■第二十二夜:エスペラルゴの男
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「なんだってえ? ビブロンズの首都? ヘリアティウムへ行こうってのか? いつ大戦争がおっぱじまるかもしれない、このご時世に? みかけによらず命知らずだな、アンタがた」
よく日に焼けた肌と長く伸ばした癖毛が特徴的な長身の男が、大仰に驚いて見せた。
さて、時間はまたも、アシュレたちの主時間から、ひと月を遡る。
ちょうど、雪に閉ざされた森の国:トラントリムで、アシュレとシオンが数奇な運命に翻弄されていたときのことだ。
あきれ返ったぜ、という様子の男に、バートンが実践を重ねた者だけが獲得する老練な笑みを浮かる。
「そういうとき、そういう場所だからこそ、商売の芽がある。その経験を、隠居しちまう前にうちの小せがれに叩き込んでおいてやりたくってなあ」
目を丸くする海の男相手に、バートンが楽しげに答える。
あまりの威勢のよさに、癖毛の男が釣り込まれて笑った。
「じーさん、度胸があるなあ。だが、そういうのわかるぜ。商売ってのは、地道にやってるだけじゃダメなんだ、ときには賭事みたいなこともやらなきゃなあ。戦とおんなじさ。なあ」
「そうとも、おまえさん。聞きゃあ、また十字軍がおっぱじまるってーじゃねえか。そしたら当分、荒波を承知で船出せにゃならん時代が来るってことだろ? こいつはカテル島生まれのカテル島育ちだから、前の十字軍のことは、ほとんど知らねえのよ。たまたま、ここが戦地にならなかっただけで。……まあ、そりゃあしあわせなことなんだが、小舟だからといって波が加減してくれるわけでなし。大波への立ち向かい方を教え込んどかんとな。そう思ってな」
へええ、と癖毛の男が感心したように相づちを打つ。
バートンの堂の入った人生哲学に、本気で感心し様子だ。
それから、視線を、ついとバートンの後ろへ流す。
旅装に着替えたイリスがいた。
どういう事情でか、頭髪は男と見紛うばかりに短いが、生来の美貌と、清楚な若奥様としての服装に身を包んでいても、主張してやまない女性として際立った特徴が誤解など与えもしない。
ただ、この時代、東西の別なく成人女性は髪を伸ばすことが、また西方世界でが結い上げることが多かったため、よけいに男たちの興味を引いたのだろう。
いったい、どういう事情か、というやつである。
たしかになあ、とイリスの立ち姿を上から下、下から上へ、と眺め回して男が応じた。
「あんなに、かわいい嫁さんもいることだしなあ。しっかし、じいさん、あんたの末の息子さん、うまくやったなあ。あの美貌、腰の細さで胸はこう(ぐいっ)だろ? ちょっと美人過ぎるぜえ」
男はちらり、と後方に控えるイリスのほうに目をやり、胸を強調する仕草をした。
オーダイナマイツ、と海の男たちの隠語だろうか、なにごとか、つぶやいて。
卑猥かもしれないが、間違いなく賛辞である。
「オレが五十も過ぎて、二人目の嫁に生ませた息子さあ。女を射止める才能は血筋だ。もうあれの腹には子がおるんだぞ?」
「はー、隣が息子さんか。くー、坊ちゃんみたいな顔して、やるこたあやってんだねえ。いや、じいさん、アンタの血筋に、乾杯だぜ」
「もとは尼さんよ」
「まじで! あー、だから、髪が! おっと、いや、こいつは失礼だったな。なんてこった、そうか、グレーテル派か! いや、それにしたって、マイガッ! うまいことやりやがって。かーッ、男としての敗北感しかねえ! 尼さん、モノにしちまうカーッ! 神さま聖人さま先輩さまだぜ! オレもあやかりてーッ!」
生来気のいい男なのであろう。
潮っ気の強い船乗りたちの間にあって、どこか優男じみた振る舞いと、気さくで気の利いた話術、そして精悍な顔立ちが特徴的なその男は、エスペラルゴ船籍の中型帆船:商船の船長だった。
オレのことはメナス、とそう呼んでくれ、と名乗った。
バートンがビブロンズの首都:ヘリアティウムへの便に選択したのは、なんとカテル病院騎士団とすれば同じイクス教国とはいえ、その原理主義的傾向によって仮想敵国ナンバーワンであるエスペラルゴの船であったのである。
仰天するカテル病院騎士団の面々に対し、バートンは平然と答えたものだ。
「エスペラルゴの軍船は、同国の船に対しては臨検を行わないのです。いまビブロンズに制海権はない。領海をオズマドラとエスペラルゴの軍船がうようよしているなかで、まずどちらかだけでも無害化しておけるメリットは計り知れない。
それに不期遭遇戦でもないかぎり、オズマドラの海軍に、エスペラルゴの船乗りが捕まるようなヘマはいたしますまい。陸軍ならいざ知らず、船乗りの練度では一枚も二枚も、エスペラルゴが上だ」
それはこの海を領土とするカテル病院騎士団の皆さんのほうが、ご存知のはずでしょう?
バートンの敵の懐に飛び込むような処世術の巧みさ、論理に触れ、ノーマン以下、年若いトラーオとセラフィナは感心しきりだ。
ただひとりイリスだけが「さすがおじいちゃん」と無邪気な持ち上げを見せた。
エスペラルゴは新興国であり、移動宮廷を持ちながら各地を転戦する皇帝からもわかるように、その社会的な仕組みは細部まで整えられていないことが多かった。
それは逆説的に言えば、商売に関する制約がほとんどない、ということでもある。
イクス教と皇帝への帰依・服従の義務を果たし、そのうえで税金さえキチンと納めているなら、あとはまあ、だいたいでよい、というお国柄なのだ。
彼らにとっては、狂信的な信仰心だけが唯一の掟と言っても過言ではない。
異教徒に不当に奪われた祖国を取り戻せ、という精神性だ。
勢い、商人たちも独立独歩の機運が強くあり、一匹狼的な、山師的気質の持ち主たちであることが多かった。
これが海運国として名を轟かせるディードヤームであったなら、商人は国家の運営するギルドへの所属が義務であったし、微に入り細に入り細かな規約と慣例が商人たちを規定していた。
悪名名高き諜報機関にして最高意志決定機関:十一人委員会が、目を光らせてもいた。
もっとも、その代償として、ディードヤームの商人たちには確実な保険・保証、年金の支払いまでが確約されていたわけだが、エスペラルゴの商人たちに「保険・保証・年金」などといったけっこうなものはない。
冒険者的、とそれをひとことでまとめていいものかどうかは、後世の歴史家たちに判断をまかせたい。
ただ、そうであるだけに、事業主=船長であることも多く、話をまとめるのは簡単だった。
他国の船乗りたちとの取引きのように、ギルドを介する必要性がないのも情報漏えいを防ぐのに一役買ってくれるはずだ。
このメナスという男も、そういう一匹狼のひとりである。
バートンが彼を選んだ理由は、その船の手入れのされ具合と乗員たちの気心知れた働きぶり、構成人種の多様さだった。
「うちは、本国では息苦しい連中の寄り合い所帯でね」
そのことを指摘するとメナスは笑ったものだ。
根無し草のあつまりさ、と。
「同じしょっぱい思いをするなら、海のほうがまし、って連中ばっかりなのさ」
「まさか、凶状持ちばかりってんじゃないだろうね?」
「本国にいたら、異端審問にかけられちまうやつら、ってことさ。医学書や薬剤の処方にだって教会が口を出すんだから」
「エスペラルゴ本国はそんなにひどいのかい?」
「まあ、熱くなってんのはどっちかっつーと国民のほうだがね。誰かを悪と断じることで、自らを正義の側に置きたがるのは、人の世の常なんじゃねえかな? 教会が規律統制を始めたのは間違いないけど、拍車をかけたのは国民たちさ」
おっと、いまのはそれこそエスペラルゴ本国の連中には内緒な?
顎に髭を生やした精悍な顔つきが、微笑むとなんとも茶目っ気のある表情を浮かべる。
メナスは不思議な男だった。
バートンはメナスをもう一度値踏みした。
三十台半ば──男としては脂の乗り始めた良い時期だ。
精悍な印象に違わず均整のとれた長身に、しっかりと筋肉がついている。
足さばきからサーベルか、ファルカタか、それもかなり遣う。
まあ、船乗りにとって荒事は本業と博打に続いて第三の職業のようなものだから、これは当然か。
それにしても、その気さくな態度の下にあるどこか優男めいた立ち回りに、バートンはこの男はどこかの貴族出身ではないかと感じる。
零落した貴族の三男坊あたり。
選べる職業としたら、聖職界入りか執事か、あるいは、傭兵隊長か。
そういう、多くない選択肢を振り切って、海へと旗揚げした男。
世間や御上、教会のいうことを丸呑みで信じてしまう世の中に不満を持っている。
そういう反骨精神、反逆者めいた野心の薫りをバートンは見逃さなかった。
用心は必要だが、誇りや信念のようなものも持ち合わせている。
それは船上で働く仲間たちの顔つきを見ればわかることだ。
この男に賭けてみよう、とバートンは判断を下した。
「おもしろいな、船長。あんたに、決めよう」
「そりゃありがたいね。じいさん。じゃ、さっそくだけど仕事の話をしようか」
バートンは手早く話を取りまとめると、後ろで待っていた仲間たちとともに乗船した。
まずは、ビブロンズ帝国の首都:ヘリアティウムへ向かうのだ。




