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■第二十三夜:奇妙な招待状

         ※

         

「おお、バートン、無事だったか」


 突然荒れ狂い始めた厳冬期の海をかいくぐり、メナス操る商船がビブロンズ帝国の首都:ヘリアティウムの内湾に潜り込めたのは奇跡に近い。

 

 切り立った崖が左右から張り出し、天然の城塞のごとき偉容を誇るゴールジュ湾への狭い水道。

 潮の急な流れで有名な場所であり、時間帯によってその流れが大きく変わることで有名である。

 メナス配下の船乗りたちの必死の操船と、そして、潮流の味方がなければ、とても辿り着けなかっただろう。

 きっと明日の朝には湾の外で座礁し、残骸となっていたはずだ。

 

 湾内に入ったとたん、波は一気に静かになった。

 

 冬の嵐の海から生還した船を港湾労働者たちが総出で桟橋に迎え入れるのは、沿岸にすむ人々の習わしだった。

 それは貴重な交易品を持ち込んだ相手に恩を売る、ということでもあっただろう。

 しかし、同時にまた、互助精神的な意味でもあった。

 

 仲間を見捨てるものは、必ず相手からも見限られる。

 大海原でのそれがどんなことか、すこし想像してみればわかることだ。

 そして、国家としてはもうひとつの理由もあった。

 

 疫病の進入を文字通り水際で食い止めるための入国管理がそこでは行われる。

 たとえばペストを発症した船は、寄航・接舷を許されず黄色い帆を掲げたままその流行禍がおさまるまで、湾外でとどまらなければならない。

 これもまた、船乗りたちのルールであった。

 

 今回の場合、その審査・確認過程を省略しての緊急寄航であったのだ。

 検疫・臨検は当然だった。

 ただ、検疫はすぐに済んだ。乗り組み委員のほとんどが、冷たい海水と雨風に打たれながらも剥き出しになった上半身に血管を浮かび上がらせ、鍛え上げられ日に焼けた肉体から、もうもうと蒸気を吹き上げていたからだ。

 そのなかにはノーマンも混じっている。

 ガレーシップの漕ぎ手はキツイ仕事だ。

 大の大人でも半日で根を上げる。

 

 交替要員もなく仕事に従事しなければならない漕ぎ手たちの寿命は、半年が相場といわれている。

 そういう理由で、ガレーシップの漕ぎ手志願者というものは、よほどの事情を抱えているのが普通だ。

 すなわち、通常であれば犯罪者たちが刑罰として。

 そうでないならば、貧農の男や息子たちが食い詰め、家族か、己の糊口をしのぐためにか、志願して。

 もちろん、戦時となればすこし様相が変わってもくるが、だいたいこれがイクス教圏でのガレーシップ事情だった。

 

 もちろん、メナスが船長を務めるこの船の漕ぎ手たちは正式な契約を交わした船乗りで、だから仕事も交代制だ。

 そのかわり、手の空いているものは、戦時、兵士として働かなければならない。

 

 そんな歴戦の船乗りたちだったから、健康に関しては、ひと目で検疫官は合格を出した。

 また、数少ない乗客であったバートンたち一行も、まったく問題がなかった。

 

 バートンは老齢ながらいつもとまったく変わらぬ様子であったし、ノーマンを筆頭にカテル病院騎士団の面々も平然としたものだった。

 伊達ダンテにアラムの軍船や海賊たちをして、「毒蛇の牙」と恐れられたりはしない。

 一番心配されていたイリスだが、こちらも堂に入ったもので、にこにこと微笑んでいる。

 ただひとり、トラーオを除いて。


「ううう、すみません、イリスさま」

「なにをおっしゃるのです。それに貴方さまは、わたくしの旦那さまです。どうか、イリス、とだけ」

 そのイリスの膝枕に頭から沈没して、情けない声をトラーオは上げていた。


 目元をタオルで覆われているのは、すこしでも気を休めようという気遣いのほかに、セラからの、

「コイツっ、イリスさまの胸を下から見上げる目線がいやらしすぎるッ」

 というツッコミに起因していた。


 当のトラーオは、というと嵐のうねりに翻弄され、そのために、ときおりとはいわず押しつけられる、あたたかでやわらかで慈愛に満ちたイリスの感触に、惑乱するばかり。

 セラに返す言葉もない。

 それがいっそうセラの勘に触るのだろう。

 もう、泣き出さんばかりだ。

 ちなみに、セラとトラーオは義兄妹という設定になっている。

 つまり、設定上のセラはイリスの妹だ。

 イリスはいつでも膝枕を交替するつもりだったのだが、その設定が邪魔してなかなかうまくいかない。

 

 新婚の嫁を差し置いて、妹が膝枕に及ぶわけにはいかなかっただろうし、その設定がなくとも、こんどは女性としてのプライドや複雑な恋心が、ポジションを譲られるをよしとしなかったのだ。

 そんなセラが、イリスには可愛らしくてしかたがないのだが。

 

 もちろん、トラーオの症状は船酔いに他ならなかった。

 セラがひたすら、情けないッ、情けないッ、を連発する様に、検疫官たちも毒気を抜かれた様子で、臨検はしごく和やかな雰囲気で行われた。

 約一刻ほどの手続きを経て、荷下ろしが終わるころには、あたりはすっかり暗くなっていた。

 

 荷下ろしは明日に回してもよかったのだが、湾内とはいえ揺れる船底にワインを積んだままにしておくことは、ワイン商として許されないことだった。

 揺動し、雨に濡れて滑りやすい足下のなかでの荷降ろしは、想像以上に危険な仕事だ。

 なにしろ標準的な樽は空でも、大のおとなと釣り合うだけの重さがある。

 どんな力自慢でも、中身のたっぷり詰まったそれを持ち上げるのは不可能だ。

 うっかり下敷きになろうものなら、これは骨折くらいでは済まされない。

 だが、それでも荷は下ろさなければならなかった。

 ワインを劣化させる要因はいくつもあるが、そのなかで最たるものは日光と振動だ。

 樽に詰められている分には日光はともかく、振動はワインにとって大敵だった。

 波も静かなら許容範囲だが、今夜はいけない。

 雨と風の合間を縫うようにして、作業は続いた。

 

 ワイン農家にしてワイン商の大旦那であるところの役割を演じるバートンにとって、息子夫婦に仕事ぶりを叩き込まねばならないわけだから、そのこだわりは見せなければならない。

 そうバートンは考えたのだろう。

 役になりきるタイプであった。

 

 荷を信頼できる倉庫に預け、預かり賃と税金を支払い終えたバートンの袖を捉えて、男が声をかけてきたのは、そのときである。

 ざざざざっ、と雨音を引き連れ、男が乗ってきた客室キャビンつきの馬車が遠ざかる。

 海水と雨水に濡れた外套の奥から、高貴な織りと刺繍の成された衣服が姿を覗かせた。

 年齢はおそらく、バートンとほぼ同じくらい、六十代であろうか、老齢の男だった。

 

「どちらさまで?」

 バートンの切り返しに、老齢の男:ペドロと名乗った男は破顔一笑した。

「二十年来の付き合いに、どちらさまで、と来たか! まったくオマエさんの冗談にはかなわんよ!」


 バートンは目を見開き、それから、無言で人さし指をペドロに向けた。

 

「そうだそうだ、ワシだよ、バートン、バントライン。やっと思い出した、みたいな顔しおってから。なんだ、もうろくか? 息子夫婦に行商を叩き込む、とそう息巻いとったじゃないか。ペドロさ。ペドロナセス・エノテカだよ」

 エノテカ、という名前でバートンはピンと来た。

 エノテカとは酒を扱う店舗、それも特にワインを中心に扱う店のことである。

 国によってはワイン蔵、ワイン直売所、というような意味もある。

 つまり、この男はワインの買い付けを生業とする男なのだ。

 ペドロは石を意味することもあるから……石蔵、とでもなるのだろうか、この男の名の意味をつまびらかにすれば。

 

 ただ、バートンにはこの男との知己がまったくなかった。

 記憶違いでは断じてない。

 当の本人からしてそうなのだから、その様子にセラやノーマン、イリスが、あぜんとするのは仕方のないことだ。

 ただ、トラーオだけはイリスの胸の峡谷に顔面を挟まれ昇天寸前だ。

 膝が時折、かくりっかくりっ、と笑う。

 完全に脚に来ていた。

 

「(事情はまったくわかりませんが、ここは調子を合わせてみましょう)」

 バートンはノーマンへと目配せしながら笑顔を作った。

 ノーマンも了承を目で返す。

 

「まいったな、ペドロ。まったくおまえさんにはかなわん。秘密にしときたかったんだが」

「だろうともさ、手紙ひとつよこさんで。カテル島と、ヘリアティウムなら、風に恵まれれば一週間とかからぬ距離だろうがよ。だが、ワイン業者としてのわしの鼻は誤魔化せん。来るなら、交易路が冬から復帰する直前のここしかない。それも冬の嵐の海を越えてきた品には、縁起を担いで高値がつく。勝負をかけてくるだろうと思っていたよ」

 

 商品知識をひとくさり、ペドロは人懐っこい笑みを浮かべると下ろしたばかりの積み荷に手をかけた。


「それで、出来はどうなんだ。バートンオススメのあまいあまいジビッボ(※ブドウ品種。現実世界に照らせば、マスカット・アレキサンドリアのこと)のお味は」


 バートンは論より証拠と小瓶にわけていたそれを取りだし、ペドロの手の甲に1滴垂らしてみせた。

 そのとたん、えもいわれぬ芳香が立ち昇り、ぺドロのみならず周囲にいた全員を魅了した。

 

「おお、おおお、なんと高貴な。うーむ。熟成させた紅茶のような薫り、そこに干したイチジクのような凝縮感……去り際に、ずっと遠くで白い花の香り。ああ、だが、これはあとを引く。最高の女のように別れがたい!」


 ゆっくりと芳香を嗅ぎ、うやうやしく姫君の手に口づけするように、ペドロは高い粘性で自らの手の甲にあって宝石のごとき輝きを放つその一滴に口づけした。

 

極上だブラヴィッシマ

 低い唸り声と、つぶやき。

 しかし、それは最高の賛辞に他ならない。

「この一画、わしが買い取ろう」

 ぐるり、と樽一山を指してぺドロが言った。

 バートンが想定した価格の倍で、だ。

 

「いくらなんでも気前が良過ぎはせんか、ペドロ。それにあっさりと売れたんでは、息子の勉強にならん」

「ご祝儀だと思っとけよ、この頑固ジジイが。それに全部は買い付けない。競りをまたずに荷を買い占めたんじゃ、同業者の怨みを買うからな」


 だが、明日の朝、最上級の品は相場の倍でペドロが買い付けた、と聞かされたら同業者たちは血眼になるはずだ。

 この当時であっても、極上の甘口ワインは高級品であった。

 人々の甘みへの強い強い希求がそうさせた。

 しかしながら、このワインの製法を聞けば、その高値も納得してもらえるだろう。

 

 バートンの取り扱う最上品は収穫の後半分を醸造、半分を二週間陰干しし、第一次発酵後に合わせたあと、もういちど、再発酵させる──陰干し(パッシート)という製法で作られる逸品だった。

 じっくりと陰干ししされたブドウは水分が抜け、糖度が上がる。

 その分、かさが劇的に減る。

 当然だが、量産には向かない。

 どうしても少量になる。

 普通なら詰み終わりから、いかに素早くブドウを圧搾するかが重要視されるところの真逆を、やる。

 だが、そのおかげで、このアラムから伝えられたという製法で醸されたワインは、まさしく魔法のごとき味わいと芳香を獲得するにいたるのだ。

 

「おいおい、あんまり甘やかしてくれるな」

「なーぜ? ここで恩を売っておけば、のちのち都合がいいだろう? なあ、若旦那」


 やっとイリスから開放されたトラーオが、赤面したまま、うなずいた。

 たぶんではなく、まちがいなく意味が判っていない。

 

「こらっ、トラーオしゃんとせんかッ、もう次の取引きは始まっとるんだぞ! 足下見られるような腑抜け面さらすんじゃないッ!」


 バートンの一喝が倉庫内に鳴り響いた。

 カッカッカッ、とペドロの爆笑が続く。

 

「ところで、お前さん、今夜の宿は決まっとるのか?」

「いやあ。なにしろ、いま着いたところだからな」

「わしはこのあと得意先に荷を届け、そこでの晩餐ばんさんに誘われとる。一緒に来い。お前さんがたにとっても、悪い話じゃない」


 と、いうよりもそこにお前さんがたを招待することのほうが、わしが今夜出向いてきた本当の理由とも言えるんだがな。 

 ペドロはバートンの瞳をまじまじと覗き込んで言った。

 本題が来たようだな、とバートンは腹を括りなおした。

 すう、と目が細まり、ほう、と先をうながす。

 積み下ろしの音と掛け声が響くなか、ノーマンが姿勢を崩すように見せかけて構えた。

 だが、ペドロはあっさりと、バートンたち一行を招待した人物の正体を明らかにした。

 

「ルカティウス・エンケラノス・ファディアス」


 予期せぬ名の登場に、バートンだけではなくその背後で話を聞いていたノーマンやイリス、セラにトラーオ、そして、荷の倉庫への搬入を終えたメナスまでもが、一瞬、言葉を失って立ち尽くしたほどだ。

 なぜなら、それは他ならぬビブロンズの現皇帝:ルカティウス十二世、そのヒトの名だったからだ。


「そちらの船長さんと、同伴する女性がいるならもうひとりも、招待するよう仰せつかっているんだよ」

「え? オレも行っていいのかい? マズかないかね」


 雨か波しぶきか、とにかくびしょ濡れになった身体を拭いながら、メナスが訊いた。

 健康的だが、荒事を潜り抜けてきたことを象徴するように傷だらけの上半身を惜しげもなくさらすその姿に、セラだけが赤面して目を逸らしている。

 同じ女性でもイリスはどこ吹く風と、笑顔のままだ。

 

「ルカティウス陛下は、西側の情勢について非常な関心を抱いてらっしゃる。もし、そのあたりの事情に通じている者があれば、ぜひにとのことだった。この嵐、すぐには止むまい。ワインの小樽をひとつ、手土産に持参したい。その人夫としても同行願えれば」


 このとき、ペドロが、どうしてメナスたちにまで同行を勧めたのか。

 その理由を聞いてバートンは、この異常な申し出の裏に隠された事情を悟った。

 なるほど、十字軍の発動とともに高まる東西衝突の機運、最新の情報を出来うる限り多角的に得ようというのだ。

 文人皇帝と言われたルカティウスの見識がうかがえるエピソードである。

 

 だが、これは逆に、ビブロンズに駐留する各国大使を、皇帝:ルカティウスが信用していないという意味でもある。

 事実、エクストラム法王庁をはじめとして、多くの西方諸国はこの地に全権委任大使を派遣していなかった。


 例外はディードヤームを盟主とするミュゼット商業都市国家同盟である。

 貿易拠点を重要視する彼らにとって、東西の結節点であるビブロンズ帝国首都:ヘリアティウムは重要な意味を持っていたのだ。

 ちなみに、全権委任大使とは文字通り「その個人の発言は正式な国家の決定であるとして扱われる代理人」である、という意味だ。

 ご用聞きの木っ端役人とはワケが違う。

 国家の威信と信頼を双肩に負う外交の最高責任者だ。

 

 さて、広くあらゆる方面からの新鮮で偏りのない情報を仕入れたい、という皇帝の意向は、ともかくとして、である。

 なぜ、それがバートンとその一行を名指しなのか。

 これについては充分な注意が必要であった。

 そして、ペドロがなぜバートンを旧知の間柄と装い、その関係を演じるのか。


 常識的に考えて、これはすでにもう異常である。

 企みがある。

 いや、企みがあることを、あえて知らせてきている。

 カードゲームでいうのなら、手札を半分見せた状態で、上積みレイズを受けるかどうか問うてきているのだ。

 

 だが、この申し出をバートンはすくなくとも外見上は、にこやかに受け入れる。

 虎穴に飛び込み、死中に活を見いだす。

 アシュレの父にして、彼のかつての主だったグレスナウが得意としたやり方。

 それは密偵を務めてきたバートンの十八番おはこでもあったのだ。

 

 好々こうこうや然としたバートンの見せた度胸に、セラとトラーオは仰天したようだがノーマンは瞳を閉じ、片眉を吊り上げて笑っただけ。

 イリスも、危機感など、まるで感じないように微笑んでいるだけだった。

 

 虎口に飛び込めば、すなわちこれを鉄拳にて打ち破りまかりとおる男と、飢虎がっこさえひれ伏す聖性の持ち主:“再誕の聖母”である。

 己に課した任務からして“救世主”の父たるアシュレダウとの合流・邂逅を果たすというもの。

 世界の命運を賭ける任務が一筋縄で行かぬこと。

 それゆえ予想だにしない状況へと飛び込まざるをえないこと。

 それらは、すでに覚悟の上だったのだ。


 まして、今宵こよい一行を招いたのは、その見識にゴールジュ湾と繋がる巨大な内海:黒曜海に住まう大海蛇さえ敬意を払う、と言われた文人皇帝:ルカティウスである。

 

 彼自身が《スピンドル》能力者であるという話は聞かないが、その手勢にどのような異能者がいてもおかしくはない。

 この申し出にそれら超常の《ちから》の使い手が絡んでいるのならば、事情を把握せぬままことを構えることは得策ではない、と三者が三者とも、即座に判断したのだ。

 

 一行は土砂降りの暴風雨のなか、ルカティウスの私邸に向かうことを決めた。





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