙任されている本物の天才。

 世間では二十半ばまでに騎士に任ぜられれば充分、逸材で通じるというのに、だ。

 

 そして、その地位を、愛する女性のために惜しげもなく投げ捨て、己の命を懸けて戦った。

 

 戦列をともにしたノーマンは多くを語らないが、もしアシュレダウの経歴に嘘偽りがあるならば、カテル島最強の一角を占め、神器と謳われる《フォーカス》:〈アーマーン〉を己が両腕とする筆頭騎士が、その捜索に乗り出すはずがない。

 それどころか、その危険きわまりない任務に、聖母、その方が出向いているのだ。

 まごうことなき聖務。

 

 どれほど愛されているのであろう。

 どれほど慕われ、想われているのであろう。

 自分もかくありたいと強烈に願う。

 

 イリスのような女性に、強く想われるような男になりたい、とそう思う。

 焦熱にも似た強い憧憬とあまやかな感慨を打ち破ったのは、最後に合流した男だった。

 

 がちゃり、がちゃり、と純白の装具が鳴った。

 メナスのフロックコートとよく似たカタチだった。

 色彩はその相貌と頭髪に合わせるように漆黒。

 裏地は彩度の低い赤。

 

 だが、二メテル近い長身と岩棚のように鍛え上げられた肉体を持つノーマンがそれを着ると、圧倒的な存在感を放つ。

 いわおのごとき造作の顔に浮かぶ恬淡とした表情。

 なによりその両腕を覆う〈アーマーン〉の純白の重装甲が、そのいでたちを他者とのそれに対して明確に線引きしていた。


「ちょっと、それ、凄すぎやしねえか、ヘルトマンの旦那」


 呆れたようにメナスが言った。

 甲冑をつけっぱなしで皇帝との会食に臨む男など、前代未聞だからだ。

 ノーマンの両腕:〈アーマーン〉である。


「これでよい、とのことだ。服もあらかじめ袖が切ってあった。どのみち、義手なので外せんしな」

「あ、義手? ああー、そうなんだ。そりゃ悪いこと訊いたね、オレ」

「気にすることなどない。気を遣われるほうが苦手なタチだ」

「へへっ、そりゃありがたいや。しかし、それにしたってゴツイな、それ。しかも精巧だ。触っても?」

「御髄に」


 護衛として雇われた……なるほどねえ、《スピンドル能力者》か、アンタ。

 メナスがひとりごちた。

 ノーマンは微動だにしない。

 ヘタな言い訳には意味がない。

 堂々としているほうがかえって怪しまれない。

 それはあまり腹芸の得意ではないノーマンの信条だ。

 

 ただ、さすがにあまりに高名なため偽名を使っている。

 ヘルトマン・エルカイトス。

 愛称で呼べば、ヘルトとなるだろう。

 実名とあまりにかけ離れた偽名は、本人が認識できずボロを出すことがままある。

 似ていながら、まったく違う、そういう配慮が重要なのだ。

 

 実際のところ、ノーマンはこの会食を辞退しようとした。

 だが、あてがわれた居室には、すでに腕の部分をあらかじめ繋げずに縫製された衣装が一式あつらえられていた。

 恐ろしいことにサイズもぴったりだった。

 ノーマンはこれをなにかのメッセージだと、即座に了解した。

 この招待も来訪も、すべてが、あらかじめ仕組まれたものなのだと。 

 すっと、すべてが腑に落ちた気がした。

 であれば、あれこれ悩むことには意味があるまい、と再確認した。

 こういうところが、ノーマンという男なのだ。


 ならば、その現場に自分がいなければ話になるまい。

 相手は先に自分の持ちカードをちらつかせて、こちらを誘っている。

 これは挑発か、そうでないなら、人目をはばかりながらもノーマンたちにだけ重要な話を持ちかけたいという意志のあらわれか、いずれかだ。

 ノーマンの考えを、少なくとも同じく意図を察して飛び込んだバートンだけは、即座に了解した様子だった。

 海泡石のパイプを使い、タバコをくゆらす瞳が細められた。


 通された客間は皇帝の私邸というにはあまりに質素だった。

 華美な装飾など、どこにもない。

 ただ、赤々と燃え盛る炎をたたえる大型の暖炉。

 座り心地の良さそうなソファが数脚。

 そして、煤煙で燻され飴色になるまで磨き込まれた大きな一枚板のテーブルの存在が、文人皇帝:ルカティウスの人柄を窺わせた。

 なるほど、この食卓で食事し、暖炉の前に移動して酒をゆっくりとくゆらせながら読書にふける——これは最高の悦楽だろう。

 そのためには華美な装飾や絵画は無駄でしかない。

 そういう哲学が端々からにじみ出ていた。

 卓上には純白のテーブルクロス。

 これは、よい料理とワインを存分に楽しんでくれ、という無言のサインであるというのが、宮廷作法的理解である。

 使い込まれ磨き上げられた銀の食器。

 首の長い陶器の壺に注がれたワインとグラスが、すでに用意されている。

 

 その上座には、すでに紫の衣装を身に纏った男が座していた。

 灰色になった頭髪と同じ色の髭を蓄えていた。

 肌には深いしわが刻まれていたが、それは衰えというよりも、長い年月風雪に耐え忍んだ大樹の放つオーラを想わせる。

 暖炉の光の照り返しを映し込んだ瞳は知的な好奇心に輝いていた。

 

 見間違えようもなく、その男は皇帝の顔をしていた。


 壮年を過ぎ、老齢に差しかかってはいたが、そのことが男の知性に一層の深みを与えていた。

 なにより、紫の衣装は古代:アガンティリス王朝期の皇帝色であった。

 それを着て、皇帝として相対するということは、すなわち自身がはるか数千年の昔、歴史の帳の向こうに去ってしまった統一王朝:アガンティリスの文化と伝統、そして血筋を引き継いでいると明言しているのに等しかった。

 その歴史の重みすべてを背負ってここにいるのだと、ルカティウスは言外にしめすのだ。

 

 案内係の少年に導かれ室内に入った一行は、まず主賓しゅひんであるバートンとその同伴者であるセラ、そしてその対岸にトラーオとイリス、メナスとビオレタ、末席がノーマンという順に座るよう促された。

 全員が、そのあたりの作法には馴れたものである。

 

 トラーオとセラは内心、ノーマンを末席に座らせることに動揺していたが、これは演技上の役割分担でもある。

 ノーマンが進んで末席に向かうのを見て、安堵した様子だった。

 ただ、その席にペドロの姿はない。

 

 給仕たちに椅子を引かれ、全員が着席するとグラスに食前酒だろう琥珀色のワインが注がれ、ルカティウスが口を開いた。

 

「突然の招待に応じていただき、このルカティウス、感謝の念にたえない。ようこそ、遠方よりのお客人がた。どうか今宵はこの老骨に皆さんの足労を労わせていただきたい。そして、皆さんのお話を、わたしに聞かせてもらいたい」


 そこまで言うと、ルカティウスは杯を掲げ、乾杯の音頭を取った。

 無論、全員が従う。

 己がまず最初に杯に口をつけ、無礼講の証拠と同時に毒などない、と示してみせるルカティウスはやはり皇帝の器なのだ。

 こうして、皇帝との晩餐がはじまった。




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