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燦然のソウルスピナ  作者: 奥沢 一歩(ユニット:蕗字 歩の小説担当)
第一話:降臨王のデクストラス
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■第一夜:薔薇の名前


 いかにすれば人体がそのような姿になるものか、シオンは知らない。


 そこは急峻きゅうしゅんな峰々を侍従とするイシュガル山のふもとに建立された、小さな祠だった。

 そのつつましやかなほこらの奥に、聖人は鎮座していた。

 生きながら食を断ち、身を清め、即身仏となった男の瞳がシオンを見下ろしている。

 死体であるのに、シオンは嫌悪を感じない。

 むしろ、崇高な理想に殉じた僧侶に対する畏怖が背筋を正させる。

 死者の視線には、慈愛さえ感じられた。


挿絵(By みてみん)


 夜魔の王——真祖のひとりであるガイゼルロン大公——スカルベリ・ベリオーニ・ガイゼルロンの所領、その国境をなぞるように走るイシュガルの山麓さんろくは、同時に夜魔たちの狩猟場でもある。

 夜ごと繰り返されるワイルドハントの獲物は、運の悪い旅人や、貴重な野禽やきんを追って迷い込んだ猟師と相場は決まっていた。


 到底、ヒトの赴くべきところではない。

 だが、教化のためか、あるいはこの地の平穏を祈るためにか、僧侶は単身、この異境の地に足を踏み入れたのだ。

 危険を知らなかった訳ではあるまいに。


 そうして、奉じる神こそ違えど、聖人に列挙されてしかるべき男がいまもうひとり、息も絶え絶えにしてシオンの膝上に頭を横たえている。

 先人の遺体に見守られて。


 ルグィン・ラディウス・パルディーニ。

 それが男の名だった。

 数年前までなら、イクス教の枢機卿すうききょう候補にその名を見ることができただろう。

 敬虔で民衆から慕われた徳の高い本物の聖職者だった。

 だが、いまでは異端として破門され、審問官たちにつけ狙われている。

 圧政者であったある夜魔の王のひとりを葬るため、シオンと共闘したとがで、だ。


「囲まれたようだな」

 ルグィンが口を開いた。

 両目に巻かれた包帯に血が滲んでいたが、その声は飄々ひょうひょうとしてどこか楽しげに聞こえる。


「やつらにこの聖域へ足を踏み入れる度胸などないよ。……すこし眠るがよい」

 わたしが見守っていようから。

 シオンは無意識にルグィンの髪をかいぐった。

「オレはもうダメだ」

 ルグィンが、まるで明日の天気を話すような口調で言う。

 その声があまりに自然体すぎて、シオンは、おもわず同意しそうになる。


 ルグィンは続ける。

「重要な臓器がいくつもやられているし、毒ももらっている。傷封じの貴石ジェムは使い切ってしまったし、霊薬エリキシルもない。《スピンドル》も回せない。お手上げだ」

 淡々と分析する内容が自身のことでさえなければ、冷静な男だとだれもが評しただろう。

 シオンは言葉に窮する。

 胸が詰まって声が出ない。


 こんなことは、三百年余の生で初めてだった。


「シオンザフィル、冷酷で鳴らした夜魔の王、その姫君がどうした? 同情でもしているのか?」

 傷が痛むだろうに、ルグィンは笑って見せた。

 気づかわれているのはわたしの方だと、シオンはそれでようやく気づいたのだ。


「そなたは口から生まれてきたに違いないよ」

「説教だけが取り柄でね。司教だけに……」

 ルグィンの軽口にくすり、とシオンは笑った。


 それでいい。

 ルグィンはつぶやく。手を差し上げる。

 シオンは頬に触れるルグィンの指を避けようとはしなかった。

 大事なものを預かるように自ら導く。


挿絵(By みてみん)


「いまは眠れ」

「オマエと話したい。眠ってしまったら、もう……目覚めない気がするんでね」

 その分析は正しい、とシオンは思う。

 個人の評価や現状の分析に感情を交えたりしないのが夜魔というものだ。

 そうして、ルグィンが言うようにシオンは夜魔の姫だった。

 スカルベリの娘=ガイゼルロンの第一王女。

 王位を継ぐのに性差など関係ない夜魔においては、紛うことなき嫡子ちゃくし

 その徹底した能力主義・現実主義の権化たる夜魔の王女が動揺していた。


 この男を失いたくない。

 胸を穿うがたれるような衝撃にシオンは震えた。

 しらず、ルグィンの首筋に牙を埋めようとしている自分がいた。


「だめだ」

 目など見えないであろうに、ルグィンは言った。

 その声は優しく、いたわりがあった。

 それでシオンは我に返ることができた。

「すまぬ。……赦せ」

「不死者たる永遠生、その苦しみから同胞を救いたい、と言ったな? シオン、だったら親父さんと同じてつを踏んじゃあダメだ」


 シオン、と初めて愛称で瀕死の男は彼女を呼んだ。

 直後、ぼろり、と大粒の涙がシオンの瞳から、こぼれて落ちた。

 それはとめどなくあふれてきて、シオンは声を殺すことしかできなくなってしまう。


「すまぬ」

 もう一度、それだけ返すのが精一杯だった。

「オレこそ、最後までつきあえなくて悪かったな」


 ごうごうと風の鳴く音がした。

 嵐の晩になるのだろう。

 ほこらこも蜜蝋みつろうの香りが、黄泉路へ旅立とうとする男をいたむかのようだ。


 シオンは天を仰いだ。

 そうやって涙を止めようとした。

 ルグィンの意を汲んだのである。

 笑っていろ、とこの男は言うのだ。

 辛気臭い末期はごめんだ、と。

 応えてやりたかった。


「心残りはないか」

 だから努めて平静に訊いた。ルグィンらしい返答がきた。

「ありすぎる」

「そなた、坊主のクセに邪念が多いぞ」

 シオンは笑う。

 それから言った。


「ひとつぐらいなら、叶えてやろうかと思ったのに」

 なにか、ないのか。シオンは訊いた。

 ルグィンは神妙な顔をする。

 真面目くさった調子で、返答した。


「シオン……オマエを抱いときゃよかった」

 一瞬、シオンは呆然とした。

 それから火が出るほど赤面する。

 重傷の男を殴るわけにも膝枕を外すわけにもいかず、オロオロと動転した手が空を切る。


挿絵(By みてみん)


「冗談だ」

 にやり、とルグィンは笑い、その直後に吐血した。

 血に溺れ、苦痛にのたうつ。

 そうしながらもシオンに呼びかける。

「オレが死んだら、オレの剣を、オマエに預けたい」

 言いながらルグィンは壁に立て掛けてあった剣を指さした。


 ぞ、と全身が総毛立つのをシオンは感じた。

 それはこの祠の主、即身仏となった僧侶から感じた畏怖とは別種の恐れだった。

 純粋な恐怖。

 夜魔の眷族は触れただけで皮膚がただれ落ちる武具が、そこにはあった。


 聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉。

 気高き薔薇ばらよりもなお完全な、真実の薔薇ばら


 甘美なその名からは想像だにできぬ凶悪なシルエットがそこにはある。

 尖端に向かって広がる大剣は、その名の通りバラの花弁を吹き寄せて作ったようなカタチをしていた。

 いくつもの刃を繋ぎ合わせてやっとひとつの剣のカタチにこしらえた、そういうフォルムを有していた。

 ひび割れ、壊れかけたようにも思えるそのブレードは、しかし、その実、一枚一枚が冷酷に計算された対不死者専用の兵器だったのである。


 不死者との戦いでは、定命の者同士の間で起こる闘争の常識を捨て去らなければならない。

 どれほど鋭い刃で急所を貫こうとも、不死者は止められない。

 心の臓を突こうとも、脳まで達するほど剣を突き込もうとも、ましてや大動脈を裂いた程度では、傷のうちにさえ入らない。

 不死者を葬るには、その肉体を最低でも切断・両断してこそ意味がある。


 いや、それでさえも上級の夜魔となれば生ぬるい。

 信じがたい速度で復元される肉体をなんらかの方法で阻害せぬかぎり、夜魔を滅することはできない。

 シオン自身がそうであるから、わかるのだ。

 夜魔の王族をほふるには、ただごとならぬ準備が必要だった。


 しかし、聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉は、その難事をいともたやすく可能にする。


 その一枚一枚が手斧の尖端ほどもある刃を備える大剣は、触れるや否や、熱せられたナイフがバターを切るように易々と夜魔の肉体を切断した。

 そこまでならば業物の剣と秀でた使い手であれば可能であったかもしれない。


 だが、〈ローズ・アブソリュート〉の真の恐ろしさはここからだった。

 切断の容易さとまったく同じように聖剣の刃は折れる。

 いや、正確には折れるのではない。

 能動的に刃を相手の肉体に残すのだ。


 残された刃は組織を破壊し続ける。

 抜くことは夜魔にはできない。

 触れるだけで溶け崩れる聖剣の断片を除去するには、聖別された品に害されないだれかの助力が必要だ。

 たとえば人間の。

 そうやって聖剣は不死者を葬る。

 折れた刃は、瞬く間に生え揃う。


 だから、シオンの先ほどのセリフは嘘だった。

 やつらにこの聖域に足を踏み入れる度胸などないよ、という。

 やつらが真に恐れたのは〈ローズ・アブソリュート〉と、その使い手だった。


 そしてまた、その恐怖はシオンにもあった。


「わたしには……無理だ」

「オレが死んだことがわかれば、やつらは一気に押し込んでくる。時間がないッ!」

 ルグィンは吠えた。

 シオンはかぶりを振る。

「触れることなどできない!」


 本能的な怯えにシオンは身を震わせた。

 いや、たとえ眼前に敵として〈ローズ・アブソリュート〉と対峙することとなっても、これほどの動転をシオンは見せなかっただろう。

 まさか、自身がその剣を握る日さえこなかったら。

 そうして、ルグィンの提案が意味するところの事実に、先回りしてたどり着いてしまうほど聡明でさえなかったら。


 はたして、ルグィンはシオンの思った通りのことをした。


 シオンの白魚のような右手を自身の胸元に。

 その左手には研ぎ澄まされた短剣を握らせて。

 それから言った。


「作るんだ。オレの肉体からだで。皮で。グローブを。聖剣を握るための武具を!」

 生皮を剥げ。オレが生きているうちに。悲鳴はオレの生存をやつらに誇示するだろう。

「急げッ! シオン!」


 わかりたくない、とシオンは首を振った。

「そなたの苦しむ姿を、そなたに辱めを——拷問を加えろと、そなたは命じるのか」

「生きろ! シオン! 同胞を救え!」

 いやだ。子供のようにシオンは首を振った。

「そんなことをするくらいなら、そなたと、ともに死ぬッ!」


 どこにそれほどの力が残っていたのだろう。

 シオンの告白に、ルグィンは掴みかかり、包帯を外して応えた。

 眼窩に眼球はなく、血溜まりから赤黒く凝固しかけた血液が流れ落ちる。

 懇願するように言った。


「オレの言う通りするんだ、シオン。……オレに、オマエを護らせてくれ――最後まで」

 約束しただろう?

 シオンは慟哭する。

 生涯ではじめて。

 たぶん、これが最後の。


挿絵(By みてみん)


 心が砕けても構わない。

 わたしは、約束を果たす。

 誓う。

 故人に。


 わたしは同胞を救う。







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