■第十八夜:バザールでみつけたもの
進軍開始は五日後と決まった。
通常の軍事行動を考えればこれは考えられぬほどの急編成であったが、そうであったにもかかわらず、すみやかに、滞りなく行われた。
内情を詳しく描写すれば、実際の侵攻作戦は《スピンドル能力者》を中心として行うため、兵力の増強を行わないこと以外に、トラントリムからの一時撤退後、ひと月あまりの時間を、アスカが無駄にしていなかった証左である、となるのだろう。
つまりすでに、事前準備は、ほぼ整えられていたのだ。
ぬかりないそれだけが、軍事行動を裏支えしていることをアスカは見抜いていたし、それを滞りなく不足なく整えるだけの才覚を、側近たちが持ち合わせていた。
兵の休息と、練兵、なにより兵站の充実ぶりはアシュレを戦慄させたものだ。
この軍団:〈砂獅子旅団〉とはやりあいたくない。
そう思わせるだけのものがあった。
ことに財務担当官と物資調達を兼任するティムールの辣腕ぶりは凄まじく、彼が商人からの転向組なのだと知ってアシュレは納得した。
商人として各地に培ったネットワーク、オズマドラ帝室へのコネクションをちらつかせることで得られるアドバンテージをティムールは惜しげもなく振るった。
頼み込み、荷物持ちとしての同行許可を得たアシュレをティムールはこき使ったが、決して自分のやり方を隠したり、教えを惜しんだりはしなかった。
むしろアシュレがやりとりの意味をわからないでいると、合間合間にこと細かく教えてくれた。
アシュレのほうも教えられることを素早く吸収し、かつ自発的な問いを忘れない生徒であったから、最初は訝しんでいたティムールも、コイツは違う、と気づいたのだろう。
一度受け入れてくれた後は、胸襟を開いてなんでも話し、迎えてくれる。
アラム教圏の懐の深さにアシュレは感じ入った。
「しかし、あれだね。こんなことに興味を持つなんて……西方の騎士団は金貸しもやってるって話だけど、そっちの絡みなのかい? 計算も速いし、機転も利く。ちょっと奥手なのが玉に瑕だけど、それくらいのほうが商売はいいこともある。なんだい、亡命後は商売にも手を出す予定なのかい?」
羊の乳で煮出した熱々の甘い茶を啜りながらティムールは訊いたものだ。
「いえ……亡命する気はないんです」
そんなティムールだから、アシュレは胸の内を正直に語った。
ティムールは茶を傾ける手を一瞬止め、それからアシュレをまじまじと見直した。
「それ、アスカ殿下には」
「すみません。まだ、言い出せていません」
「だって……おたく、エクストラム法王庁に追われてる身なんだろう? 西方諸国にはもう、居場所なんかないんじゃないのか?」
おたく、と相手に呼びかけるのが、くだけたときのティムールの癖だった。
「ええ、そうですね。カテル島の戦いで、はっきりとボクは法王庁の敵になってしまった。いまや、ボクは彼らの認識では夜魔の姫:シオンザフィルに屈した聖騎士の恥、抹殺すべき“神敵”です」
「その顛末は、かいつまんでこないだ聞いたよ。お母さん向こうにいるんだって? ソフィアサン? なんとか手を回してこっちに連れて来れないのか。それに、亡命したからってオレたちは改宗を強要したりしない。宮廷にいる高官のなかにだってイクス教徒はいるんだぜ?」
アラム教圏はでもオズマドラは特に家族・肉親の関係を重んじる、というのが、お国柄である。
ティムールの反応はその典型だ。
そして、その提案はもっともだった。
アシュレは、アラム圏の成人男性の証たるターバンの位置を直しながら答える。
市井に溶け込む工夫だが、なかなか似合っている、とアスカは請け負ってくれた。
「──ボクは、シオンとイズマに約束した。ともに最後まで戦う、と。そして、自分自身で決めたんです。戦う理由は、必ずボク自身が考えて決断する、と。だれかに預けない、と。
そのためには属した“なにか”のために戦うのはやめなければならない。ボクが戦う理由を、だれかに決めてもらうことをよしとしてはいけないんだ。そう決めたんです」
あのイグナーシュの夜、グランとの戦いで決意したことを思い返しながら言った。
それはキミの身勝手だ、となじることがティムールには出来ただろう。
だが、それまでアシュレとその家族を心配するように見つめていた瞳に、あきらめたような、それでいてどこか憧憬を想わせるような色が浮かんだ。
唇が横に引かれる。
笑ったのだ。
「一人前の男が、そこまで覚悟を決めたんじゃしょうがねえか」
てっきり叱られるものだと思っていたアシュレは、不思議な心持ちを味わった。
「オレにはもう身寄りがないんだ。だから、家族のいるおたくが羨ましかった。それで変な絡み方しちまったのさ。行儀作法や道徳のお話しようっていうんじゃないから安心してくれ。ただ、アスカリア皇子の提案は正直なところ、相当いい話のハズなんだ。側近として役職を乞われたんだろ? それをあっさり蹴っちまうなんて、コイツどうかしてんじゃないか、と思っちまったのさ」
一見優男のティムールの口からズケズケと飛び出してくる言葉に、しかし、不思議とアシュレは傷つかなかった。
「ま、決めてんならしょうがねえ。オレらはそこんとこおたくにあれこれ説教できるようなまともな人生を歩んできたわけじゃないからな。ただ、持ってるヤツがそれを手放そうとするのを見ると、持ってないがゆえにこう──僻みみたいなものが出て、さ」
羨ましいのさ、とティムールは言った。
トラントリムへの侵攻部隊にその名を連ねているのだから、《スピンドル》能力者であることは間違いないのだろうが、ティムールはアシュレの渡ってきた戦場、その経歴と武勲には敬服するしかない、とまで言ってくれた。
言外に自分が戦闘能力では格下だと認める発言だ。
「どうしようもない事情、抜き差しならない理由というもんが人間にはあるのさ。そこを『道徳だから、慣例だから、規範だから』って否定しちまうと、もうどこにも逃げ場がない。規則や道徳は守れるだろうが、こんどは生身の人間が破断する。
ましてや、アシュレ、おたくはもう四度も人智と人倫の及ばぬ《閉鎖回廊》で、あるいは同胞とかつて信じ属した集団との死闘を潜り抜けてきたんだ。それが、どんなに苦しいことか、とうてい常人には耐えられぬ地獄か、すこしは想像つくつもりだぜ? だから、もうオレからこの話をするこたあない」
ただ……とティムールは言い募ろうとした。
その言葉をアシュレが先んじた。
「アスカの……アスカリア皇子のこと、ですね」
「ああ、ああ、そうだ、アシュレ。どうか、殿下の気持ち、真心だけは大事にしてやってくれ。同胞であれ、とはいわねえ。だが、真の友でいてやってくれ」
ティムールの語る“真の友”という言葉の重さが、アシュレの胸には響いた。
信教と、属する国家、集団を別としても、たとえもし、仮に、そんなことがあるとは思えないし、考えたくもなかったが……敵として相まみえなければならなくなったとしても──友でいること。
そういう意味だ、とアシュレは了解した。
はい、と気持ちが言葉になった。
おう、とティムールが頷いた。
「それにしても、オズマドラの第一皇子、このままいけば次期皇帝の招請を蹴るんだ。そりゃもう、おたく、どっかの王になる、と宣言したようなもんだぞ? わかってるか?」
「え、えええええええ???」
ティムールのあまりに飛躍した指摘に、アシュレは飲んでいた茶を吹き出す勢いで声を上げた。
茶店の客と店員たちが思わず振り返る。
「いっ、いやっ、そんなっ、それはいくらなんでも飛躍し過ぎではっ」
だが慌てふためくアシュレに、なに言ってんだコイツ、というかんじでティムールが言った。
「おたくの言ってたことを、具体的にするとそういうことじゃねえの? 自分の責任で戦争できるのは“王”だけだぜ? 自分に属する集団の責任を取ることができるのも、な?」
言われてみればその通りかも知れなかった。
知れなかったが、アシュレ自身はそこまで大それた考えを、具体的に持っていたわけではないのだ。
いや、もしもっと突き詰めて考えたなら、やがてそこへ辿り着いたのか?
そうなのかもしれない、とアシュレは思う。
「そのために、ずっとオレに張り付いてたんじゃないの? 財務管理と物資調達の見学と実地訓練で?」
虚を突かれてアシュレは赤面した。
好奇心に突き動かされたのが最大の理由だが、その好奇心がどうしてそこへ向いたのかまで、アシュレは考えていなかった。
「おたくのおつむより、本能のほうが、どうすべきかをわかりつつある、って感じだなこりゃ」
存外、大物かもな、と器の格を見定める商人の顔になってティムールが言った。
アシュレはどう反応すべきかわからなくなって、ますます赤面する。
だが、たしかにアシュレは“王”になる、と宣言したことがある。
他ならぬシオンの眼前で、そして、トラントリムへの侵攻において必ず相対することになる敵──ユガディールに。
そうだった、とアシュレは思い出す。
シオンを我が領土と呼び、ユガディールの手から奪還するとき、たしかにアシュレは宣言した。
そうか、とわかった。
だから、軍議を飛び出したあの日、シオンが怒っていたわけを、アシュレはこのとき、本当の意味で思い知ったのだ。
わたしの“王”としてあってくれ。
そう言われたのだ、と。
シオンがアシュレにとってのそうであるように。
アシュレはいまごろそんなことに気がついている自分のバカさ加減に、思わず顔を覆った。
シオンが怒るのは当然だ。
そんな男でなくて、どうしてシオンが歩んできた数百年、暗渠の日々を背負えるだろう。
ともに歩んでいけるだろう。
シオンが望んでいるのは依存ではない。
ともに互いの背を守り合う、もうひとりの“王”としての存在、関係だ。
並び立ってくれる者のことだ。
「ボクは、大馬鹿者だ」
想いが言葉になってこぼれ出た。
そんなアシュレを見つめていたティムールが、不意に気がついたように言った。
「そういえばさ、アシュレ」
「はい?」
「おたく……かなり、美人だよね?」
「は、はいいい?」
動揺しまくるアシュレを見てティムールはケラケラと笑ったが、イクス教圏でもアラム教圏でも衆道は貴族階級の間では極端に珍しい趣味ではない。
エクストラムの聖堂騎士団のように本陣の防衛が主任務の場合はともかく、最前線の宗教騎士団では推奨されることさえある。
聖職者の結婚を認めるグレーテル派:カテル病院騎士団のほうが、むしろ例外なのだ。
余計な知識が動揺と狼狽を一層深め、アシュレは火が出るほど赤面した。
そこか、またそこなのか、と。
もちろん、ティムールの爆笑を誘うのだが。




